壮大な神殿は既に廃墟となって久しい様子だった。
古き神の祭殿のひとつだと、案内してくれた男は言う。
けれど参拝客も見あたらなければ捧げられた供物のひとつもない。
「いったいどんな神様を祭っているのですか?」
半ば砂に沈んだ階段を昇りながら彼女は傍らの男に問うた。
折からの季節風が少し強い日だ。
もうしばらくすればナイルも氾濫期に入るのだろう。
常に穏やかな流れの大河が大地を飲み込むその様を、この国に来てまだ半年にも満たない彼女は未だ見た事がない。
王宮から船遊びに興じる貴族達や、市の立つ日にひっきりなしに行き交う船団達を見る限り、その流れが濁流となって全てを押し流す様などは想像もつかなかった。

 尋ねた問いに、未だ返事がない事に気づき、彼女は訝しむ視線を彼に投げた。
日差しと砂塵をよけるヴェールを上げて、その鋭く削げた顎の線を見つめる。

(  ・・・どうなさったのかしら)

ここに来てから彼の様子は少し変だ。口数が少なくて、おまけにこちらを見ようともしない。
本来人当たりがいいとは言いがたい男だが、それでもやれ大神殿だ、やれ祝祭の行事だと彼女を連れ回すときはおおむね機嫌よく、むしろ得意げにひとつひとつ詳細な説明をしてくれたものなのだが。

階段をのぼりきった先には巨大な神像があった。
この国の神像はどれもみな立像として作られ、大きく、そして奇怪な動物を模した頭をしている。
彼女がこれまで見てきたものはたとえば犬のようだったり鳥のようだったりしていた。だがこの像はなんだろう?
長い嘴を持っているところは鳥のようでもあったが、頭から2本の長い角のようなものが生えているところは牛か馬のようにも見える。
もっとよく見ようと、暗い神殿の中程まで進んでみた。
だがやはり正体が知れない。
ひとつはっきりしているのは今まで見てきたどの神像よりも奇態で恐ろしげだ、ということだった。

「・・・これは?」
先の問いの続きをうながすように、彼女は背後の男を振り返った。
未だ入り口の近くに立ったままの男が、ゆっくりと彼女の隣まで歩みを進める。
見上げる視線の先には得体の知れぬ頭を持った神がいる。
「セト神だ」
「セト?」
男と同じ名を持つ神。
だからなのだろうか。なにか特別な思い入れがある?
続きを問いたくても、男の視線は相変わらず神像に捧げられたままで、ずっと物思いに耽っている。
いつものように、これは何の神でどんな役目があってどんな人間たちが信奉していてといった説明は一切してくれない。
待っていてもだめだと判断して彼女は積極的に尋ねる事にした。
「なんの神様なのですか」
「・・・・・・」
答えはない。
重ねて問うた。
「なぜ、こんなに廃れてしまっているのでしょう」
「・・・・・・・・・・・・別に廃れているわけではない」
沈黙に飽きた頃ようやく返答があった。
「ではなぜ?」
こんなに荒れているのか。
こんな町からも、人の集落からも遠く離れた砂漠の真ん中で。
参拝の為の道さえなく。
「普段は必要とされないだけだ。」
辛抱強く待っているとようやくゆるゆると話し出した。
視線は未だ神に据えられたまま。

いつものように、笑ってくれない。
それが淋しくて、恐ろしかった。
朗らかとはお世辞にも言い難い人だけど、それでも神様の話をしてくれる時はほんのわずか、口元に笑みが浮かんでいて、ああこの人は自分の仕事が大好きで、そして誇りを持っているんだなと感心していたのに。
「普段?」
「戦時には、兵士達で埋まる」
「勝利の神様?」
彼女たちの国でいうイシュタルのようなものだろうか。
「嵐と、破壊の神。赤き砂漠の、暴虐の神。兄殺しの王位簒奪者だ」
並べられた言葉はいずれも物騒で、とうてい神を形容しているとは思えなかった。
「・・・それでも、必要とされるときはある。敵を、討ち滅ぼす時には」
「・・・ええ、わかります」
それは彼女たちの国でもそうだ。月と勝利の女神イシュタルは、豊穣を約束しながら生贄を要求する残酷な一面を持つ。何かを得る為には代価が必要で、それは必ずしも胸をはってできることとは限らない。どれほど残酷な支払いを要求されようとも相手が神では交渉の余地すらない。
「セト神は兄であるオシリス神を殺し、王位を奪った。オシリス神の妻であるイシスは、セト神の妻ネフティスがオシリス神との間に産んだアヌビス神の助けを借りて肉体を再生し、オシリス神は冥府の王となった。」
オシリス神の名を聞いて、思い出した。
そういえば以前弟に殺された神であると言っていた。ではその弟がセト神なのか。
アヌビスが闇の女神ネフティスとオシリス神の間の子供だというのも以前聞いた気がする。
でも。

「ネフティスがセト神の妻?」
それは初耳のような気がする、というよりそれは故意に話してくれなかったのだと今気づいた。
「そうだ。セト神は妻にも裏切られ、愛した女も得られなかった。挙句、簒奪した王位は後に兄の子供に奪い返された。・・・まったく間抜けとしかいいようがないな」
「愛した女?」
「セト神は姉神であるイシスにも言い寄ってふられている」
「・・・お嫌いですか。この神様が」
自分と同じ名前を持つ神をこき下ろす男に、思わず問いかけると、忌々しげな視線がはじめて彼女を見た。
「・・・・まったく、聡い人だな。」
いや、だってそこまで言われたら誰だって。
と彼女は思ったが、多分こういうことを今まで他人に言ったことがなかったんだろうなと漠然と思った。
この国の人間ならば誰だって知っている神の名なのだろうし、あまりよい意味を持っていない神であれば面と向かって彼にその話をふる馬鹿もいないだろう。口にした瞬間にどんな鋭い舌鋒が返ってくるか想像できようというものだ。
「ああ、嫌いだ。暴力的で好色で愚かでやることなすこと支離滅裂で中途半端なこの神がオレは大嫌いだ。こんな神の名などなぜつけたのか、死んだ父の意図も理解に苦しむ。名は体を表すなどと下らぬ陰口の種にもされる。言霊信仰などと余計な詮索を受け、痛くもない腹を探られる。いっそ名無しでいられた方がどれほどマシか」
よほど鬱屈がたまっているようだ。
ほんのわずか愚痴まじりの、吐き捨てられるような悪口を、彼女は珍しいなと思って聞いていた。
「兄殺しの、王位簒奪者」
最後に吐き出された言葉は不穏当極まりなく、おそらくこれが最も気に入らないのだろうなと思った。
また誰かが余計なことを言って怒らせたのかしら。
だとしたらその人はさぞかし今頃肝を冷やしている事だろう。
気の毒な誰か、が胃を押さえている姿が浮かんだ気がして思わず微笑みかけた瞬間、男の唇から放たれた言葉が、その微笑みを凍り付かせた。

「・・・冗談では、、、ない」

苦々しい、そして生々しい響きがあった。
それを感じて彼女ははっ、と息をのむ。
暗い赤い血の匂い。
生まれたときから彼女が最も身近な人間から嗅いできた、権力の妄執に捕らわれた人間の腐臭。
だがこの男のそれは、もっと激しく、もっと欲深い。
欲しいのは権力でも王位でもないとその誇り高さが告げている。多分もっと大いなるもの。もっと曖昧で、もっと形にはしがたいもの。純粋な、力。神にすら匹敵する、力。

「・・・・あなたは」

憎悪に渦巻く横顔を見つめて、彼女は言葉を継いだ。

「そんなに、誰かに従うのが、いやなのですか」
神ほども誇り高い、その生ゆえに。

「分かり易すぎます・・・・セト様」

泣き出したくなって必死で笑顔を作った。
笑っていなければこのままここに置き去りにされそうだった。
涙ではなく笑顔で繋ぎ止めておかなければ、きっと彼女を置いて砂漠の向こうに消えてしまう漆黒の影。
遠い異国の地、最後まで使えてくれた侍女の背を見送ったあの日を思い出す。
一度は諦めた孤独を支えてくれたのは確かにこの人だったはずなのに。
この人も。この人もなのか。
目の前にいるその人が、永久に理解りあえない遠くに感じる。どんなに身近にいても一瞬前まで笑顔で話していても、彼女の知らぬところで争い合う肉親たち。

「分かり易すぎます・・・・簒奪の理由が、誰にも従いたくないから、だなんて」
「聞きたくない命令を聞かずに済む力が欲しいだけだ」
「それは無理です」
「無理ではない。少なくとも・・」
「無理です。だって人は命令なんかで動きません」

彼女の言う、無理、が自分のそれとは微妙にずれていることに気づいて、彼は訝しげな視線を向けた。

「命令なんて、聞きたくないなら聞かなくったっていいんです。言い訳なんていくらでもできるし、延ばし延ばしにしてるうちにどうでもよくなってしまうことだってあるんだし。人を従えさせるのはいつだって、頭ごなしに言われて、パピルスに書いて寄越されるような、そんなわかりやすい命令なんかじゃないんです」
命令なんかで兄が王位につけるなら、父が一言そう言えばよかった。
命令なんかで母や祖父のしていることが止められるなら、従兄弟と結婚して王妃の座を奪ってもよかった。
誰も命令なんかしなかった。
だけど彼女はここに来なくてはならなかった。
他にどんな方法も思いつかなかった。彼女の背を押したのは、誰かの命令なんかでは決してない。
「例えば、あなたが王位についたなら、私の国を救ってくださいますか」
「・・・・・・」
「あなたの望みは、従わないということだけ? それなら無意味です。だって自分の中にだって自分を従えさせようとする何かがいくつもあるんです。大事なものがあるだけ、欲しいものがあるだけ、そのどれも手にしようとすれば何かを諦めなければならないときがあるんです」
「権力者の気紛れでその全てが台無しになることもある。それでもか」
「・・・・・・何かあったのですか」
男が権力に固執する理由が、明確に存在するのだと察して彼女は問うた。

「あなたの国元から使者が来た」
それは初耳だったので、彼女は目を丸くした。
ついこの間兄から届いた書状にはそんなことは一言も書かれていなかったが。
「あなたの母君からだ。娘の身が案じられて食事も咽を通らぬ、偉大な王の慈悲を以て、どうか娘を返して欲しいと。・・・王はいたく心を動かされたようだ」
母らしいかけひきだ、と彼女はため息をついた。
父に問いつめられたときもよくその手を使った。弱々しい女を演じて、無力さを訴えて。
「・・・あなたは帰りたくないのだろう?」
その問いかけはこの男にしては珍しく、躊躇いがちだ。たいする彼女の答えは逡巡の暇さえなかった。
「帰りません」
「だが、王が命じればあなたはこの国にはいられなくなる」
「なら途中で行方不明にでもなりましょうか」
あっさりと腹をくくって彼女は言った。
というよりその程度の事はこの国に来るまでの間に何度も考えたのだ。
いっそこのままどこかへ逃げてしまおうかなどと。

「・・・・・・なるほど」
半ばやけっぱちだったのだが、男は感心したようだ。
ぽかん、とこちらを見た一瞬後には、顎に指先を当てていい手かもしれんな、などとつぶやいている。
「・・・・・冗談ですよ?」
念のために言い足したが、男はにやりと笑い返してきた。
・・・・・・いつもの人の悪い笑い方だ。
そしてそういう笑顔の方に安堵している自分も相当救われないと思った。
「どうしてもとなったら、そうしよう。なに、面倒は見て差し上げる」
「・・・・・・面倒っていう言い方がなんかヤなんですけど」
なにか裏でとんでもないことを要求されているような気がした。
「いや、王女殿下はさすがに度胸がおありだ。偉大なる王の手を逃れ、肉親をも捨てて、二国をたばかってまで逃げようなどとは。臣には到底考えつかぬ思議ですな」
誉めているのではなくからかっているのだと、笑いを抑えて揺れる肩が告げていた。
「べ、べつに本気でそうしようと思ってるわけじゃ・・・」
言い訳のように口をすぼめる彼女にちら、と視線を転じ意地悪な口調が追い打ちをかけてきた。
「おや。ではおとなしく母国にお帰りになるか。望まれぬ政略結婚の犠牲になられるか。兄君のお命はいかがなりましょうな」
「・・・・・・ずるいです。セト様」
そんなことはできないのがわかっているくせに。
横目で睨んでやると何がおかしいのか、男はとうとう爆笑してしまった。
いつもの自信に満ちた声が砂に埋もれた神殿に響き渡る。
「ハハハ、ハ、まったく。馬鹿馬鹿しいことだ。何を悩んでいたやら」
「?」
なんだかわからないが、おかしいのは彼女のことではないらしい。
すっかり普段の彼に戻っている。
さきほどまでの恐ろしさはまるで感じない。
よかった、と胸をなで下ろす一方で、なにか釈然としないものは残っていた。
聞きたくもない命令、とか。台無し、とか。・・・・・・・・・面倒、とか。

「・・・さて」
笑いを納めた彼が彼女の方に手を伸べる。
「遅くならぬうちに帰るとしよう。この時期は風が強い。砂嵐でも来られたらやっかいだ」
「よく、あるのですか? 砂嵐って」
「ああ、よくある。視界を塞ぎ、道標を埋め尽くして、ひどいときには隊商がまるまる一つ行方不明になることもある」

毀れた列柱の一つにつないであった馬に彼女を乗せ、自身も後ろにまたがると、ゆっくりと都の方に向かって進みはじめた。
風が、足下の砂を揺らして波紋のような形を作る。
夕闇が砂を薄い紅色に染めていた。遙か果てまで続く砂丘の連なりはひとつひとつが異なる色合いを見せ、どこまでも黄金と見えた昼間の砂漠とはまったく違う場所のようだ。千変万化の世界。
「・・・・・不思議ですね。昼と夕方でこんなに見え方が違うなんて」
地平の果てを見つめながらつぶやくと、男はなんのことを言っているのかすぐに察したらしい。
「・・・・・夜はもっと違った景色が見える。もっと美しい。一面の銀世界だ」
「・・・銀?」
「月明かりで。砂が銀色に光ってみえる。満月の晩など灯りもいらぬほど明るい」
「素敵ですね」
想像して胸が高鳴った。一面の銀世界。この時代、銀は金より貴重な品だ。
「いつかご案内しよう」
「はい。ぜひ」
ついつられて答えてしまったが、夜にこの男と二人で出かけるなどというのはなんとなく不穏当ではないだろうか。
それで慌てて、言い足した。
「ええと、機会があったら」
ずいぶん曖昧で遠回しな言い方になってしまった。
そっと上目遣いに見上げた視線がばっちり相手と合ってしまって、なおさら慌ててしまう。
「なに、そう遠いことではない。そのうち嫌でも通ることになるだろうから」
「は?」
「心配はいらない。後の面倒は見て差し上げる」
こともなげな感じで言い聞かせてきたが、彼女には今ひとつ意図がつかめない。
ただ、面倒、という一言がすごく、すごく、不穏当なことを言われているような気がした。
「あの、面倒、って・・・・・・」
「月夜には魔物も現れやすいというしな」
「魔・・・・・・?」
「貴方にその覚悟があってよかった」
「私?」
「いや話が早くて助かる」
一人で納得してうなずいている。
何のことだかさっぱりわからない。覚悟? 覚悟ってなんの?
自身がやけっぱちで口にした一言など彼女の頭からはとうに消え去っていた。

「あの、セト様? 月夜の砂漠の話ですよね?」
「そう。やはり夜がよいだろうな」
「・・・・・・砂漠の話、ですよね?」
謀反よりも簒奪よりも物騒な話を持ちかけられているような気がして彼女は何度も問いかけなおした。
どんなに掴んでも、答えは砂粒よりもすばやく指先を抜けていったけれども。

le rendez-vous a` la lune