轟音とともに崩れ行く王宮を、彼女は対岸の離宮から呆然と見つめていた。
強大な王国の礎ともいえる王の住まい。
この世に永遠のものなど消してありはしないと知っていたけれど。
些かの揺らぎも、僅かな翳りも、許さなかったこの国が。
こんなにもあっけなく、なんの兆しさえ見せずに。
壊れていってしまうものなのか。

先日来、謎の襲撃を受け続ける王宮から、彼女を含め各国の賓客たちは一時避難という形で先代の王妃が住まいとしていた離宮へ移されていた。
昼の最中に闇に閉ざされ、神の怒りとも思える雷が降り注いだあの日からすべてが狂い始めた。
六神官の一人の殉死。王の失踪。次々と入ってくる不吉な噂は各国の諜報員によってすぐに裏打ちされ、しかも公式の発表は一切なく、仮宮に置かれた諸国の王族たちは、夜毎徘徊する魔物に怯え、勝手に帰国する者さえあるというのに、それに対する咎めだてさえない。

( ・・・あの人も変わってしまった )

最後に会ったのは、仮宮に移送されるその日。
心に迷いを抱えた瞳だとすぐにわかった。
見上げる彼女の視線を反らすように、目を伏せ、常よりも静かな口調で、短い謝罪を告げた。
しばらく、会えそうもないからと。

『すまない。次の市には街をご案内する約束だったのにな。』

いいんです、と首を振る彼女に、二、三度口を開きかけ――――――結局何も言わずに立ち去ってしまった。

あんなふうに迷いを見せる人ではなかったのに。

その後入ってくる噂話の中には、街で魔物狩りと称して強制的に臣民を連行する神官の悪行も混じっていた。信じたくはなかったが、けれど不思議なくらい、それが彼だということに確信があった。
王の持つ強大な力さえ退けられた敵を前に、焦り、苛立つ彼の気持ちが手に取るようにわかったからだ。
絶対的だと信じていたものが崩れ去る、その瞬間。

あなたは運命に裏切られた。
だからあなたはもうあなたの神を信じない。

見捨てられた神とともに、彼女は少し、泣いた。


王の死が、王国を覆っていた。
まさか、と誰もが不安に揺れる中、ようやく訪れた王宮からの使者は、闇の魔物を退けるために王が死に殉じたこと、喪が開け次第、次の王が発表されるだろうことを手短に告げて帰っていった。
喪葬に沈む王宮に、諸国の一団とともに戻された彼女は、いちばんに彼の姿を探した。
奇跡的というべきか、崩れ落ちたのは王宮のみで、街にも神殿にも被害はなかった。王の恩恵を持ちまして、と使者は言っていたが、結局のところ、敵(それが具体的に誰なのか、彼女にははっきりとはわからなかったが)の狙いが、王とその力そのものであったということなのだろう。―――この豊かなナイルの賜物ではなく。
だとすればこれは侵略でも叛乱でもない。――――ただの王宮闘争だ。
ならば首謀者たりえるのは―――――――。

そこまで考えて、彼女は足を止めた。
知らず歩調が駆け足になっていたことに気づいたからだ。

( なにを、焦っているんだろう )

使者が告げた、主立った殉死者の中に、彼の名は入っていなかった。
彼は生きている。ならばいずれ彼女の前に姿を見せるはずだ。
なのにこんなにも不安なのは。

( 違う。そんなはずない )

そう否定する一方で王女としての自分が、嘘だ、と冷静な声で宣告する。

( あなたはもう知っている。気づいている。誰も自由足りえない。
自らの自由への渇望の前には )

『権力者の気まぐれで、すべてが台無しになることもある。それでもか』

どうにもならないこと。どうしようもない思い。
運命と、それに抗う衝動と。
天秤にかけられた二つが、そのどちらの重みにも耐えられなくなった支柱を壊す。

「・・・セト様!」

がらん、と人の気配の遠くなった神殿の奥深くで、彼女は彼女の運命の名を呼ぶ。
抗うために。

呼び声に答えたわけではないだろうが、その人はすぐ目の前にいた。
やはり、というべきか。
神の像の前の、短いきざはしに腰を下ろし、力なく地を見つめている。
そしてその神像の前には、新たに作られたと思しき石板があった。刻み込まれた文言は、死者への追悼だとすぐに気づいた。

「・・・セト様」

名を呼べば、ゆるゆると視線が上がり、彼女をみた。

「・・・あなたか」

口をきけるだけの気力は残っているらしいと知って、わずかに安堵し微笑んだ。

「はい。わたくしです」

その笑顔に、やはり力ない笑みが返される。

「ご無事か」
「・・・セト様こそ」

ご無事でよかった、という言葉は飲み込んだ。よかった、などとは言えない。きっと今は言ってはならない。
けれど他にかける言葉が見つからず、また地に落ちた彼の視線を追って、彼女は黙り込んだ。
人気のない神殿の中で、午後の光が天井の隙間を抜けて差し込んでいる。
巨大な石の列柱が立ち並んでいるというのに、不思議に周囲はほの白く明るい。そよとも動かぬ大気の中で、降り積もるのは塵ばかりだ。
時間が止まっていくようだと思った。

「・・・王宮に、お帰りにならないのですか」
長い沈黙の後に、彼女はそっと問いかけた。
まるで、家出した子供に諭すように。

「・・・王宮か」

彼の視線はやはり変わらず、地に落ちたままだ。
帰れる場所ではないと、そう言っているようで、彼女は先刻の不吉な予想を思い出した。

「・・・戻りましょう。セト様」

もう一度だけ、うながしてみた。
それでうなずかないのなら、もう言わない。
だって、戻れない場所がある気持ちはわかるから。
もう一度だけ。

「戻りましょう。まだ王も決まらぬ今、民が頼みにしているのは神官の皆様だけです。でも他の神官様方は負傷されていると伺いました。・・・宰相であるシモン様だけでは到底おいつきません。セト様のお力が必要なはずです」

上っ面だけの説得だと、自分でもわかっていた。この国のことなんか、本当はどうでもよかった。ただこの人を立ち上がらせるのは自らに課した厳しい責務だけだと知っていたからだ。こんなふうに気弱な彼をみたくなかった。

「王、か」

けれど自嘲するように、彼は笑う。

「ではこの話は聞いているか。・・・なんと次の王はこの俺だそうだ」

寝耳に水、とはこのことだった。
男子の血統の尊ばれる彼女たち中近東諸国の王族とは違い、王と王妃の共同統治が原則のこの国では、奴隷上がりの臣下の纂奪すら婚姻によって正当化されるとは聞かされていた。
だが今この国には王も王妃もいない。唯一生き残っている王族は先々代の王妃で確かかなりの高齢のはずだ。

「・・・ほんとう、ですか」

呆然と聞き返した彼女に、彼は笑みを納めてまたうつむいた。

「昨日、シモンの爺めが言いにきた。・・・俺が、王の従兄弟だと」

王に、最も近しい親族として、あなたに王位を継いでいただくと。
王にとどめを刺したのが他ならぬ彼であることを、知らぬが故に。

「・・・・・・・・・父が死んだ」

脈絡なく言われた言葉だったが、それが戻らぬ理由なのだと聡明な彼女はすぐに気づいた。
黙ったまま、聞いていた。

「父だとは思っていなかった。父は幼い頃戦場で死んだものと・・・そう聞かされていた。父とも慕っていたその方が、実の父だなどと、気づいてもいなかった。俺に神威を望み、力を与え、闇に堕ちてもなお、俺を王にと・・・」

では、首謀者は彼ではなかったのか。
そのことにまず安堵した自分がいて、彼女はそんな自分の身勝手さを恥じた。

「父は死に、俺に力を与えた。そのために巻き添えになった娘がいた。虐げられた人生を送ってきた娘だった。強大な魔力を持つが故に、父と俺はその娘を見殺しにしたのだ。なんの罪もない娘を・・・父が殺す瞬間、俺は止められたはずなのだ。そう・・・俺があの娘を捕えなければ・・・父は最初に俺に忠告したのだ。闇の力に捕えられる前に、娘を解き放てと。そうしなかったのは俺の罪だ。父は俺の邪心にあてられて、闇の力に屈したのだ。俺が父を唆したのだ。この俺の、心の闇が・・・」

話すうちに、ぎらりと瞳に狂気が宿る。
悲しみが、いやそれ以上に贖罪への飢餓が、この人を狂わせようとしている。
自分のせいで大事な人たちを失った。償うことなどできない過ち。

「俺は、誰も、、、、救えなかった。父も、娘も、王も、、、、」

強く、錫杖を握りしめる手が震えていた。

「その俺が、、、、王、だと、、、」

乾いた笑いが、耳を打った。
肩をゆすって、頭を垂れて、自らを嘲笑うように。
その人は笑っていた。
涙などでなくても、これは慟哭に等しい。
無力感に打ちのめされて立ち上がれずにいるその男の傍らに、彼女は我知らず膝まずいていた。
肩に羽織ったヴェールが地に落ちるのもかまわずに、その肩を抱きしめる。
途端、笑い声は止んだ。

「あなたは・・・無力ではありません」

なんの慰めにもならぬことを承知で、彼女は囁いた。

「あなたは・・・王位にふさわしい、立派な、気高いお方です。だからそんな風に自分を貶めるのはお止めください」
「慰めなどいらぬ。俺は誰も救えなかった。ただ一人おめおめと生き残った、惨めな敗者だ」

抱きしめる腕を振りほどくように手をかける彼に、彼女はそっと首を振る。

「でもセト様は・・・私を救ってくださいました」
「俺は何もしておらぬ」
「いいえ。ただ一人、異国の王宮で朽ちていくはずだった私に、声をかけてくださいました」
「そんなことか」

鼻先で笑う彼に、彼女は微笑んだ。

「セト様に声をかけていただくまで、私は誰とも口をきかない毎日だったのです」
「あなたが一人でいるからだ。あなたがうちとけないから皆も声をかけづらいのだ。そうでなければきっと・・・」

「でもセト様は」

普段の説教口調を少し取り戻した彼の言葉を、彼女はやんわりと遮った。

「声を、かけてくださいました」

あの中庭で、彼女の苦しみに耳を傾け、居場所を与えてくれたことがどれほどうれしかったか。
また明日と、そんなささやかな言葉で彼女をこの地に縛る鎖となってくれたことが。
そんな色は似合わない、もっと明るい色を着ろ、もっと表に出ろ、もっと笑え、もっと食べろ、と命令口調で世話を焼いてくれたことが。
心配いらない、面倒は見てやると言われたことが。
どれほどうれしかったかあなたは知らないの。
肉親ですら信じられず、綱渡りのような駆け引きをしながら守られる振りをして守っていた自分が、すべてを傾けて、素直でいられたのはあなたの前でだけだった。
今もこうしてあなたを抱いていられるだけで泣きたいほど安心するの。
だからどうか。

「・・・・・そばにいて・・・」

ささやいて泣き出した彼女の言葉に、彼は一瞬身をふるわせた。
そしてそのまま、じっと、彼女の泣き止むのを待っていた。
彼女の言葉の意味を質すことも、涙の理由を問うことも、抱きしめ返すこともなく、ただじっと、彼女の震える肩先を見つめていた。

気づいたときには部屋に戻されていた。
ずっとつきそってくれていたらしい侍女頭が、セト様が手ずから運んできてくださって、と目覚めた彼女に事情を伝える。
ああ、そうか泣きながら眠ってしまったのかと納得すれば、あの場からここまでの距離に思い当たり、ずっと抱えてきてくれたのかとすまなく思った。

( また、泣いてしまったし。 )

どうにも恥ずかしいところばかり見せている。
毛布の端を噛んで赤面する彼女に、食事の支度を始めた侍女頭が微笑みかけた。
初老、といって差し支えない年だが上品な印象のその人は、以前にもミタンニ人の妃に仕えており、れっきとした貴顕の出だという。実は紹介者は他ならぬセトである。仕えていた妃の死後既に引退していたのを、お国の風習にも詳しかろうからとわざわざ彼女の元に寄越してくれていた。

「セト様もこれからがたいへんですわね。玉座におつきとあればそうそう気軽にお出ましにもなれませんでしょうし」

まだ内々の話でしかないはずの話を彼女が知っていることに驚いて顔を上げた。
なぜ、という表情をしてしまっていたのだろう。
侍女頭はすぐに気づいて、そうお伝えするように言われたのですけれど、と彼女に言う。

「セト様が?」
「ええ。シモン様のお話を受けることにしたと。明日にも正式な発布があるはずです」

あの人が王になる。
そう聞かされて、よかったと思う一方で、それでいいのかと一抹の不安がよぎった。
あの人はまだ苦しんでいるのではないのだろうか。
知らずのうちに自身を中心にして回っていた権力闘争に、死んだ父、王、そして犠牲となった娘。
贖罪の念からその身を玉座に捧げる決意をしたことは十分にありうることだった。しかしそれではあまりにも彼が憐れだ。
悲しみから逃れるために責務に没頭する彼は、わずかの休息すら自身に許すまい。
立ち止まれず、振り返らず、自らを顧みず―――。
そんな王に率いられるこの国は蛮馬に引かれた馬車と同じだ。いつか鼎は折れ、荷は崩れ落ちるだろう。

( 本当に、これでいいの? )

警鐘を鳴らしたのは、むしろ王女としての自分だった。
確かにあの人はうまくやるだろう。崩壊するぎりぎりまで、なんの予兆も見せずにその役目をやりきるだろう。
そういつだって。

( 壊れるのは、一瞬だ )

止められるのは今しかない、と思った。
彼のためを思うならば。

「姫殿下、どちらへ?」
寝間着を手早く着替えて部屋を出ようとする彼女を侍女頭が見とがめて声をかける。
「セト様のところへ。お話があります」
言い捨てて歩を急ぐ彼女に背後からもう一度声がかかった。
「お国許から書簡が届いておりますが」
「後で読みます」
「ですが、お兄さまからですよ」
彼女が唯一楽しみにしていて、そしてそれが決して多くはないということも知っていて、侍女頭が付け加える。母親からの書簡と違い、筆無精な兄がわざわざ書を送ってくるのはよほどの重大事が起こったときに限られていた。
どうしようかと一瞬迷い、結局きびすを返す。
人を訪ねるには遅すぎる時間であることに思い至ったからだった。

即位にまつわる様々なごたごたが一段落して、王宮はようやく以前のような落ち着きを取り戻そうとしていた。
前王はその命をかけてすべての災厄を連れ去ったのだと、巷は希望的観測で落ち着いている。
真実は誰も知らない。―――知らなくてよい。
全ての因果関係を把握するセトは、そう結論づけて自らに課せられた新たな役割を演じはじめていた。
―――演じる。
そう。
玉座の前をせわしなく行き交う家臣たちを見ながら微かな自嘲に口元を歪ませる。
彼の知らぬところで進められ、お膳立てされた即位式。
足下に跪く人々が彼の許しを求める言葉、目の前に積み上げられていくパピルスの束は、関係各位の間で半ば了解を得た決定事項で、彼の元で判断すべきことはとうに終わっている。ただの通過儀礼としての、「許可」。うなづくだけで全てが進んでいく予定調和。
傀儡の王たるつもりはない。だが何のための玉座なのか、わからないのも事実だった。
王権を守る立場にいた自分が、今王権そのものを得て守られるべき立場にいる。
この男には不似合いな感情ではあったが―――彼はそのことに対して「いたたまれない」気持ちを抱いていた。
誰か他の者が王であってくれれば、自らはそれをもり立て、あるいはうまく操りもして、この国の中枢を占める一角の立場で充足感を得ていただろう。そしてその方が自分には合っているような気がしていた。
とはいえ、周囲は既に彼を王とし、彼を頭に据えて動く体制を整えつつある。
器が整えられれば中身も変わらざるをえない。
そんなわけで、彼は押し付けられた「為政者」という名の仮面を素顔と同等にするため、自己改革という難問と取っ組み合っている最中だった。

そういえばもう幾日会っていないのだろう。
ふと、王宮で孤立していた異国の王女に思いを馳せる。
今も一人でいるのだろうか。
最後に相見えたのは、即位式の日。自国の代表として祝辞の挨拶に来た時だった。
優雅ながらも一線を引いた完璧な外交用の笑顔を浮かべ、計ったようにきっちり3分、台本を覚え込んだ役者さながらの社交辞令を口にして帰っていった。
ああ貴方も私と同じ世界の生き物だなと、ほんのわずか共犯めいた気持ちを抱きながらも、若干の違和感は残った。
王族としての外交責務を果たす一方で、個人的なよしみを結んでいた自分に対し、もう少し暖かみを感じさせる徴しがあってもよいのではないかと、そう思ったからだ。
もしかして怒っているのか?
そう思うのは、彼女と会わずにいた間に出会い、死なせた一人の女のことを思うからだった。
むろん、やましさを感じるような事実は彼女との間にも、死んだ娘との間にも、ない。
だが、あの娘が生きていたとして―――信じるべき神を見失い、闇の中にいた自分にとって唯一の希望となった娘がもしも生き残ってくれていたとして―――そうして王も死なず、父も死なず、全てが解決の道を辿っていたとして―――それでも自分は何事もなかった顔をして彼女の前に立つことができただろうか。
どんな顔をしてその娘のことを、彼女に話せばよかっただろうか。
そばにいてほしいと言われた、あの日のことを思い出す。
兄のため、母のため、そして何よりも内紛に衰えていく自国のためにたった一人でやってきた彼女のことを、彼は高く評価していた。
見かけ通りのたおやかな姫ではない。成熟した政治家の目を持つ、聡明で強い娘だと。
その彼女の震える肩を、声を立てない泣き方を、初めて守りたいと思ったあの日。
そしてそう思うことで立ち上がる力を得た自分。

――――――そうか。

やましさの理由に思い当たる。
友の遺言、父の希望、彼女の願い。
死んだ者との約束は破れない。購えぬ血の宿業とただ一人生き残った罪悪感。

( ―――そばにいて。)

ささやかな願いすら望まぬ玉座の言い訳にして。

「陛下?」
傍らに控えるアイシスが彼の様子に気づいて声をかける。
顔を上げれば差し出された一枚の書状があった。
膝まずいた姿勢のままで、律儀に彼が受け取るのを待っている官僚の一人もまた、反応のない王にいぶかしげな視線を注いでいる。
謁見の最中であったことを思い出し、きまり悪げに受け取った書状を一読した彼は、ふと眉をひそめた。

彼女から侍女を通じて面会の申し込みがあったのは、その2日後のことだった。
会いたいと指定された場所は、王宮から離れたあの神殿。
かつて彼が案内した自身と同じ名の神を祀る場所。
夕闇の迫る時刻に、セトは一人で王宮を離れてその場所へ向かった。
護衛であれば自身の精霊獣がある、誰もついてくるなと言い残し、半ば脅しつけるようにして出てきていた。どうせアイシスあたりが自身の精霊獣に後をつけさせているのだろうが。
それでも会わなければならない理由が、彼の方にもあったのだ。

「―――セト様」
たどり着いた神殿で、彼女は既に先に来ていた。
「お久しぶりでございます」
丁寧に礼を取る、その姿は以前と変わりなくたおやかで―――美しい。
それを口に出したことはなかったが、セトは心の中でそう認めていた。
彼を見つめるその瞳には聡明な光があり、口元には少し悲しげな笑みがある。
それだけが以前よりも―――おそらく彼と知り合う前よりも―――強くなっている。
その印象が、彼の心に影を投げかけた。

「久しぶりだ―――お元気であられたか」
「はい。おかげさまで日々恙無く過ごさせていただいております」
会わずにいた時間が、逆転した立場が、2人の間に距離を作っていた。
王族と臣、という身分だけではない。
かつて彼女の抱えていたと同じ闇を、彼は知ってしまった。
うぬぼれるならば、かつて彼女は彼によって闇から光の世界へ連れ出された。
しかしその後、彼は彼女と同じ闇の苦しみを、そして悲しみを得た。
もはやどの面下げて会えるというのか。このエジプトで幸福になれなどと言った自分が。
栄光の玉座とそれを守る聖具に隠された幾多の犠牲を知る今となっては。
堕ちた偶像を前に、司祭が信者に覚えるような罪悪感を、彼は抱いていた。
伏し目がちな彼女の態度が彼への遠慮を伝えている。
それを咎めることも、以前のように気安くはできなかった。

「―――何か、御用がおありとか」

短い社交辞令の後、かける言葉が途切れた。互いの距離を測り合うような沈黙の果てに、彼はようやく口を開いた。
石造りの神殿、彼の背後で砂に沈んでゆく夕陽が首筋にその熱を伝えてくる。
その陽が作り出す、太い柱のくっきりとした影の中に立って、彼女は彼を見つめていた。

「――――――国に、戻ることになりました」

やはり、という思いが、彼の目を閉じさせた。

ミタンニから、王子が亡命したとの知らせが入ったのは一昨日のこと。
現王が病に倒れ、執政を補佐していた王妃や大神官との折り合いが悪化したため、と報告にはあった。
王子が亡命した先は、妻の実家であるバビロニアで、かの国は今アッシリアの支援を得てミタンニとヒッタイトの支配を逃れつつある。常勝将軍の評判高いミタンニの王子の亡命は背後に控えるアッシリアにとっても歓迎するところだった。

「兄君の件でか」
わざと言葉を省いて、事情は知っていると伝える。泣き笑いのような顔で彼女はうなずいた。
「はい。亡命するひと月ほど前に、知らせが来ました。今準備を進めているところだと。何度か暗殺されかかって、兄だけでなく、妻となられた方まで被害が及んで―――もう我慢できないと。義姉は―――身籠っていて、それで―――お子が流れたそうなのです。兄にとって初子だったのに。生まれるのをあんなに楽しみにしていたのに―――」
影の中で、こぼれ落ちる雫が光る。
肩を震わせ、それでも小さな手を握りしめて、ここにはいない母を糾弾するように彼女は激しい言葉をほとばしらせた。
「許されないことです。そんなことまでして玉座を望むなんて。それを私のためだなどと。それが真実だとしても、私には許せない。でももっと許せないのは―――その母の所行を知りながらこうして国に戻る自分なのです。母のためではありません。玉座を望むからでもありません。ただ私が戻れば、兄がミタンニを攻めることはないと―――例え攻めたとしても牽制することはできると―――そう知っていて、それを利用しようとしている私なのです」
「例えあなたの兄上がそうであったとしても、背後に控えるバビロニアやましてアッシリアはそれを許しはすまい。あなたが帰られたとてできることは何もないのだぞ。亡国の王族としての辱めを受けることになるやも知れぬ。生死のさだかすら占えぬ国元にむざむざ戻せると思うのか!」
最後の言葉は自分でも予期していなかった本音だった。
あなたを死なせたくない、結局のところそれだけが彼女を引き止める理由で。
「でも私は王女です!」
そして彼女にとってはそれだけが、戻る理由なのだった。

その一言に、ああ、と彼は気勢をそがれる。

「―――あなたはそのためにこの国に来られたのだったな」

「それだけが、私が生かされている理由ですから」

「生かされる? 誰に?」

「すべてに。この躰に。この心に。存在する基点となる全てのことに。望むと望まざるとに関わらず、そういう考え方をするように、私は生かされています。生きて、ものを食べて、眠って、息をして―――考えて、動く。ごく自然に行う命の営みに溶け合うようにして、私が王女であるという立場がものの見方、捉え方、立ち居振る舞いの全てを決定づけているのです」

「私は王ではない。少なくとも生まれ落ちたときはそうではなかった。だが、今はそう振る舞うこと、そう考えることを強いられている。―――不自然なことだというのか?」

「そうではありません。あなたはあなたの依って立つ生き方がある。あなたは王であることよりも大事なことがあって、そのために王となられた。あなたはあなたに希望を、力を望んだ方のために受託者としての道を歩まれる。でも私は」

「誰に、何も、託されはしなかった。自らに律するものを与える以外、生きる道はないのです」

それでも自ずから選んだ道なのだと、彼女は頭を上げて分岐点に立つ。
その悲壮な覚悟が、誇らかな意志こそが彼女を生かしてきたのだ。
認めよう。紛れもなく彼女は王の娘だ。支配する側の人間だ。にわか王族の自分など足下にも及ばぬその視線の遥か先。

( 貴方は最初から私など見てはいなかった。 )

この砂漠の景勝が、ナイルの恵みが、偉大な文明が、どれほど貴方の興味をひこうとも所詮は一時の退屈しのぎに過ぎぬ。幕間過ぎればそれまでの絵芝居と同じ。

「お別れです。ファラオ」
泣き笑いの彼女の双貌もまた、影絵のように砂漠の陽に翳って見えなくなる。
まるで自分のことではないようだった、彼女が最後に呼んだ自分の名。
及ばぬ、と思う。
それが自分であると、ごく自然に受け入れられるようになるまでは。
この小さな少女にすら及ばぬのだ。どれほどうまくその仮面を演じきったとしてもきっと自分は王ではない。彼女が既に選んでしまっていた道を彼は未だ迷いながら行く。あの友ほどの、そして彼女ほどの覚悟はきっと彼にはできない。それが定まらぬうちはどこまでも自分はかりそめの王なのだ。

「国許へは、いつ」
押し殺した声で、ようやく言えたのはそれだけだった。

「ファラオのお許しを得しだいと考えておりました。最後のご挨拶をすませたら」

「最後の・・・」

「はい。今、ここで」

黄昏時の風が、ゆるやかにその髪を揺らす。
いとけないとさえ思える顔立ちが、驚くばかりに大人びる。王族としての彼女の顔。神々しいとさえ思えるほどのその微笑。その笑顔には覚えがあった。
ひとつはかつて、午後の回廊で、戻れぬ理由を明かしたときの顔。そしてもうひとつは。

( 死を、覚悟した女の顔。 )
――――――キサラ。

どうしてそんな顔ができる。
脳裏に焼き付く静かな笑みは、彼には到底たどり着けぬ境涯だった。
死んだらそれまでだ。それで終わりではないか。
怒りとともにこみ上げるのは己の無力さだ。
生きろ、前を見ろとどれほど怒鳴りつけようと、彼女たちの心はもう決まっていて。
無駄と知りながら足掻き続ける彼をあやすように笑って、踵を返す。
彼女たちが自らの命と天秤に乗せたものは等しく釣り合い、崩れることはない。この手のひとすくい、髪の毛一筋分も、彼の側に傾く余地はないのだ。
己の価値を測る冷酷な計算式で、彼女たちは命と引き換えに購う。
キサラは神の威を。貴方は自らの王国の運命を。
彼が無力なのは当たり前だった。最初からその計算式の外に置かれているのだから。

「―――お世話になりました。日々お健やかに、あられますよう。遠くより御治世の繁栄を願っております」

どこまでも優雅に、どこまでも恭しく、彼女は夕闇の中、最後の一礼を返してきた。
最後の幕を引く、見事なフィナーレ。

…未完