アメリカ進出からはや1ヶ月。
北西部 KAIBA LAND 計画の滑り出しは順調で、いくつかの異業種からコラボレーションの企画が上がってきていた。

「リラクゼーション?」

融資銀行の紹介状を持ってやってきた女性はまだ若いながら、アメリカ有数の美容サロンの企画室長だという。
普段全く接する事のない業界の人間に、海馬はややとまどいを覚えつつも企画書を受け取った。
子供向けの遊戯施設ならば当然母親が連いてくる。
アメリカの若い母親は約70%が就業者であり、仕事疲れと子育てのストレスで、最近この手の需要はうなぎ登りなのだそうだ。
KAIBA LANDは基本的に屋内型でどの遊技設備にも専門のインストラクターがついているから、子供が遊んでいる時間を母親にも有効に使ってもらってはどうか、というのがその主旨だった。
「言わんとしていることはわかるが・・・」
ストレスなどという言葉にはまるっきり無縁の男である。需要がある、と言われてもそれを満たすに足る商品なのかどうかが見極められない。
海馬のとまどいに気づいたか、その女性は、ではぜひ当サロンのサービスをお試しください、と無料のチケットを差し出した。
『ぜひ奥様にでも・・・』
と言いさして、まだ海馬が20にもならぬ身であることを思い出し、
『あ、いえ、秘書の方か・・・』
と言いかけて、今度は彼の秘書が黒尽くめサングラスの30代男性であることに気づいてさらに慌て、
『どなたか大事な方でもいらしたらぜひお連れください』
とようやく言い直したが、企画書に目を通していた彼は、そのあたりはわりといい加減に聞き流していた。

「どう思う?」
珍しく、彼はこの企画書についての判断に迷っていた。
需要があるのは分かる。日本で試験的にやってみた海馬ランドのリサーチ結果でも、子供の反応は上々だったが、いっしょに連れてくる大人へのサービスがやや不足、という結果が出ていた。
だから若い母親世代を狙ったこの企画の主旨は悪くない。
悪くはないが、いかんせんあまりにも縁遠すぎて「質」という点での判断基準に迷う。
闘争とスリルを求めて生きる男に「癒し系」。
猫に小判の価値を教えるより難しい。
「悪くないんじゃないの?」
そしてまた相談を持ちかけられた方もこれまたそういったものの判断ができる相手ではなかった。
なにせ齢12才。まだ子供だ。
副社長として、兄の補佐という大役をこなしてはいるものの、彼自身はそのことについてストレスを感じた事はあんまりない。
この企画に関して感じるのはやはり兄と同質のとまどいだけだった。
「リラクゼーション・・・ねぇ・・・」
ぺらり、と兄から渡された企画書をめくれば、フットマッサージとか、バリ式マッサージとか、フォトポリマーフェイシャルとか、彼にも兄にも理解不能の単語が並んでいた。
なんだか余計疲れそうだと思いつつ、傍らに立つ秘書兼ボディガードを振り返る。
「なあ、磯野。お前ストレスって、どうやって解消してる?」
エキセントリックな兄に仕えるこの男ならさぞ日頃のストレスはたまりまくっているだろう、と判断しての質問だった。
対する彼の返事は簡潔だったが、意表をついた。
「はっ。犬と遊んでおります」
直立不動の姿勢で宣言されて、社長室に異様な沈黙が落ちた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・へぇ・・・・犬、・・・・飼ってるんだ」
我関せずの鉄面皮に逃げ込んだ兄にかわってモクバがようやく相づちをうつ。
「はっ。マルチーズを3匹ほど」
「ふぅん・・・・・・・・・・・・・・・・・・可愛いの?」
「はっ。とても愛らしくあります」
磯野とマルチーズ。
それはとてもとても・・・・・・・・ほほえましい光景なのだろうな、とモクバは無理に思いこんで、企画書に視線を戻した。
子供だからこそ耐えられる想像というものはある。

結局、この件はとりあえず保留ということにして、海馬兄弟はホテルに戻った。
おかえりなさい、ともはや馴染みとなってしまった声で少女が迎える。
お互い夕食は既に取り終わっていたので、アッパーストリートで静香が買ってきた豆でコーヒーを入れ、少し団欒することにした。
こういうのがまあ癒しの時間といえば言えなくもないのかなとモクバは思った。
静香はコーヒーを入れるのがうまい。というか、豆の選び方がうまいのだろうと思う。
モクバは小さいからという理由でミルクをたっぷり入れたカフェオレだが、兄はブラックで飲んでいるので、カップから立ち上るコーヒー本来の香りがここまで漂ってきて、すごくいい匂いだった。
「静香はリラクゼーション、て何かわかる?」
一応、女性向けの企画だし、と思って聞いてみたら、静香はこくんと首を傾げて言った。
「マッサージとか、そういうのですか?」
「そうそう。やったことある?」
この少女もストレスとは皆無そうな感じだったが、(というか本人自体がむしろ癒し系だ)静香は笑って答えた。
「ありますよ」
「そうなんだ・・・気持ちいいの?」
「ええ。いろいろやり方によって違いますけど。今いちばん多いのは足の裏の反射区を刺激する足ツボマッサージとか。香りのあるオイルを使うアロマテラピーとか」
「詳しいね、静香」
「ええ、まあ・・・・・モクバさん、やったげましょうか?」
「え! 静香できるの?」
やったことがある、というのが体験した、という意味ではなく、実際にできる、という意味だと知ってモクバは驚いた。
「ええ。私、結構上手ですよ?」
「へえーーーそうなんだ」
やってもらおうかな、と思ったが、彼よりも体験させた方がいい人間がすぐ傍にいる事に気づいた。
「それじゃさ、兄サマにやってみてあげてよ」
子供二人の会話と聞き流していた瀬人は、いきなり話をふられて、飲みかけのカップから口を離した。
「何を言う。このオレにストレスなどあるわけがなかろう」
「でもさ、判断材料にはなるんじゃない? 実際にやってみたらいいとか悪いとかわかるかもしれないし」
金を払うに値するものなのかどうか。
あちらの方も体験してみて、静香にすら劣る程度のサービスなら企画に乗ることもない。
なるほどそう言われればそうだった。
「そうだな・・・」
まあやってみてもいいか。
結局なんだかんだといっても弟の言うことには素直な男だった。

灯りをやや落として、ズボンを膝までめくり上げて、ソファの一人がけの椅子に座る。
跪いた静香が、まず足を温めるんです、とホテルのフロントでフットバスなるものを借りてきた。
聞けばこのホテル内にも同じようなサービスがあるという。
「好きな仕事をしていてなぜストレスを感じるのか、理解できんな」
嫌なことがあるなら、現状を打破することを考えるべきだ、と続ける彼の考え方は、静香にもよく分かる。確かにその通りではあるのだが・・・。
「でも、自分一人ではどうしようもないことってありますよ」
「それは己の力が足りんのだ。だから・・・」
続けようとした彼に、静香は少し悲しげに微笑んで言った。
「海馬さんは強い人ですね」
お前に何が分かる、と思ったが、その微笑になぜか反論を塞がれた。
なぜなのかは分からない。
「じゃあ、始めますね」
言って華奢な手が彼の足を取る。
足の裏から与えられる刺激は言われてみれば心地よいと言えなくもない。
「痛いところ、ないですか?」
「ない」
きっぱりと答えた彼に、静香は笑った。
「海馬さんはほんとに、健康ですね」
「痛いところがあるとダメなのか?」
少し離れたところで見ているモクバが背後から声をかける。
「痛みを感じるところが、弱っているところとつながってるんです。例えば・・・ここはどうですか?」
言って静香が押さえたのは、親指のつけねあたりだ。
「・・・・少し痛い、かもしれない」
「肩こりのツボです」
くすり、と笑って静香が答えた。
「よく知っているな。こんなことを」
なんにせよ弱みを握られたような気分になりたくなくて、彼は話をそらした。
「ええまあ。実は将来、こういう仕事しようかと思った事があって。ちゃんと資格とかも取ったんですよ」
施術する手を少しも休めることなく、静香が答えた。
「ああ・・・・まあな。流行りだというしな。いいんじゃないか」
いずれにせよ彼とは全く関係のない職種だ。
そういう仕事についてくれればあまり関わる事もなくなるだろうしなどと、薄情な事を彼は考えていた。
だがそれはそれとして、まあこういうサービスも悪くはないかもしれない。あの企画書は前向きに検討してみることにしよう。
足の裏から伝わる柔らかな刺激と共に、ソファに深く沈み込んで目を閉じた彼はだからそのときには気づいていなかったのだ。
うつむいていた静香の表情にも、離れたところでそれを見つめていたモクバの複雑そうな顔にも。

「どうした。モクバ」
出社して最初に、例の会社の企画書をリサーチ部に回した彼は、目の前のソファでうつむいている弟の常ならぬ様子に気づいて声をかけた。
「あのさ、兄サマ。昨日の静香のことだけど・・・」
「昨日?」
例のマッサージのことだろうか。
「ああ、お前もやってみたかったのか? なら今日にでも頼んで・・・」
「そうじゃなくてさ。静香が・・仕事にしたいって言ってたこと」
「ああ・・・そんなことも言っていたな」
「あれはよくないよ、兄サマ」
珍しく批判的な言葉が弟から飛び出したので、瀬人は目を見張った。
「何がよくない? オレは静香に強制してやらせたわけでは・・・」
「そうじゃなくてさ。静香が仕事にしたいって言ってたのはさ、多分・・・それしかできなかったからじゃないかな」
キーボードを打ちかけていた瀬人の指先が止まった。
モクバの言わんとしていることがわかったからだ。
「静香はさ、昔は・・・目が見えなかったから・・・」
そうなのだ。
今は全然そんな素振りを見せもしないが、以前の静香は確かに盲目だった。
だから普通の人間が、普通にできることが静香にはできなかったのだ。
『自分ひとりではどうしようもないことってあるでしょう?』
そう言われたときに気付くべきだったのだ。
目の見えない人間が、できる仕事など限られていることに。
それを流行りだからいいんじゃないかなどと無神経なことを言って、挙げ句の果てに自分とは関わりのない業界だからなどと恩知らずにもなんたる暴言か!
ああ、海馬瀬人よ。お前など豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ!!!
かつてない自己嫌悪に陥った彼は生まれて初めて、「カードを使わない死に方」を自分の死因にカウントした。

朝一番のつまずきが尾を引いて、肉体よりも精神的に疲れて帰ってきた瀬人を、静香は変わらぬ笑顔で出迎えた。
昨日のことを気にしている様子はない。
だが、静香が気にしなくても彼は気にしていた。生まれて初めての自分の失点を前にかなり動揺していた。
こんなことではいかん!
現状を打破しろ、海馬瀬人!
自分に言い聞かせて、必死で謝罪のタイミングを探す。
だがそもそも謝罪とは形ある物にしてはじめて意味があるとそう信じる彼である。つまり早い話が「賠償金はいくらだ」ということになるのだが、この場合それが当てはまるケースでない事くらいはさしもの彼も分かっていた。
金はダメだ、金は。
では他になにか。
なにかないか、静香が喜びそうな・・・・・・・そしてふと目に触れたのは、机に投げ出した鞄からこぼれ出た、例のサロンの無料ご招待券だった。

「まあ、これくださるんですか? ありがとうございます」
「ああ・・・まあな、昨日の礼のかわりだ。全米一の美容サロンだと言うし・・・その、仕事にしたいというなら、見学がてら行ってみるのもいいのではないか。ああ、もちろん、気に入ったのなら通ってみてもかまわんぞ。費用は全部こちらが持つ」
「はい。ぜひ行ってみます。いろいろ覚えて、海馬さんにもお返ししますね」
「あ、ああ、そうだな。その・・・いつか頼むかもしれないな」
おっとりとうれしそうに笑う静香は、やっぱり昨日の事を気にしている様子はなかった。
なかったが、彼はやっぱり気になるのだった。

後日。
くだんの美容サロンにやってきた日本人の少女が、海馬瀬人様ご進呈のはずの無料チケットを手にしていたことで、あらぬ誤解が生じ、その場にいた関係者一同を驚かせるのだが。
全く馴染みのない業界の噂話が彼の耳に入る頃には、「海馬瀬人に秘蔵の恋人アリ」のニュースはサロンの得意客である有閑マダムたちを通じ、既にウォール街中知らぬ者とてない既成事実に成り上がっていた。
かくして彼はストレスとはなんぞやを知る。

nervous breakdown …