行く川の遥か果て。
眼差しを遠く据えて、少女はナイルの流れを見ていた。
地平の向こう、砂塵に煙るその先に彼女の国はある。
内陸の地を旅立ち、初めて見る大海の広さに驚き、さらにまた砂漠の国へ。
広大なナイルのほとりを遡るように馬で旅し、途方もない大きさの神殿や王墓に声を失った事も今では遠い思い出のような気がしていた。
遊学という名の人質としてこの国にきてまだ数カ月にしかならぬというのに。見知らぬ人、見知らぬ街、見知らぬ食べ物。慣れてしまうものだと思う。
それでも時折こうして母国のあるはずの方角に視線を馳せる。
家族とも別れてこの国に来た時、もはや二度と戻ることはないと覚悟は決めていた。
大袈裟ではなく、それは国を出るときにそう言い聞かせた自らへの誓いだった。
戻ってこいよと、やさしい兄は言ったけれど。
必ず戻してみせると母はまなじりに怒りをにじませていたけれど。
ごめんなさい。
私はもう二度と戻りません。
だからどうかみんな無事で、幸せでいて。
ごめんなさい、とまた小さくつぶやいて、視線を落とした。
ナイルの流れがこの涙とともにいつか全てを連れ去っていってくれる。
そんな未来を描くことは難しかったけれど。

「何をしておられる」
無機質な声に振り返れば、そこには若き神官の姿があった。
王に仕える七神官の一人。
若き王とともに次代を支える者として次の大神官の地位を約束されている人だ。
この王宮の中でも比類なき権力を持つというのに供の一人も連れず、けれど通り過ぎる全ての者の頭を下げさせずにはいられないほど堂々と、威厳に満ちていた。
「ミタンニの王女殿下におかれては、よほどお国が恋しいとみえますな」
やはり見抜かれていた。
図星をさされて彼女は頭を下げた。
話をしたこともなければ、直接会ったことも一度しかない。この国に初めて来た際に王に謁見の挨拶をした、その時だけだ。
けれど、ほんの一度きりしかあったことのない自分をその人が覚えていることにわずかながら驚いた。
周辺諸国の王族から、このエジプトに送られてくる、遊学という名を借りた人質の数は、決して少なくはない。
( もしかして全員の顔と名前を覚えているのかしら )
ありえない話ではなかった。
この若さで七神官の地位についた彼には出自について様々な噂が取りざたされていたが、唯一はっきりしていることはとんでもなく有能だということだった。
「さほどこの国がお嫌いか」
嘲るような響きがあった。
自分は何かこの人の気に染まぬような事をしただろうか。
だが、まともに顔を合わせるのが初めての自分になんの落ち度があったのかさっぱり心当たりは無い。
顔を上げればやはりというべきか、口の端ににじませた笑みに好意の欠片もなかった。
ひるんではならない、となぜか思った。
わずかに残った自尊心をかきあつめ、彼女は背筋を伸ばす。
「嫌ってなどおりません。けれど国元を離れてちょうど3月。
生まれ育った故国への郷愁に捕われたとしてもなんの不思議もありますまい。
お国から一歩も離れたことがおありでない方にはお分かりにならないやもしれませんが」
お返しのように皮肉をつけたしてやると、ほう、と感心したように態度が改まった。
嘲るような表情は変わらなくとも、はっきりとおもしろがっているような視線が注がれる。
腕を組んだその左の手には、彼の象徴である黄金の錫杖が握られている。
「王女殿下は皮肉がお上手だ」
あくまで身分でしか呼ぶ気がないのか。
こちらを挑発するようなこの態度はなんだろう。
強国の権力者としての傲慢さの発露だろうか。だとすればあまりにも愚かな児戯だ。
それは彼の評判にふさわしくない。
それが証拠に冷徹な視線はこちらを丸裸にしてしまいそうな洞察力に満ちている。
だとすれば何の裏が?
眼差しを合わせればその中に映る自分の姿はあまりにもちっぽけで幼かった。
負けるものか、と一瞬思う。
気が付けば手のひらに汗をかいていて、ふいに話しかけられて返事を返さずにいる無礼を思い出した。
けれど目の前のその人はそれを咎めだてする風もなく、彼女の視線を受け止めている。
ふ、と気が抜けた。
何を緊張することがあるのだ。
何を探られたとしても彼女に隠すべきなにものもありはしない。
私は。
ただの人質。
そしてミタンニの王女だ。
天に誓って恥じるべきなにものもない。
笑え。
浮かべた笑顔に、相手はふいをつかれたような驚きを浮かべた。
それで少し安心する。
「皮肉などととんでもありません。珍しい体験をさせていただいて喜んでおります。
ほんの少し郷愁に捕われたとて、お国の素晴らしさには日々感嘆させられております。それを皮肉だなどと」
「ミタンニとておさおさ引けを取るものでもありますまい。戻られたくはありませんかな」
戻りたい、と言わせたいのだろうか。
そう言えばこの人になんの得が?
今この国と自分の国との間では一応の和平が保たれている。
そのために何代か前にはエジプトに何人かのミタンニの王女が妃として送り込まれた。
理由は至極簡単で、共通の敵がいるからだ。ミタンニの背後に控え、エジプト双方と領土権争いを繰り広げているヒッタイト。
今自分がこの国から去れば、どうなるか。
考えて、結論を出した。
どうにもなりはしない。
エジプトとミタンニは双方がいいバランスでヒッタイトを牽制している。
バランスが崩れればいずれにも戦火はふりそそぐ。
人質の意味などない。
ただ周辺諸国(フェニキア都市国家群)へのはばかりがあった。
ミタンニだけ特別扱いはできない。同盟国ならばなおさらと、だから体面上のことでそれ以上はないからと、そう言い聞かされていた。
「わたくしを追い払いたいのですか? セト様」
笑顔で名前を呼んでやると、相手が露骨に眉をしかめた。
「さっきまで泣いていたくせに、随分と気が変わりやすい」
体面をとりつくろう慇懃無礼さをかなぐり捨てて、はっきりとした皮肉を投げてよこす。
まあ、なんて柄の悪い、と半ばおかしくなった。
「女心は空の色ほどに変わりやすいと申しますでしょう?」
「確かにな。そんなものに国家の存亡がかかることもある。まったく面倒なことだ」
「私は帰ったりいたしません」
「さて。その心もいつまで変わらぬことやら」
「………………………………………………帰りません」
「…………?」
はっきりと表情と口調の変わった彼女に、相手も気が付いたらしかった。
「私は決して、ミタンニに戻ることはありません。それだけは信じていただいて結構です。
偉大なるファラオにお仕えせし七神官のお一人、セト様」
ことさらに相手の地位を思い出させるようなことを口にしたのはそれが、非公式であれ王女としての言葉だと、教えるためだった。
そしてそのことに気付かぬでいられぬほどこの男は愚かではない。
「なぜさほどこの国に執着なさる」
「この国に執着しているのではありません。ただ戻る気はないと、そう言っているだけです」
「戻られよ」
国政を預かる者として信じられぬ発言を、男はした。
「戻りません」
けれどひるむことなく彼女は言い返す。
「戻られよ。あなたにできるようなことはこの国にはありはしない。ファラオに申し出ればすぐにも母国にお帰りになれよう。
さすればそうやって一人で王宮をさまよい歩くこともなくなる」
知られていたのか、と思い、唇を噛んだ。
楔のように打ち込まれた胸の痛みに、震えながら耐えていた。
うつむいて黙り込んだ彼女に、セトは後悔とも憐憫ともつかぬ苛立ちを感じて自身も沈黙した。
彼女の洞察通り、彼は諸国から送られてきた全ての人質の名前と顔、その身辺調査書まで頭にいれていたが、その中でもとりわけ彼女に興味を感じたのは、この国にきた後自国から連れてきた侍女を全て送り返していたからだった。
異例なことといえる。
他の王族達は多かれ少なかれ、国元から従者や召使い、奴隷から調度品のたぐいまで持ち込むことは許されていたし、事実そうしている。
諸国の王女たちは思い思いに自国の衣装や文化を持ち込み、王宮を彩るとともに意味のない派閥争いと親の目を盗んでの恋愛ごっこに勤しんでいた。
だが一人残された彼女にいまだ知己と呼べる者はおらず、エジプト人の侍女たちとも必要最低限をのぞいて距離を置いている。
そしてそういう彼女は王宮ではやはり浮いていた。
まるで虜囚のようだと、セトはあまり快く思ってはいなかった。
勝手に一人でいるくせに、母国を寂しがってうちとけぬ、陰気で内向的な姫。
見かける度に苛立った。
今日もまた人目に付かぬ王宮の隅で遠くに視線を馳せていたから、周りにたまたま誰もいないのをいいことに皮肉の一つでも言ってやろうと、そんな気持ちで声をかけたのだ。
「それでも私は、戻りません」
うつむいたままの彼女がようやく声を絞り出した。
先ほどまでの笑顔はもう浮かんではいないのだろう。
意外と手応えのある姫君なのだなとこちらの意表をついたあの笑顔は。
「戻られよ」
もう一度告げても答えは同じだろうと思った。
「戻りません」
やはり頑固に彼女は言い返す。
「なぜそこまで思いつめる」
距離感を測りかねて彼はまたしても無礼な言い様になる。
いったい今話しているのは、16歳の故国を恋しがる少女なのか、堂々と彼と渡り合う同盟国の王女なのか。
彼女は答えない。
不透明なままの彼女の態度に苛立ちが増した。
「戻られよ。あなたが思うほど人質に価値などない。あなたが言い出しにくいというなら私がファラオに申し上げる」
声を荒立たせ、立ち去ろうとする彼の背を固い声がひきとめた。
「私が帰れば、兄が殺されます」
意外な返答に振り返れば、ほっそりした身体が真昼の王宮の廊下に立ち尽くしている。
明るい太陽の光に包まれたその中で、一人異質な影を作っていた。
「殺される……?」
似合わぬ言葉だった。この王女にも。この場所にも。
彼の凝視を受け止めて、咄嗟に口に出した一言に迷う瞳が揺れている。
見つめ合っていたのはどれほどか。
感じていたほど長くはなかったのだろう。おそらく。
やがてゆっくりと彼女が口を開いた。
淡々と語る口調と表情は、まるで他人事を語るように現実から乖離していた。
「私の兄は、第一王位継承者ですが、私とは母が違います。兄の母という人はもとは奴隷で、もうお亡くなりになっていて、でも父には他に後を継ぐ男児はいないから、だから一位の王位継承権を持っています。私の国では女に王位継承権はありません。でも私の母は父の第一正妃で、母の父は大神官の地位にある人です。母は正妃として後継者を産むことを期待されていましたが結局私しか産まれなくて、父には内密ですが、もはや子は望めぬと医者に言われたそうです。母は自分を差しおいて男児を産んだ兄の母を疎ましく思っていて、その人を毒殺したのではないかという噂があります。だから兄と母はあまり仲がよくありません。当然祖父とも折り合いは悪いです。祖父は大神官として内政に大きな影響力を持っていて、父もその意見は無視できません。そして私には歳の近い従兄弟がいて、その人の父親は現王である父の弟で、母親は母の従妹にあたる方です。」
そこまで語られれば悟らないわけにはいかなかった。
身分低い女との間に産まれた実の息子と、有力家臣を後ろ立てにした娘婿。血筋の上からいけば嫡男をたてぬわけにはいかぬだろうが、さりとて外戚の影響力を無視できない。
「ミタンニには今、内政において3つの勢力があります」
たおやかな少女の口から勢力、などという言葉が出てきたことに驚いて彼は彼女を見つめた。
涙に濡れた双眸には苛酷な現実に立ち向かう悲壮な強さがあった。
「ひとつは言うまでもなく、正妃の父親である祖父を筆頭にした神官一派です。彼らはこの国と同じように神殿領地を持ち、多額の税収によって富を得ています。もうひとつは兄を筆頭将軍として軍事一切を取り仕切る右府。そして父の姉を妻にした現内務大臣の一派です。内務大臣は祖父である大神官と反目しあっていますが、政事をとりしきる左府の長として、軍事派閥である右府とも伝統的に仲が悪いです。」
「……………」
「そして外交面でいえば、東からアッシリアが勢力をのばしてきています。アッシリアはうちの属国ですがここ数年来反乱がたえません。ヒッタイトは長年の敵で強国ではありますがエジプトという同盟国を得て今ちょうどバランスが保たれていますからそう簡単には攻めてこないでしょう。ただそのことに甘んじているから、他の外敵にたいしての油断があります。そういう理由でここ数年軍費は削られています。国庫の税収が今うまくいっていないからです」
「………神殿側の干渉か」
政治の話であれば彼の得意分野だ。ことに税に関していえば彼はこのエジプト一のエキスパートである。自身が得る神殿税の管理に加え、行政職として国税および通商税のいっさいをとりしきっているからだ。
うなずいて彼女は話を続けた。
「神殿領地は祖父の代で拡大しました。当然ながらその分王領が減ります。それに加えてミノアの海上貿易とフェニキア商人が新興して、通商による関税や通行税も減っています。内務大臣は東側との貿易を進めたいのですがアッシリアがたびたび反乱を起こしているせいで安定しません。アッシリアを抑えるためには軍備が必要ですが、もとが属国ですから侮っています。征伐できないのは軍部の怠慢だと……内務大臣は兄を非難しています。兄は十分な軍資金を揃えられないからだと逆に左府を非難します。神殿側は一人肥え太っていて我関せずです。だからこそ王位継承に関して謀を巡らす暇がいやになるほどあるんです。それにたいして三者を抑える力は………もはや父にはありません。」
「あなたは」
話すに連れてうつむいてしまった彼女の姿に、セトはあることに思い当たって愕然とした。
そこまで分かっていて。そこまで物が見えていて。
女でさえなければきっと優れた王になっただろう。
これだけの見識と判断力があれば。
そしてだからこそ見えてしまった醜い権力の構想図。行き着く果ての宮廷内紛。
だから。
「自分で、出てこられたのか」
「…………最初は、叔母が来るはずでした」
わずかな沈黙の後の一言が、肯定の返事だった。
「私は帰れません。」
うつむいて震える言葉が彼の耳に届く。
戻れ、と今度は言えなかった。
「帰りません。帰れないの。戻れば従兄弟との婚姻が待っています。そうしたら兄は殺されます。
母は恐ろしい人です。祖父よりもずっと残酷な人です。これまでだって何度か………」
いつのまにか涙が止まらなくなっていた。
血を分けた実の母親なのに。
それを信じられない自分がいる。
「でも今までは私がいたから。私が傍にいれば兄は安全だったから。兄に手を出して私まで巻き添えにしたら元も子もないから。だから……」
ことさらに兄を慕ってみせた。
そしてそんな自分を兄も可愛がってくれた。
「でももうダメです。婚姻が決まれば私は兄の傍にいることはできなくなる。無邪気な少女の振舞いはもう通用しないんです。」
「それほどに兄君がお好きか」
不思議に思ってセトは涙の理由を問う。
「母に抱かれた記憶すらない私の手を引いて、笑顔を向けてくれたのは、兄だけでした」
優しい人だった。自慢の兄だった。
一本気な正義感で、だからこそ陰謀などには疎い人。
「今、国を割るわけにはいかないんです。私が帰れば王位継承の争いが再発します。でもアッシリアもヒッタイトも待ってはくれないんです。内乱が続けば国は疲弊します。それに耐えられるほどミタンニはもう強くない。誰もそのことに気付かないの。
争いは嫌です。兄や母を傷つけるのも嫌です。でもミタンニの民全てが滅ぶのはもっと嫌なの。
この国でひとりぼっちで残されるのはもっと耐えられない……」
帰るべき場所がある。
戻ることはできなくても確かにそこにあるのだと、それを信じていれば耐えていける。
遠く離れて、長い時を経て、ここでそれなりに幸せで、そうしていつか懐かしく思い出せる時がくる。
そのときに笑顔で思い出せる国のままであってほしい。
「ここでほんの少し淋しいくらい、兄や母が死ぬのに比べたらずっとましです……」
てのひらで涙をぬぐい、ようやく彼女は笑った。
目の前の彼はもう嘲るような笑みを浮かべてはいなかった。
彼にはまったく関係のない話を聞かせて、挙句に泣き出して、そんな彼女を咎め立てもしなければ迷惑そうな顔も困惑の表情も浮かべてはいない。
ただ、不思議なほど静かに彼女を見ていた。
挙句、全く関係のないことを口にした。
「カルナック神殿に行かれたことはおありか」
「え? いいえ」
「この都の北の外れにある大神殿だ。アメン、メンチュ、ムゥトの3神を祭っている。わけてもアメン神殿はこのエジプト最大の規模で、塔門といい、オベリスクといい、それは巨大で荘厳な、この大エジプトの象徴だ。参拝も引きもきらず、市もたっていて賑やかだ」
「それはすごいですね」
「それだけではない。その南側には副殿としてルクソール神殿もあり、こちらもまた回るだけで3日はかかる」
「はあ」
ちょっと想像がつかなかった。
だいたいこの王宮からして彼女の想像を超える規模だ。この国はやることなすこといちいちスケールが大きい。
「他にも偉大なる女王ハトシェプスト陛下の葬祭殿デイル・エル・バハリや、王家の谷には古の強大な王の墓がある。こちらも壮大な眺めだ」
「そうなのですか」
うまい社交辞令が見つからない。
さっきまで泣いていた娘にいったい何をどう返せというのだろうか。
「ご覧になりたければご案内しよう」
それでようやく慰めてくれているらしいとわかった。
その表情はどこまでも鉄面皮ではあったけれど。
下手な同情など見せず、慰めのための嘘などつかず、ああこの男はいつも現実的で誠実だ。
優しくも、分かりやすくもないけれど、語る言葉は全て信頼できる。
それがいちばんうれしかった。
心の落ち着ける場所を見つけ、安堵とともに笑顔が戻ってくる。
「はい。ぜひ」
笑った彼女に、ひとつうなずいて彼は言葉を継いだ。
「このエジプトはあなたのお国よりも豊かで広大だ。知識も文化もずっと進んでいるし、食事や娯楽も多種多様にある」
言わずもがなのことを言ってさり気にこちらを田舎と馬鹿にしてくれたが、当の本人は本気でそう自負しているらしい。あまりにも堂々と言われていやみに聞こえないのがすごいと思った。
「ほんの数年ごときでその真価を理解することはできまいな」
「…………そうですね」
暗に、もっといればいいと言われたのだと理解した。
慰めの言葉などではないけれど、だから余計に気が楽だ。
いっしょになって深刻な顔してたって鬱陶しさが2倍になるだけだし。
「いろいろ、教えて下さい」
この国に来て初めて、彼女は他人に頼みごとをした。
対する相手は相変わらず鉄面皮のままで。
「忙しいのでな、そうそう時間は取れない」
「かまいません。時間はいやになるほどあるし」
「そうだろうな」
言って彼は踵を返す。ほんのわずか、口元が緩んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「ではまた明日」
激務で忙しいはずの男はそう言って去っていった。
また、明日。
くすり、と笑って小さく口の中で唱えてみる。
あてにならない約束などしない人だから、きっと大丈夫。
何もかもが不安定で不確かなこの時間の中で、それだけが唯一信じられる未来だった。
<あとがきにかえて>
ファラオの御治世がどのくらいの時だったのかははっきりしませんが、いろいろと考えてみるにおそらくBC15C~13C頃の間ではないかと。「名もなき王」ということであれば第55王墓に葬られた王のことかしらとか。
ちなみにミタンニはBC1350年頃に王宮紛争で弱体化したところをヒッタイトにつけこまれて滅亡しています。あまり詳しい事はわかっておらず、馬の調教に世界で初めて成功した国だったくらいしか。内政に関する部分なんかは勝手に作りました。<まさか本気にする人はおるまいが。