【ゴースト・ハント】降誕祭

まいどまいどの渋谷サイキックリサーチ。
「うぉーい、麻衣、コーヒーおかわりっ!」
「人のオフィスに呼ばれもしないのに来て、なにえらそーにしてんの。たまには自分でいれなよ、ぼーさん」
「あ、麻衣ちゃんが冷たい。おじさんは悲しいぞー」
 わざとらしくひがんで見せるぼーさんに溜息をついてあたしは給湯室に向かった。
「あ、あたしカフェオレ!ミルク多めにしてねっ」
 追い討ちをかけるように綾子の声。まったくいい大人が昼間っからどーしてこんなに呑気にしてられるんだろうね。
 太平楽のきわみみたいな三人(つまり、ジョンも来てるわけ)とはうらはらに、あたしはもっかシビアな問題に直面している。それは……。
「なにこれ。会社案内?」
 カフェオレを差し出すあたしに、綾子がソファの上に束になってるそれを拾い上げて見せた。
「ん、綾子、知ってる会社ある?」
「あんたのなの?これ」
「そう。綾子、コネないかな」
 綾子個人の性質はともかく、いちおう大病院のご令嬢なんだからあるかもしれない、と思ったわけよ。
「いんや、知らない」
 あっさり言われてちょっとがっかりする。やっぱそうそううまい話は転がってないか。
「え?麻衣さん、転職しはられるんどすか?」
 すっとんきょうな声を挙げたのはジョンで。
「そーか、そーか、ついにナル坊のあの性格に嫌気がさしたか」
 納得顔でおおげさにうなづくのはぼーさん。
「ぼくが何か?」
 そして背後でつめたーい声。われらが所長は今日も今日とて御機嫌うるわしい。ひんやりした空気が周囲に漂う。
「いやぁ……ナルくん、いたの?」
 しらじらしくぼーさんが頭をかく。
「ここは、”ぼくの”オフィスなんですが、滝川さん」
 あ、また気温が下がった。
「いや、なにね。麻衣が転職するらしいんで……」
 こらっ、勝手に人をひきあいにだすな。ほらー、ナルの視線が痛いじゃないか。
「誰が、転職よ、ぼーさん。あたしのはれっきとした『就職』。ここは『アルバイト』なんだから。今年の卒業を間近に控えて、あたしは現在就職活動中なの」
 あ、と全員が声をあげた。
「そっかー、すっかり馴染んでるから忘れちゃってたけど、あんたアルバイトだったのよね」
「心霊調査ができて、霊視ができて、幽体離脱までできるアルバイト……天下無敵だな」
 ぼーさんがなんでか感心したように言うと、
「ただし、寝ぼけてるときだけだ」
 すかさず冷たいナルの一言。
「じゃあ、麻衣さん、来年になったらやめられはるんですか」
 ありがと。残念そうに言ってくれるのはジョンだけよ。
「ん……多分。」
 ほんとはやめるつもりなかったんだ。調査員の肩書までもらっちゃったことだし、今だってちょっとした安いOL並みにはもらってるんだから、学校がなくなって一日中詰めていられるようになったら、収入面でも何とかやっていけるかな、と思ってたし。
「ナルも来年にはイギリスに帰っちゃうんでしょ。淋しくなるわねぇ」
 珍しくも綾子がしんみりした口調で言うと、ぼーさんとジョンもなぜか黙り込んでしまった。
 そうなんだ。あたしがまっとうな就職を考えはじめたのも、殆どそれが原因なんだよね。

 ことの起こりは1か月前。SPRの重鎮のドリー博士という人が引退することになったことから始まる。サー・ドリーという敬称で知られるこの人は、ナルの師匠で。超心理学と、宗教学と哲学と人類文化学と精神病理学と……とにかくいろんな博士号を持ってるえらーい学者さんで、SPRの中でも「長老」とあだ名されるくらいの人らしいんだけど、寄る年波には勝てず、このほど引退を表明。この人がSPRで兼ねていたいくつかの役職を順繰りに補っていった結果……当然ながら人手が足りなくなってしまったわけよ。それで新進気鋭の若き天才博士、われらがオリヴァー・デイヴィス教授も呼び戻されることになってしまった、というわけ。
 「渋谷サイキックリサーチ」……ほんとのところはSPRの日本分室自体はナルの出したレポートのおかげで残されることが決まったけど、ナルもリンさんもイギリスに帰っちゃってかわりの人が来るみたい。まどかさんならまだよかったけど、まどかさんもフィールド・ワーク研究室のチーフから室長に出世したんだそーな。
「あーあ、それじゃあ今までみたいにコーヒー飲みにくるわけにもいかんわな」
 ぼーさんの声もどこか淋しげで、オフィスはなんとなくしんみりした空気に包まれた。
 あと半年。あと半年たったらもうこんな風にここでみんなとおしゃべりしたりふざけあったり、それでナルに皮肉言われたりすることもなくなっちゃうんだ。永遠に続くと思ってたわけじゃないけど、でも、もう少し続いていてほしかった楽しい時間。
 まるでお祭りみたいなこの時間ももうじき終わる。

 憂鬱な気分で、あたしは本日届いた資料のラベリングをしていた。こんな気分の時にはこういう単調な仕事は返って救いになる。何も考えずに手だけ動かしていればいいから余計な思考もシャットアウトできるから。
 ふと顔を上げると、棚に一列に並んだファイルが目に入った。背表紙に丁寧に書き込まれた自分の字を見ているうち、ぼんやりと寂しい気分になった。来年の今頃にはこの中に違う人の字が混じっているんだろうな。そしてそれを見る人もまた今ここにいる人達ではありえない。
 なんだかなぁ……。
 時間というのはこうして人を置き去りにしていくんだな。
 なんてことを考えていると、正面の扉が開いてナルが顔を覗かせた。
「麻衣、お茶」
「はーい」
 ちょっと気の抜けた返事をしてあたしは給湯室に向かう。資料室の扉が開いた音がしたからリンさんも出てきたんだろう。紅茶を三人分入れて、あたしはソファに腰を下ろした。ちょっとしたティータイム。でも、相手がナルとリンさんじゃ会話が弾む、なんて事はあり得ないのだ。ナルは相変わらず横文字の本を手放さないし、リンさんに至っては周囲に人がいることすら忘れているんじゃないかと思うくらい。あたしも自然無口になっちゃう。以前ならこういう時間が持てただけでも嬉しいと思ってたんだけどね。なんかもうじきそれもなくなっちゃうかと思うとみょうにセンチな気分になっちゃうのさ。
「麻衣、就職先は決まったか?」
 ところが、今日は珍しくナルが声をかけてきた。ちっとは気にしてくれてるんだ、ふぅん。
「んーん。まだ全然。世の中不景気なんだよねー」
 この間綾子にコネないかって尋ねたのはまんざら言葉のアヤってわけでもない。実際今のところ条件にあうようなのは全滅。何しろ社会人ともなれば今以上にお金もかかるし、最低一人暮らしできる程度のお給料出してくれる会社を探さなけゃならない。でも、今の世の中学歴もない、高卒の女の子にそれほどいいお給料払ってくれる会社なんてそうはない。
「……そうか、それなら」
 言って、一口紅茶を味わう。
「んー?」
「一年程イギリスに行く気、ないか?」
「へっ?」
 イギリスぅ? イギリスっていうと、あのイギリスよね。ダイアナさんとチャールズ皇太子がいて、ロンドン塔があって、シャーロック・ホームズがいる……いや、いないか。あたしは驚いてまじまじとナルを見返した。リンさんも少し驚いた表情でナルを見ている。
「麻衣は今、ここで調査員の肩書でバイトをしているわけだけど」
 ナルは紅茶のカップを戻すと、長い足を組み直した。
「実は『SPR』の正式な調査員ってわけじゃない。『SPR』の規定に照らすと、正式には「現地所長の裁量 に任された最低補充現地要員」というやつで、つまりアメリカのSPR……ASPRが独自に大学の学生なんかを研究助手として雇うのと同じ扱いなんだ。その場合、給与規定では「準調査員」として正式な研究員とは区別
されてる。ありていに言えば、正式な調査員の給料はSPRから出る。準調査員の給料は各部署の経費から出る。当然、額も違う。」
「うん」
 そういえば、ナルの場合は「とある人」から年間十万ポンドの寄附金が出てるんだっけ。どうもその「とある人」っていうのは以前ナルが息子さんを助けたというアメリカの大富豪さんで、その人自身は何年か前に亡くなっちゃったけど、信託基金という形でナルが死ぬまで出ることになっているらしい。まどかさんの話じゃそういう人は他にもいるって話で、ナルいわく「見る目のある方というのはいらっしゃるもので」だそうだ。じゃあ、あたしの今までのバイト代もそこから出ていたのかなぁ……。
「正式な調査員になるには二通りの方法がある。」
 ナルが人指し指をぴっと立てた。長くてきれいな指。
「まず、大学で超心理学、宗教学、もしくは精神分析学なんかを専攻して、最低博士過程を経たのち、SPRの人員補充の際に申請書を提出して「就職」する方法。ただし、この場合はまず、博士号を持つ人間の推薦状と、SPRが課した論文と試験に合格する必要がある。僕やジーン、リンやまどかはこの方法で入っている。ただジーンの場合は霊媒としての能力を買われたんで、そういった能力を公認された人間は試験は免除されてるけど。」
なるほど。確かに心霊研究なんて実際、そういう能力がある人間がいなけりゃ話にならないもんね。けど、じゃあナルの方は12歳で、論文書いて、試験パスしたってこと? それだけで既に人間じゃねーな、こいつは。天才、ね、はは。
「もう一つは準調査員としてSPRに所属する機関で働いた後、SPRの課した一定のカリキュラムをこなして学位 を取得し、正式な調査員に昇格する方法。ただし、この場合の条件は準調査員としての経歴が1年以上あることと、現地所長の推薦があること。麻衣の場合は調査員になったのが今年の2月だから、来年の3月には資格ができることになる。ちなみにそのカリキュラムはイギリス本国のSPR所属の研究所でなければ取得できないことになっていてその間の費用は、それまで所属していた支部の経費から研修費という形で落とされる」
 つまり、あたしには高校を卒業したらその資格ができるって事で、それでナルが推薦してくれたら費用も見てもらえるってこと? あ、でも……
「でもさ、ナルは来年にはイギリスに帰っちゃうんでしょ? そしたら現地所長の推薦……っていうのは無理なんじゃ……」
「申請書を事前に出す分には問題ない。もちろん、麻衣にやる気があればの話だけど?」
 一瞬、あたしは考えた。イギリスに行くとなれば、向こうは当然英語。日常会話もままならないあたしが、ナルの今読んでるような横文字の本を相手に格闘することになるのだ。おまけにそうなったらぼーさんや綾子たちにもそう気軽に会えるってわけにもいかなくなる。それだけじゃない、日本にいる友達みんなとも。それにSPRなんて世間一般に受け入れられにくい組織に就職しちゃったりしてだいじょうぶか? 一生のことにつながるんだから、もっと慎重に考えて……
「やる」
 慎重に考えて、という心の声に反して、あたしは明確に返事してしまっていた。いいじゃないか。世間一般 のことなんて。あたしにとってはこれは千載一遇のチャンスなんだ。そう、会えなくなるったってたった一年のことだ。離れてたって手紙も書けるし、電話もできる。
「いいんだな?」
 ナルが確かめるように念を押した。その視線であたしの心は決まった。
「うん。あたし、イギリスに行って『SPR』の調査員になる。」
 学校の先生に進路を聞かれたら、あたしはこう答えよう。反対されたって平気。あたしはもう決めたんだ。SPRの天才博士の推薦もあるしね。
「わかった」
 ナルは一言いった。リンさんは何か言いかけたけど、結局何も言わなかった。それっきりあたしたちは何の会話も交わさなかったけど、あたしの心はどきどきしていた。少しばかりの期待と不安、そして高揚感。新しい世界の扉がそこに開いた、みたいな。
 終わったお祭りは、実は降誕祭だった。誕生おめでとう。そして新しい人生が始まる。

 それから一時間程仕事して、あたしは家に帰った。憂鬱な気分はどこかに吹き飛んでいて、ちょっと回りのことなんか見えてなかった。だから、ティータイムの後ずーっと考え込むような顔をしていたリンさんにも気がつかなかった。リンさんが、あたしが帰った後でナルと交わした会話のことも、当然。

「ナル」
「ん?」
「準調査員が調査員に昇格できるようなカリキュラムなんか、いつできたんですか?」
「……」
 ナルの返答はない。
「SPRの連絡文書には目を通しているつもりでしたが、ちっとも知りませんでした。」
「……だろうな。ぼくもたった今まで知らなかった」
 思わず、彼を振り返ると、SPRの日本支部長は憮然とした顔で、たった今忠実なアルバイトが帰っていった扉が揺れているのを見ていた。
 自分がなぜあんなことを申し出たのか、どうやら彼自身がいちばん納得できないでいるらしかった。

<SPR-England>

「麻衣ちゃん、お願いがあるんだけど」
「はにゃ? お願い……ですか?」
 いきなりまどかさんにそう切り出されてあたしは背後を振り返った。
 ケンブリッジの並木道が見える窓際はあたしのいちばんのお気に入り。午後3時のティータイム。風にのって運ばれてくる金木犀の香りをゆったりと楽しんでいた……のだが。
「そう、あなたにしかできないことなの」
 まどかさんはめずらしくも遠慮がちだった。この人がこういう態度に出るってことはよっぽど難しいかめんどくさいかで、かつあたしにとっては災難である可能性が高い。
「……なんでしょうか」
 自然あたしの態度も及び腰になる。
「実はね……麻衣ちゃん……」
 まどかさんは上目遣いにあたしを見ながらようやく切り出した。
「ナルの秘書になってくれない?」
 ……………………。
 は……?
 たっぷり3秒間、あたしはまどかさんの顔をまじまじと見つめ、黙り込んでしまっていた。
「あのぅ……ひょっとしてそれが『お願い』なんですか?」
「そう」
「ナルの秘書になれって?」
「そうなの」
 …………。
 よくわからない。それってそこまで腰を低くして『お願い』される程大変な仕事なのかなぁ?
「でも、ナルには専任の秘書がいたはずじゃあ……」
「やめたの」
 まどかさんの答えはこれ以上ないくらいきっぱりしていた。
「あ、そ……まぁ……確かにナルのあの性格につきあうのはたいへんだったかも……」
 ナルの傍についてるの一度見かけただけだけど神経細そうな人だったもんなぁ……真面目そうだったし。
「そう! そうなのよ!」
 まどかさんがここぞとばかりに声を張り上げた。
「麻衣ちゃん、ナルの秘書、これで何人目か知ってる?」
「えーと、待って。あたしが知ってるのは、ひぃ、ふぅ……3人かな?」
「はずれ」
「はずれ?」
「これで18人目なの」
 目の前に立てられたまどかさんの両手の指は下1ケタの8を表しているらしい。
「じゅうはちにん~?」
 あたしも思わず声を上げていた。そりゃまた随分……。
「そう。この半年で18人よ、じゅうはちにん。一番長く持ったので、この間の人の1ヶ月2週間と16時間。最短記録はなんと3時間」
 ありゃあ……。あきれて声もでないとはこのことだね。ナルの人使いの荒さと罵詈雑言はたしかに初対面の人間にはつらいかもな。それにしたって根性なさすぎるぞ、みんな。
「なんて言うのかしら、ほらナルはあのとおりの性格でしょ。おまけにSPRに入ってくる人達はみんなそれぞれ博士過程を卒業したエリートばかりだから。なまじ優秀なばっかりにナルのあの態度と才能に打ちのめされちゃって……」
 あぁ、そうか。しかもナルはまだ19才。自分より5つ以上も年下の人間に顎で使われるのも面白くないんだろうな。
「はっきり言って希望者はいるの。もう、それこそ引く手あまたっていってもいい」
「……そうなんですか?」
「だってナルはSPRじゃ一目おかれる天才児だしね。実力は誰もが認めるところだし。おまけにあの美貌。SPRの女性職員のほとんどが希望してるといってもいいくらい。ただねぇ……」
 言ってまどかさんは大きな溜息を一つ。
「どれもこれも長続きしないのよ。実際のところ、胃に穴開けちゃった子までいるくらいでね。実はこの間の人がやめた原因も神経性の胃炎が原因なの。いいかげん人事の人間も困り果ててるのよ……」
 まどかさんがちらりとあたしを見た。なんか気になる視線だな。
「それでね、あたしつい言っちゃったの……」
 まさか。
「この間日本から来た子はナルの下で2年も勤め上げたのよ、って」
 何のことはない。まどかさんはあたしを人事に売り込んだのだ。本人の承諾なしで。
「…………」
 あたしが黙っているとまどかさんはなおも言い募った。
「悪い話じゃないと思うの。なにせ秘書なんていったって仕事は今まで麻衣ちゃんが日本でしてたことと変わらないもの。ナルのところに届く本やら資料やらをまとめてファイルしたり、ナルが必要な資料を揃えたり、論文を清書したり、ナルが受け持ってる研究室の人達に連絡入れたり、スケジュールを調整したりって程度。それだって基本的にナルは自分のことは自分で決めるから麻衣ちゃんは、ただナルの言うとおりにしてればいいだけ。その上ナルに勉強みてもらえれば一石二鳥でしょ?」
 いや、それは無理だと思う。あのナルが人に物を教えるほど親切な性格なもんか。
 まあ、確かに仕事内容は楽そうだけど、それでも18人の人が逃げだしちゃってるわけだね。
「だめかしら?」
 まどかのお願い、ってな感じで両手をあわされちゃうと断りにくいんだよぁ……リンさんが言ってたけど、まどかさんってほんとーに頼み上手なんだ。
「別に、いいですけど」
 しかたないって感じであたしが承諾すると、まどかさんの表情がぱぁっと明るくなった。
「ほんとにぃ? 助かるわぁ、麻衣ちゃん。それじゃ早速行きましょ」
 足取りも軽やかにとっととあたしの腕をつかんでひっぱっていく。
「ちょっ、ちょっとまどかさん。いったいどこへ」
「決まってるでしょ。まず、人事部。それからナルのところよ」
 どうやらほとんど事後承諾の形で話は進んでいたらしかった。

 人事部では随分と感謝された。あたしもここへ来た当初一度会ったことのある人事部の課長さんは、まどかさんがあたしを紹介するなり、がしっっ、てな感じで手を握りしめ、もう半泣き状態。
 以前会った時と較べると、かわいそーなくらい疲れ果てたような印象だ。
 度重なる面接試験と、ナルとの折衝役で、いちばん胃に穴をあけそーなのは実はこの人らしい。
 まどかさんが、あたしが2年間ナルの部下をしていたこと、そして何よりナルの推薦でここに来ていることを重ねて説明すると、もう安心だとばかりに顔色まで生き生きしはじめていた。
 しまいにゃ人事部の他のメンバーまで集まってきて、あのナルとどうやって2年間つきあってきたのか、何かこつでもあるのかと、興味津々で質問攻めにあってしまった。
 こつって言われりゃ、ナルとつきあうにはたった一つしかない。
「押しはとことん強く。遠慮は無用の長物」
 このモットーを守って、何を言われようとめげないこととだ。
 これをあたしはまどかさんから教わったのだ。まどかさん、人事の人達にも教えてあげればよかったのに。

 ひとしきり感謝の言葉と興味の視線を浴びた後で、あたしは早速ナルのところに連れていかれた。
 部署違いの(ちなみに今のあたしはフィールドワーク研究室所属。まどかさんの部下なのね)ペーペーのあたしが普段全く立ち入ることのない、理論の分野の研修室が集まる棟は、新しく増設された8階建ての白亜の建物だ。
 その最上階の一室にナルの部屋はある。
 あたしはちょっと緊張してしまった。
 だって実際のところナルと口をきくのは実に、半年ぶり。
 つまりこっちへ来てからまともに顔を合わせたのはただの一度っきりなんだ。
 入所手続きが終わってまどかさんに引き渡された後は一回も会ってない。遠くから何度か見かけたことはあるって程度。
 どうしているか様子を見にくるとか、慣れない外国暮らしで気を遣ってくれるとかいうことは、全然、全く、一度も、ない。
 ナルのご両親は、何度かあたしを夕食に招待してくれたことがある。
 なのに、その時はいつもナルは研究で忙しいと不在。その度にルエラさんは実に申し訳なさそうに気を遣ってくれるんだ。全くもう。なんて親不孝なやつなんだろ。
 リンさんでさえ、週に一回はまどかさんともども食事に連れてってくれたりするというのに。もっとも、これはもしかしたらまどかさんが無理やり頼み込んでいるのかもしれない。
 あたしは今現在まどかさんと一緒に暮らしているんだけど、まどかさんは有能そうなその外見に反して、精密機械同様、調理器具の扱いもあまり得意ではない。
 だから、料理は大抵あたしがつくってる。
 ルエラさんにレシピもらったり、綾子にFAXで教えてもらったりしてるおかげで日本にいたころより随分上達した。
 それでも毎日はつらいだろうってんで週に一、二度は外食してる。
 リンさんは実は華僑系のちょっとしたグループの御曹司なんで、結構、格式の高い、おいしい店に顔がきくんだ。車も持ってるしね。
 驚いたことに黒のポルシェだ。
 どうみてもリンさんの趣味じゃないなと思ってたらやっぱりお兄さんが買った車のおさがりだった。
 それにね、リンさんと出かける時には、やっぱりおじゃま虫かなーなんて思ったりするんだな、これが。
 まどかさんは誰にでも愛想のいい人だから他の人はあんまり気がついてないみたいだけど、一緒に住んでるあたしにはわかる。
 まどかさんはリンさんに……なのだ。リンさんと出かける時にはまず化粧と服装にかける気合が違う。鏡の前でああでもないこうでもないと悩んでいるまどかさんは、年下のあたしがいうのも何だけどとってもかわいいと思う。
 一方のリンさんはどうかといえば、これはよくわからない。ことによったらナル以上に無表情な人だから、何を考えているのかはさっぱり不明。でも、嫌いじゃないと思うんだよね。
 だって、以前「日本人が嫌い」とまどかさんに言ったら「泣かれて困った」と言ってたから。うん、嫌いだったら困ったりしない。まどかさん、望みはあるぞ。がんばってほしいなー。

「…………それでぼくの秘書に、この無知な経験不足の、言葉もよく分からない人間をあてがうと?」

 久方ぶりに耳に飛び込んできた思いっきり無礼な皮肉にあたしははっと我に返った。
 まったく、相変わらず傲慢不遜なんだから。ちっとも変わってやしない。だけど、それがなんだか嬉しいってのは……なんだかな。
「は……あの……確かに経験不足、という点ではおっしゃる通りかもしれませんが……」
 人事の課長さんは額の汗をふきふき、弁明する。
 だーめだよ、そんな態度じゃ。こいつはますます増長するんだから。
「ナル、そう無理言わないで。あなただって、この3ヶ月で18人も秘書をやめさせれば十分でしょ」
「別に、僕がやめさせたわけじゃない。向こうが勝手にやめるんだ」
 まどかさんの言葉に冷たく答えて、ナルは資料を手に取る。これ以上話すことはない、って意思表示だ。
「以前お話した通り、ぼくに秘書は不要です。用があればぼくの研究室の人間を使いますから、お気遣いなく」
「いや、ですが……」
 その研究室の人間すら、あんたのその気難しい態度にびくびくもんで、しかもこの厳しい上司の納得する結果を出すために寝る間も惜しんで研究に没頭してるんだぞ。
 まどかさんと目があうと、まどかさんは、ね?というように肩をすくめてみせた。
 よーし、分かった。まどかさんと善良なるSPRの皆様のために、あたしが人身御供になりましょうっ。
 健気にも決意してあたしは息を一つ吸い込んだ。久方ぶりの挨拶でこんな耳の痛いこと、あたしだって言いたくないんだからね。
「あたしよかずーっと有能な秘書を神経性胃炎にまで追いやったのはナルでしょ。他になり手がいないんだからしょーがないじゃない。それに研究員、てのは研究するためにいるんであって、ナルの雑用のためにいるわけじゃないんだから。それとも何ですか。デイヴィス博士は有能な研究員たちに研究よりお茶汲みとファイリングをさせることの方がSPRのためになるとおっしゃるんですか」
 思わず啖呵を切ったあたしに、ナルは始めて資料から顔を上げてあたしを見た。
 横では人事の人がぎょっとした顔をしている。
 彼にとってはオリヴァー・デイヴィス博士はSPRのVIPなんだから無理もないけど、あたしにとってはナルはナル。
 今さら雲の上の存在なんて思えないもの。
「ほう、ミス・タニヤマ。あなたはいつからぼくに意見できるような立場になったんですか?」
「意見なんてしてないよ。あたしは事実を言ってるだけだけど?」
 ナルの皮肉な口調にあたしはしれっとした顔で応じてやった。ミス・タニヤマ、なんて言われたことで少し怒ってもいる。ひょっとしてナルの方も『デイヴィス博士』なんて呼んだ仕返しなのかもしれないけど。
「別に、ナルがお茶汲みもファイリングも資料集めも、それからしつこく申し込んできてる講演依頼やらテレビや雑誌の取材やらインタビューやら、警察からかかってくる協力要請やらの相手もぜーんぶ自分でやって、そのあげくに研究時間が今までの半分以下になってもいいんなら、秘書なんていらないと思うけど? 人事部の人だって、そんなことになったらSPRにとっては多大な損失だと思うからナルに秘書をつけようとしてるんだよ? 別
にナルに楽させるためにわざわざ18回も募集と面接と試験を繰り返してるわけじゃないんだから。そのへんのところを一度ご検討頂ければと思うんですが、デイヴィス博士?」
 多分いちばん効いたのは、『マスコミの相手』、と『研究時間が半分になる』の部分だと思う。
 しばらく苦虫を噛みつぶしたような顔であたしを見ていたナルは、やっと溜息をついて人事の人に「この秘書で結構です」と言ったのだった。やれやれ。

 秘書、なんていったって結局やってることは日本にいたころと変わらない。
 お茶いれて、資料を集めてファイリングして……。違ってることといえば外部の人とナルとの仲介役、という役目が加わったことくらいだ。これはやってみて分かったんだけどナルとコンタクトを取りたがってる人はほんとーにたくさんいる。サイコメトリストとしてのナルの力を借りたい、というのがその大半なんだけど、上はどこやらの王族だの警視総監だのから、下は小学校くらいの女の子まで、断りを入れるのがほんとにたいへんなんだ。
 それと後は講演やら執筆やらの依頼。ナルはご専門の超心理学だけでなく、精神病理学とか、宗教学とか人類文化学とかの分野でも有名らしくて、やれどこそこの大学で記念講演の講師をしてほしいだの、どこやらの出版社で出す本の執筆依頼だの……。
 もちろんナルの返事はほとんどがNO。
 とりつくしまもない、とはまさにこのこと。
 もしかして今までの人が続かなかったのはこれが原因なんじゃないだろうか。
 ナルはおよそ他人に気を遣うような人間じゃないからさぞかしストレスたまっただろう。
 あたしだってナルのこの性格に慣れてなかったら、それより何より、他人の、しかも既に死んでしまっているだろう人の記憶に同調するってことがどんなにつらい、苦しいことか実際味わってなかったらいやだっただろう。
 あんな思いは絶対に二度とナルにさせたくない。ちょっとくらいやってあげたら、なんて言葉は絶対に言えない。もしそんなこと言うやつがいたら、遠慮なく頬を張り飛ばしてやる。
 そんなケナゲな想いであたしは今日も、涙ながらに、かかってくる電話を断り続けているのだった。ちっとは感謝してほしいよね、全く。
 そんなあたしの思いがつうじたのかどうかは知らないが。
 スウェーデンのどこやらの貴族が催す降霊会への出席依頼という実に怪しげな誘いの電話をようやく切りおえて、あたしは机につっぷした。なんかどっと疲れたなー。本日はこの手の誘いがもう8件目。いーかげんにしてよね。ろくに他の仕事ができないまま、ほら見ろ、もう夕方じゃんか。
「麻衣」
「なーに」
 お茶なら自分で入れてよ。今はそんな気力はない。
「今日の予定は?」
「んー、本日の来客予定はもうありません。エンリョなく研究に没頭しててください、博士」
「違う、ぼくじゃない。麻衣の予定」
 ほえ? あたし?
「あたしはー……ナル次第じゃない? ナルが終わるといえば終わるし」
「だから、終わった後の予定」
「終わった後って……プライヴェートの予定ってこと?」
「そう」
 あたしはちょっと考え込んでしまう。まさか今からまたどこかにリサーチにいくとかいうんじゃ……。
「いちおー、ありませんです」
「一応? 麻衣、言葉は正しく使え。もう日常会話はできるようになったんだろう」
 そう、あたしってば今は職場ではナルともまどかさんとも英語で話しちゃったりしてるんだー。高校時代の英語の成績を考えるとものすごーい進歩だと思う。もうサル扱いさせないぞっ。へへん。
「んじゃ、特にありません。」
「まどかは?」
「現在スコットランドに調査旅行中。明後日には帰るって言ってたよ」
 あたしは今現在まどかさんとこに居候の身。フィールドワークの室長であるまどかさんは月の1/3は調査旅行で家を空けてる。ちょうど留守番役を探してたからって、いっしょに住むことになったんだ。おかげで家賃払わなくていいからだいぶ助かってる。なんせ苦学生の身だもんね。最低限の生活費はナルが経費として出してくれるけど、研修扱いだから正規職員ほどの給料はでない。まあ、貧乏には慣れてるけど。
「そうか、それじゃ」
 ナルは相変わらず本から顔を上げないまま。長い指がページをぺらりとめくるのが視界のはしっこにぼんやり映る。今日は疲れ果てちゃって何をする気もおきない。こんな日ははやく帰ってご飯食べて寝てしまうに限る。
「食事にいこうか」
 机につっぷしたまま、晩ごはん何にしようかなー、なんて考えてたあたしは思わず顔をあげて、まじまじとナルを見た。
「あたしと?」
「そう」
 ナルが初めて顔を上げてこっちを見た。多分初めて食事に誘ってくれたというのに、その顔には何の表情も浮かんでいない。せめて少し照れた顔でもしてみせてくれたらあたしも希望を持ってしまうんだけど。
「ど、どこへ?」
 どうして?と聞こうとして、あたしは質問を変えた。そんなこと言ったらじゃあ、止めたなんて言われそうで。
「どこでも。麻衣の好きなものを奢るから」
 奢るぅ!? あたしはあんぐりと口を空けてしまった。
 ナルが、あたしを食事に誘って、その上おまけに、奢る、ときたもんだ。いったいどうしちまったってのよ、天変地異の前触れか、はたまた世紀末の予兆か?
「い、いったい、どーゆー風の吹き回し?」
 驚きのあまり、とうとうあたしは日本語使っちゃいましたよ。こんなスラング言えるほど英語が上達してないせいもあるけど。
「嫌なら、いいけど?」
 ナルの声はあくまでもそっけない。いけない、いけない、こっちが引いちゃ。こんな時は黙って受け入れてればいいんだ。
「嫌だなんて言ってないよ。……そうだな、あたしソーセージと揚げたおイモが食べたいな」
「オーケー、ドイツ料理な。」
 ナルが微かに笑って本を閉じた。
 あたしもちょっと笑い返す。よしっ、元気が出てきたぞ。……我ながらげんきんだなぁ。内心舌を出しつつ、でもあたしは逸る心を抑えきれずいた。だって、これってリッパなデートじゃないか。

 浮かれた気分でコートを羽織って、家に電話を掛けにいったナルを玄関先で待っていると、久方ぶりに見覚えのある人が通りかかるのが見えた。
「リンさーん!!」
 黒髪の、限りなく縦に長い影がこちらを向いた。
「久しぶりですね、谷山さん」
「うん、久しぶり。今、帰りですか?」
「ええ、谷山さんも?」
「うん、そーなんだー♪」
 あたしの浮かれた声にリンさんは不思議そうに首を傾げてみせた。
「どうしたんですか? 何かいいことでも?」
「ふっふっふー、分かる?」
「ええ、それはまあ」
「あのねー」
 言いかけたとき、リンさんの視線があたしの背後に注がれた。
「ナル」
 振り返ると、あたしとは対照的に憮然とした表情のナルが立っていた。
 リンさんはそんなあたしとナルとを交互に見比べ、
「なるほど、そういうことですか」
 と納得した表情でうなずいた。
「ということは、まどかは今日は不在ですか?」
「うん、調査旅行中。明後日には帰るよ。」
 そうですか、と相変わらず読めない表情でこの日本人嫌いの中国人はうなずいた。まどかさんといい、あたしといい、望みのない恋をしてしまうのは日本人の習性なんだろうか?
「あのねー、リンさん」
 それでは、と素っ気なく立ち去りかけたリンさんの背中にあたしはもう一度声をかけた。
「はい?」
「たまにはさ、リンさんからも誘ってあげてよね」
「何をです?」
「まどかさんと食事に行くとき。いっつもまどかさんが誘ってるんでしょ?」
 頼み上手のまどかさん。日本から来たばかりのあたしを口実に、日本人嫌いを公言してはばからないリンさんに週に1度は食事を奢らせている。実のところ、リンさんもまどかさんの気持ちにはうすうす気づいてはいるんじゃないかなーとあたしは思っている。あくまでカンだけど。だから余計にまどかさんがかわいそうになっちゃうんだ。あたしの立場と重ねちゃうから余計に。
「……いつもではありません」
 少しの沈黙の後に、言われた一言にあたしは驚いた。
「そうなの?」
「ええ」
「リンさんが誘うことも……あるわけ?」
「3度に1度は」
「リンさんの方から?」
「そうです」
 しつこいくらいに確認するあたしにリンさんは嫌な顔一つせずに淡々と答える。うれしそうな顔もしないけど。
「そーなんだ……日本人、嫌いでも?」
 思わず目をぱちぱちさせるあたしにリンさんはようやく微かな笑顔を見せてくれた。
「別に不思議なことではないでしょう。……私は日本人は嫌いですが、まどかは嫌いではありません」
 嫌いではありません。
 ちょっとずるい言い方をして、リンさんはあたしたちに背を向けた。普段より足早に去っていく後ろ姿をぼんやり見送っていると、それまで会話に加わることなくすっかり気配を断っていたナルが、一言つぶやいた。
「照れてるな、あれは」
 さすが、長年の付き合いは伊達ではない。思わず感心してナルの横顔を見直したその直後、リンさんが舗道につっぷしているのが目に映った。どうやら転んだらしい。

 こっちに帰ってきてまず驚いたことは、ナルが車の免許を持っていたという事実だ。
 ジーンにつきあわされたんだと投げやりな声でナルは教えてくれた。
 日本と違ってイギリスでは16歳で免許が取れるのだ。
 ナルの家からプラット研究所までは車で約20分の距離。秘書になるまであたしは知らなかったが、ナルはちゃんと車で通勤してきていたのだった。
 なんというメーカーの車なのか知らないが、メタリックグリーンのスポーツカータイプだったので余計に驚いた。どういう基準で選んだのかと聞いてみると知り合いがくれたんだという。
「気前のいい知り合いがたくさんいて結構ですこと」
「人を見る目のある方というのはたくさんいらっしゃるもので」
 いつか聞いたのと同じせりふを返して、ナルはきりかえしなしでバックで駐車してみせた。運転も手慣れたもんで、意外というしかない。どんな顔して教習所に通ってたんだろ。
「なにぼーっとしてる。いくぞ」
 レディファーストの国の人間のくせに、ナルは先にたってさっさと歩いていく。
 あわててコートを羽織って追いかけると、ちょうど入口のところで追いついた。
 週末の店内は人が多かった。満員かもしれないと心配したが、やってきたウェイターはいちばん奥の窓際の席に案内してくれた。
 高そうなメニューとにらめっこしていくつかの品を注文すると、あらためて店内を見回す。
 溜息が出た。
 やっぱり注目されている。
 国が違っても美形は美形。とにかく人目をひくのだ、この所長サマは。本人もわかっているからこんな場所にくると他の席に背中を向けるようにして座るんだろう。
 そして迂闊に他人に声をかけられない雰囲気の店を選ぶのもまた同じ理由からだ。
 静寂をこよなく愛し、お知り合いになれてうれしいのは死んでいる人間のみというこの偏屈な上司は、昼のランチでさえ高級レストランに行くことを常としている。プラット研究所は、ケンブリッジのトリニティ・カレッジの近くにあるので、たいていの所員はそこの食堂に行く。なのにこの上司はお近づきになりたがる学生たちを避けてわざわざ高そうな店を選んで入るのだ。
 そんな彼が秘書とはいえ他人を食事に誘う、というのはもしかしたらSPR始まって以来の珍事かもしれない。
「麻衣、食べないのか?」
「え? あ、食べる」
 ぼんやり考えているうちに頼んだ品が来ていた。ちょっと赤面してナイフとフォークを取った。
 値段だけのことはある料理を頬張りながら、品よく少量の食事しかしない目の前の美形をあらためて観察した。
 睫毛が長い。額から頬、顎にかけての見事な流線型。薄い唇といい、日本人離れした(純粋の日本人ではないのだからあたりまえか)鼻の高さといい、額にかかる前髪といい、文句のつけようのない造作だ。見とれていると、ふとその視線が上がった。
「何を見てるんだ、さっきから」
「いや~。美形だなぁっと思って」
「それはどうも」
 この性格さえなきゃ。ま、今日はおごってもらってるんだから機嫌はとっといたほうがいいよな。
「やっぱー、人間、顔だよねぇ」
「…………」
「あたしも、もう少し美人だったらなぁ」
「そうかな?」
 ワイングラスを口もとにあてつつ、美貌の上司は首をかしげた。
「そりゃー、やっぱ美人は得だっつーじゃない?」
「顔で仕事するわけじゃないだろう、麻衣の場合は」
「そーそー、カラダが資本……ってみょーなこと言わせないでよ」
「そうじゃなくて」
ナルは溜息をついて中身のほとんど減ってないワイングラスを置いた。
「美人なんて人間の表皮と骨格のバランスの問題だ。本質には影響しない。本人が気にしさえしなければ」
「気にするよ、ふつー。」
「気にしない。自分に自信があれば」
 ……なんだろう。なぐさめてくれているつもりなんだろうかね。
「自信……ねぇ……」
 全く無いわけじゃないけど、絶対の自信があるわけでもない。自信の裏付けになるようなものがあるわけじゃなし。
「あたしの能力って、センシティブだっていったよね?」
 全然関係のないようなことをもちだしたんで、ナルは少し眉を上げた。
「そう。」
「害意のあるものに対して敏感だって」
「精神的な先祖がえり」
 悪かったよ。上目遣いに睨んでやっても、このマッドサイエンティストは涼しい顔だ。
 睨んだだけで言い返さないでいると、もの問いた気な視線が返ってきた。
「環境は人を変えるかな?」
 不意に投げつけた質問に、ナルはさらりと答えた。
「さあ? 僕は文化人類学者じゃないから」
「心理学、じゃないの?」
「心理学の立場でいえば、環境は一因になることはあっても主因とはなりえない。この前提がある以上、麻衣の質問に関する解答をだすことは心理学では限界がある。」
「わかるように説明してよ」
「無知」
「勉強中の身でして」
「つまり、生まれたばかりの一卵性双生児を10組くらい捜し出してきて、それぞれ違った環境で育てたとする。それぞれがばらばらの個性を持ったとする。じゃあ、双子でありながら違う個性に育ったのは環境のせいだ、と一概に言えるか?」
「……それは……言えない、と思う」
「そういうこと。例えば僕とジーン。双子で、育った環境も同じだ。でも僕とジーンは同じじゃない。」
 ありゃ、藪をつついて蛇を出してしまったい。
「心理学では、環境が人を変える、というのは前提条件なんだ。一人の人間の心理を研究するのが目的だから。これにたいして文化人類学では個体ではなく、集合としての人間を見る。文化圏単位で人間をとらえるから環境を主因と考える説も成り立つわけだ。」
 わかったような、わからんような。
「ん~と、そこまで大仰な話じゃなくて……つまり、サイ能力っていうのは必要に応じて身についてくるものだ、とは思わない?」
「……?」
「つまり……あたしがセンシティブになった理由」
「麻衣」
 強い口調で名前を呼ばれて、顔を上げたら、そこには少し怒ったような顔をしたナルがいた。
「それを言ったら両親がいない子供はみんなサイ能力者だということになる。確かに確率としては多いかもしれないし、そういう説がないわけでもない。……が、僕としては賛成はしかねる」
「ごめん。言い方、変えるね。つまり……あたしが言いたかったのは、害意のあるものに対して敏感っていうのは、臆病ってことと変わりないってこと。臆病だから自分に自信がないのか、自分に自信がないから臆病なのか。ナルには、答えが出せる?」
「わからない。それは僕の問題じゃない」
「分かってるよ……これはあたしの問題。……ごめん、へんなこと言った」
 それっきり、あたしたちは黙って食事をした。
 ナルは時々何か言いたそうな視線をあたしに向けたけど、あたしは故意に無視していた。ナルも結局何も言わなかった。

「ここでいいよ、ナル。」
 マンションの前で車を止めて、助手席から降りると、ナルもエンジンを止めて車から出てきた。どうやら部屋の前まで送ってくれるつもりだったらしい。
「ごめんね、今日はへんなこと言って」
「…………」
「忘れてくれると、うれしいんだけど。おごってくれてありがとう。とってもおいしかった、じゃあね」
 背中を向けてエントランスに入った時、ナルが追いついてきた。
「やっぱり、送っていく」
「いいよ、そんなの」
 ナルはかまわずに、エレベーターのボタンを押した。
「何階?」
「……6階」
 気を遣ってくれているのがうれしくて、とうとう降参してしまった。こういうのに弱いのは……臆病だからなんだろうな、やっぱり。
 人気のないフロアにエレベーターのチャイムが響いた。
 10歩も歩くと、扉の前だ。
「ナル、ありがと。ここでいいよ、ほんとに」
 止めようとするあたしを無視してナルはエレベーターから一歩踏み出した。そのままエレベーターは下に降りていく。
 あたしは、もう一回呼び戻そうと下向きの矢印ボタンを押そうとした。
 その手をナルがそっと押さえた。
 視界が、黒いコートに遮られて、気がつくとナルの顔が目の前に迫っていた。

「…………」

 耳元でそっと囁かれた言葉に、あたしは目を見張った。
「自信がついたか?」
 こくこくこく。馬鹿みたいに首を縦にふったあたしに、ナルは口元に微かな笑みを浮かべ、戻ってきたエレベーターの中に消えた。

 家の中に駆け込んで、後ろ手に扉を閉めると、一気に緊張がとけた。
 腰が抜けたように座り込んだあたしの頭の中で、さっきのナルの信じがたい程甘く低いつぶやきが反響していた。

「Lovin’ you…I want you…」

 押さえた耳たぶが熱かった。呼吸をする度に胸が熱かった。
 ほっぺたも頭の中も熱くて、熱くて、このまま焼死するかと思うくらい。
 なんとかベッドまで這っていったけど、当然眠れるはずなんか、ないのだった。

 翌朝、寝不足のせいなんだか、ナルの告白のせいなんだかよくわからない頭痛に悩まされながらあたしが普段よりちょっと遅れて出社した時刻には、ナルはしれっとした顔で書類なんかくっていた。
「おはよーございます……」
「Mornin’」
 丁寧な挨拶にもあいかわらずそっけない。
 昨日のことはただの気の迷いだったのか? まったく人が眠れない夜を過ごしたというのに、もー。
 ため息をついて、鞄を置いてコートをかける。
 あたしが席に着くのをみはからって、
「今日の予定は?」
 と、訊いてきた。
「んと、10時からトリニティ・カレッジで宗教学の講義。12時で終わって、13時からアメリカの心理学会の大会の打ち合わせ。それが終わったらフリー。あとそれに絡んでBBCから心理学の特番の出演依頼が来てるけど……どうする?」
「却下」
 そーでしょーとも。
「他には?」
「ございません。ただ今日、こないだのフランスでの調査実験のレポートの締切日でしょ? たぶん報告書が山積みになるよ」
「じゃあ、麻衣の方は閑になるな」
 ナルがおとなしく報告書に目を通してくれてる間はね。
「うん、多分。自分の勉強、やってていい?」
「ああ」
 やった。実は今週中に人類文化学のレポートあげなくちゃならないんだ。
「ただ……麻衣」
「んー……?」
「昨日の返事も考えておいてくれ」
 どくん、と心臓が跳ね上がった音がした。
「き、きのう……?」
 ぎくしゃくと振り返った先には書類から顔を上げようともしないナル。
「そう。夕べの」
「ゆ、夕べ……」
 夕べっていうとやっぱ、アレだよね。
 うわーんっ、なんでこんなに冷静なんだ、こいつはっ。ふつー逆のはずなのにぃっ。
 完璧にパニック状態に陥ったあたしを後目にナルはすたすたと資料室に姿を消した。

 さあ、なんて答えよう?