danger zone

薄暗いデッキの隅にうずくまり、川井静香は頭を抱えていた。
照明のない夜間の飛行船の船内。
右を向いても左を向いても視界に映るのは無機質で冷たい鉄製の架橋ばかり。
窓から差し込む月明かりだけではいかにも心許ない。
入り組んだ細い通路は同一規格で作られたが故にいやでも類似の相形をなし、微妙な差異をなおさらわかりにくくしている。

―――ああ。

ため息をついてまた頭を抱えた。

―――どうしよう。15才にもなって迷子になってしまうなんて。

我ながら情けないとしかいいようがないが、何せ彼女がまともに視力を取り戻したのはほんの数時間前のことである。
明るい世界で目を慣らす余裕もなく、こんな間違い探しのような場所に連れてこられた。
同じような扉や階段ばかり並んでいるから悪いのよと見知らぬ設計者を責めてみたところで人っ子一人いないこんな場所でどうすることもできない。
「お兄ちゃん………」
心細さにぽつりとつぶやいたときふいに声がかかった。

「誰だ。そこで何をしている」
落ち着いた、けれど威圧的な声だった。
視線を上げれば細い架橋の向こう側に背の高い人影が浮かび上がる。

―――ああ、人だ。

とりあえずそれだけでほっとした。
「誰だ」
重ねて問い、その人物は静香の前まで歩を進めてきた。
うずくまっていた静香も立ち上がって視線を上げる。

――――高い。

立ち上がってみても相手の背は予想以上に高かった。見上げるように首を伸ばすと冷たい青い瞳に行き当たる。その光は病院の検査薬を思わせるような無機質な光を帯びていた。
えーーと、確かこの人は……。

「青い馬の人」
「馬……?」

「あ、違った、青い龍の馬の人」

掛け合わせのずれた静香の言葉に相手の目がさらに剣呑な光を帯びる。
「あれ、違った。えっと青い龍の白い馬の……あれ? あれれ??」
「青眼の白龍」のカードと、海馬の名前が彼女の中ではごっちゃになってしまっているらしい。
しばらくあのカードを使うのは控えた方がいいかもしれんと海馬瀬人は一瞬本気で考えた。
「オレの名前はどうでもいい。ここで何をしているのかと聞いているんだ」
ちなみに彼らが現在いるのは船内でも最後尾でしかも最上階に位置する、いわば「端っこの端っこ」である。船内のほぼ中央に位置している決闘者のための客室まではかなりの距離があるはずだ。
「あ、えっと。私は川井静香っていいます。川は三本の縦線の「川」で、井は井戸の「井」で、静香は静に、香りっていう字を書きます」
初対面の人にはまずは挨拶からと彼女は自己紹介した。病院暮らしが長かった為、彼女の対人作法はおおむね小学生並である。
それはわざわざご丁寧にどうもと海馬瀬人は調子のずれた彼女の言葉をしらけた気分で聞き流した。と同時に警戒心もあさっての方向を向いてしまう。彼専用のコンピュータルームの近くにいたのでまさかと思ったのだが、わざわざ自分から名乗ってこんな間抜けなスパイもないだろう。

「…………お前の名前はわかった。――で、ここで何をしているんだ」
三度目の問いにようやく相手が黙った。
黙った一瞬後に、ふにゃりと泣きそうな表情に顔が歪む。

「――――帰り道、わからなくなっちゃったんです」
「迷子か。」
「――――今、馬鹿にしました?」

なぜバレたんだ、と彼は思った。
ちゃんと普段通りの態度で答えたはずなのだが。
だがこれは単に静香が海馬瀬人という人間をよく知らないが故の誤解だった。
海馬瀬人という人間はおおむね誰に対しても普段からこういう口の利き様をする。ありていにいえばいつどこでも常にエラソーなのである。このあたり自覚がない分彼の対人作法にもかなりの問題がある。

「――まあいい。ここはVIP専用のコントロールルームで関係者以外立入禁止区域だ。つまりオレとモクバしか入ってこれないはずだ。警備の者もいたはずだが、どうやって入ってきた?」
「え――――、えっと、流れ星を追いかけて」
「何?」

メルヘンな彼女の返事に海馬の頭がさらに白ぼやけた。

「だから、いくつも星が光って流れていったみたいで、それを見ようと思って階段を上がったり下がったりしているうちになんとなく」

おそらく静香が見たのは旅客機か何かの灯りだろう。それを勘違いして追ってきた挙げ句にこんなところに紛れ込んだらしい。
うちの警備はザルか。
海馬は頭の中で警備責任者の首を100回ぐらい締め上げた。

「でも上がったり下がったりしてたらどの階段を上がったり降りたりしてきたのかよくわかんなくなっちゃって……なんかびっくりダンジョンみたいにどこもよく似た作りだから……あ、びっくりダンジョンってまだあたしの眼が見えてた頃に家族みんなでいった遊園地にあったんですけどね、ちょうどここみたいに鉄製で薄暗くってよく似た扉がたくさん並んでてそこからいろんなお化けが突然出てきてお兄ちゃんがうわーーって……」
とめどもなく続く静香の話を海馬は強引にへし折った。
「知っている。1980年代にハリウッドのSF映画の影響を受けてアメリカでよく作られたタイプのホーンテッドハウスの一つだ。日本では確か××県××市の■■遊園地と東京の■■後楽園に最初のタイプが導入されて以来あちこちに広がったが5年後にはほとんど廃れたはずだ。確かまだ九州の○○ランドには残っているはずだが」
やけに詳しく語る海馬に、静香の目が軽い驚きに見開かれる。
彼の頭の中には来るべき海馬ランド建設に向けて日本どころか世界中のあらゆる遊戯施設のデータがインプットされているのだ。このぐらいの知識はなんてことはない。遊園地を語らせればオレの右に出る者はいないと自負する海馬瀬人17才、これでも現役おもちゃ会社社長。
案の定、静香はすっかり感心してしまった。

――――すごいなぁ。お兄ちゃんも物知りだけど、この人もすごいなぁ。

彼女の中では「お兄ちゃん」と同等というのは最上級の賛辞なのだが、かの凡骨と比べられていると知ったら海馬自身はおそらく烈火のごとく怒り狂っただろう。

「それで、つまり流れ星を追いかけてきた挙げ句にこの船内で迷ったと、そういうことなんだな?」
強引に自分のペースに話を戻した海馬が静香に確認してきた。
「はい。そうなんです」

――――それだけのことを確認するのに、所要時間約15分。
迅速を以てなる海馬コンツェルン総帥にしては記録的なタイムである。
「事情はよく判った。送っていってやる。確か凡……城之内の妹だったな? ついてこい」
このまま話を続けたら朝までかかってしまうかも知れない。明日は大事な人生の再スタートを迎える日だというのに、こんなところでこんな小娘相手に話し込んでいるヒマはない。
きっぱりと踵を返して歩き出すと、背後で小走りについてこようとした足音が途切れた。
「?」
振り返れば、細い架橋を渡りかけた中ほどで硬直している細い姿が映る。

「おい。何をやっている。置いていくぞ」
言ってやっても、相手はそこに立ちすくんだまま動こうとしない。苛立って再度声をかけたとき、相手の震えに気がついた。

「おい――――まさか」
「あ、は、は……下…見ちゃって……」
鉄製の細い架橋の下は幾重にも連結しながら、ふきぬけの構造になっている。そしてそのさらに下は……最下部まで丸見えの、つまり中空だ。

「……! 高い所が苦手なら、先にそう言え!!」

とうとう苛立って声を荒らげてしまった。
しかたないとばかりに細い体を抱え上げ、長い足で一気に渡りきってしまう。
静香の目がさらに尊敬の色に輝いた。
ことさらに無骨な立入禁止区域から出て、普通の船内に戻っても彼は静香をおろそうとはせず、彼女を抱え上げたままさっさと競歩のスピードで歩き出す。
彼としては一刻も早くこの予想外のお荷物をあの凡骨に叩き返してやりたかったのだ。
人気のない夜間の船内でも幾人かは起きていて、「不機嫌」と「苛立ち」をオーラのように発しながら女の子を抱えて歩き去る「あの」海馬瀬人の姿に眼を丸くしていた。

「あの、すみません。重いですか?」
降ろしてもらえたら歩きます、と静香は続けたが彼は黙って無視した。
言葉を返せば返すほどこの娘のペースに巻き込まれていくような気がする。
人生の何かを狂わせたくなかったらこれ以上関わるなと頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
「すみません。あの……私やっぱり歩きますから」
さすがに怒っているらしいと気づいて彼女はさらに続けた。
「ごめんなさい。重いでしょう、あの、あたしこないだまで病院のベッドで寝たきりだったから運動とかしてなくって、病院食だからちゃんとカロリー制限はしてくれてたと思うんですけどお見舞い品とかけっこうつまみ食いしてたから多分それでちょっと太っちゃってて……」
試練だ海馬瀬人。
口を利くんじゃないと言い聞かせてもとめどもなく続く彼女の言葉に堪忍袋の緒はあっさり切れた。
「大丈夫だ重くはないむしろ標準以下だモクバより軽い、だから……黙っていてくれ、頼むから」
「はあ……モクバさん?」
自分が何と比べられたのかわかっていないらしい静香は釈然としない表情でうなずいた。
「モクバさんて、誰ですか?」
自分のことばかりしゃべりすぎたのが悪かったのかなと解釈した静香は、逆に問いかけた。
「弟だ」
対する彼の返事は短い。そして彼としてはそれで十分だと思っている。
だが静香にとってはそうではないらしい。
「弟さん……おいくつなんですか?」
短くても会話になりそうなのがうれしいのか、彼女はにこにことさらに問う。
「12」
「才」も省略して彼は答えた。
「12才ですか。まだ小学生ですね。あ、あたしはお兄ちゃんとは2つ違いなんです。モクバさんとは3つ違いですね」
だからなんだ。
という答えを賢明にも彼は飲み込んだ。
黙り込んだ彼にかまわず彼女は続ける。
「モクバさんも決闘とかされるんですか? 小学生でも強い子ってたくさんいるって聞きましたけど」
「ああ。モクバはこの大会のジャッジを任せている」
言ってしまった直後に彼は後悔した。
案の定静香の目がきらきらと輝く。
「まあ、小学生なのに、審判さんなんですか? すごいですね。将来が楽しみですね」
「…………」
耐えろ、と彼は自分に言い聞かせた。女のおしゃべりなど社交の場では慣れっこのはずではないか。適当に調子を合わせて耐えろ。
だがしかしこの静香という娘の言葉は、天然善意という名の武器で武装されている分だけ無視しがたい強引さに満ちていた。そして人生向かうところ敵だらけという人生観を構築した彼にはこういう武器に対する免疫がない。
「あたしも本田さんに少し教えてもらったんです。いつか自分でもやってみたいなぁって思ってるんですけど。あの、決闘って今回の大会みたいに物騒なのばっかりじゃないんですよね?」
「物騒?」
「だってあの、鎖で繋いで負けたら海に落とされちゃうとか、車でどかーんて壁破ってきたりとか、大凧で空飛んでたりとか……」
なんだそれは、と彼は思った。最初の方はともかく壁を壊すとか凧で空を飛ぶとかそんな決闘に心当たりはない。
「あたし、痛いの苦手なんです……病院の注射とかも大嫌いで、ほんのちょっとくらいならいいんですけど……」
「今回の大会は特別ルールだ。普段の決闘はカードの上でだけの闘いだ。デュエルディスクがなければ単なるカードゲームだ。心配するな」
「ああ、よかった」
ほっとした表情で静香は笑う。
「あたしでも憶えられるでしょうか。物覚え悪いほうじゃないと思うんですけど、お兄ちゃんができるくらいだったらあたしでもできますよね、きっと」
さり気に兄を馬鹿にすると静香はさらに言葉を継ぐ。
「海馬さんは普通のゲームでも強いんですか?」
「当たり前だ、ゲームと名の付くものでオレは負けた事はない」
傲岸不遜に過去を抹殺すると、真に受けた静香がすごぉい、と手を叩く。

「それじゃ、今度教えてくださいね」

「…………何?」
空耳だろうか。
きっとそうだと海馬は自分に言い聞かせた。しかし腕の中の少女はあっさりとそれを裏切る。
「決闘とか。あとチェスとか。いろいろやってみたいんです」
「兄にでも聞けばよかろう」
やっとのことでカウンターから立ち直った彼が言葉を返すと、静香は無邪気に言った。
「だって、お兄ちゃんの説明ってわかりにくいから」
「…………」
「海馬さんの説明ならわかりやすそうだし。親切だし」
親切。
鬼とか冷血漢とか人でなしとか言われた経験は山ほどある。
だがこれほどに彼を打ちのめした形容詞はかつてなかった。
親切。このオレが親切。
「………オレのどこをどう見たらそんな言葉が出てくるんだ……」
あまりのことに動揺を隠せず声が震えてしまった。
「え、だって、迷子のあたしを見つけてくれたし」
「お前が勝手にオレの視界に入ってきたんだ」
「遊園地のこととか教えてくれたし」
「ものの弾みだ」
「高いところ苦手なの知って、助けてくれたし」
「動けないなら仕方なかろう」
「こうやって運んでくれてるし」
「とっとと送り届けて寝たいからだ」
「……照れ屋さんなんですね」
天使のようににっこりと善意の塊が笑った。
ヒットポイント10000。
回復不能のダメージをくらいつつも、彼は必死で折れそうになる膝に力を入れる。
耐えろ、海馬瀬人。耐えるんだ。
ここ30分で何度目を数えたか判らない台詞をもう一度自分に言い聞かせると彼は顔を上げた。
目的地まであと数歩だ。あと数歩歩いて、この娘をあの凡骨に叩き返してそれで終わりだ。
あとはいつものように都合の悪い過去は記憶からリセットだ。
と、睨み付けていた目的の扉が開いて、城之内が顔を出した。
あああの凡骨の顔を見てほっとする日が来ようとは。
安堵の表情を鋼鉄の面の皮に覆い隠して彼は城之内に声をかけようとした。
「おい、凡………」
「あーーーーっ!!!! ってめえ、海馬!!! オレの妹に何してやがる!!!」
見るなり凡骨が指を差して大声で叫んだ。しかも名指しで。
途端、夜半だというのに、周囲の扉が開いて寝ぼけ眼の全決闘者(総勢10名程度ではあるが)が顔を出す。
「何? 海馬君がどうしたの?」
「なんなのよー、海馬がなんですって?」
「セトが何かしたのですか」
そして全員の視線が彼に集中した。
「…………………!!!!!」
一瞬黙り込んだ一同を前に、海馬瀬人は戦慄とともに自らの失敗を悟った。
「静香をはなせ! このスケコマシ!!!!」
勘違いした凡骨の言葉が余計に事態を悪化させる。
「お兄ちゃん、失礼よ!」
腕の中の娘が兄に向かって反論するがもはやそれをとめる気力は彼にはなかった。
「海馬さんは、とっても親切にしてくれたのよ! あたしを助けてくれて、ここまでこうして運んでくれたんだから!」
普段の海馬を知る人間全員が、へえ、と意外な視線を彼に投げた。
「静香……お前はだまされてるんだ! この野郎はな、傲慢で強欲で詐欺師で人を人とも思わない爬虫類以下の冷血野郎なんだぞ!!!」
不快なはずの悪口雑言が逆に耳に心地よいくらいだった。
そうだ、それが本来のオレだ。もっと言ってやれ凡骨。
けれど事情を知らない静香は兄の言葉に逆に怒りを憶えたように余計なかばい立てをする。
「ひどい! こんな優しい人に向かってそんなこと言うなんて! 海馬さんはちょっと照れ屋さんなだけでホントはとってもいい人よ!」
もう、止めてくれ。
えぐるような一言一言が海馬から確実にライフポイントを奪っていく。
兄妹の口喧嘩をどこか遠い世界に逃避した海馬は硬直したまま聞いていた。傷口を広げられた自尊心とともに抱え込んだ娘を降ろすのを忘れている事に気づいたのは、城之内の

海馬! てめえにだけはぜぇっったいに負けないからな!!!!

 という涙混じりの宣戦布告を聞いた瞬間だった。
理不尽だ。
彼は憮然とし、生まれて初めて、叩きつけられた挑戦状を謹んでご辞退申し上げたいと心の底から思った。

翌朝。
アルカトラズを前にした彼は、この「プライドの領域」に迂闊に他人を引き入れてよいものかどうか、真剣に考え直したという。

it’s beginning of his dangerous life….