髪の長い女性だった、という記憶くらいしかないそうだ。
あまり似ていない兄弟だとよく言われる。
鏡を見れば確かにそのとおりで、モクバ自身、もしかして実は血のつながりなどなくて、ただ孤児院で兄替わりに世話してくれていただけの関係なのではないかと疑ったことさえある。
それくらい似たところがなかった。髪の色も目の色も顔立ちも。
思い切って兄に聞いてみた時、彼が一笑に付した上で、彼らと父が一緒に映っている写真を見せてくれたので、ようやく納得したくらいだ。
写真に映る父の姿は兄によく似ていた。
父方の祖母が実は北欧の人だと教えられたのもその時で、それが兄の色素の薄さの理由らしい。
対するモクバは髪の色も目の色も黒々としたアジア人種の色合いだ。
お前は母親似だと、そのとき兄は言った。
モクバが生まれてすぐに亡くなった母の姿は、その写真の中にはなかった。
どんなところが似ているの?
そう問いかけたとき、兄は珍しく困ったような顔をした。
しばらくの沈黙の後に、髪の長い女性だった、とだけ言った。
ようするに兄もあまり覚えていないらしい。
覚えていない人間を引き合いにだして似ているもなにもないだろうが、ただ自分を安心させようとしてくれたのだろうと、そのことだけがうれしかった。
彼が髪を切らない、それが理由である。
Conversation piece of lack
(仮想家族の肖像 あるいは想い出の不在について)
「アイ・ツーの新しいゲーム出たんだね。ダイス・ダンジョンのバージョンアップしたの」
兄の手にしたNew York Timesの経済面がモクバの側を向いていて、彼はその2段目くらいに載っていた記事について口にした。
言われて、兄が目を通していたのとは反対側になっているその記事を見返す。
「ああ、御伽が考案していたものだな。弁護士と総務室から特許使用の報告があったからそろそろだろうとは思っていたが」
「あ、うちのシステム使ってるんだ」
「いや、3Dのプログラムの方だ」
K.Cといえばソリッドシステムが最大の売りだが、実はそれ以前にもいろいろと3D関連のプログラムを開発している。しかもそのあたりは国際規模で特許申請が済んでいるため、ここニューヨークでもかなりの使用料の収入があった。忌々しいことにそれをしたのは先代の剛三郎だ。がめつい男らしく、軍事使用以外にも適用できるように、しかも概念や考案の方は海馬家、ハード系の技術は会社でとそれぞれ特許を取っていた。
「あの男が残した事業の中では唯一目のつけどころがよかった点と言えるな・・・」
ため息とともに吐き出した兄の言葉にはやはり力がない。
よほど認めたくないのだろう、と思う。と同時に未だ乗り越えられずにいるのだろうかとも思った。
兄の養父に対する葛藤はすべてあのアルカトラズとともに捨ててきたはずなのだが。
「・・ねえ兄さま。俺たちのほんとうの父さんってどんな人だった?」
話題を変えたくて、しかしやはり出てきた話題は微妙にそれと絡んでいた。
「ん? 父か・・・そうだな。普通の・・・人間だったと思うぞ。あまりよく覚えていないが」
「そっか・・・」
実はモクバにとってもそうなのだ。父は母よりは長く生きていたし、3歳のモクバならともかく7歳の兄ならばとは思ったのだが。
「・・・もともとそれなりの資産はあったのだろうが・・事業は下手だったのだろうな。平日の昼間でも家にいた記憶があるし、多分ろくに働いていなかったのではないか?」
「そうなの?」
「多分な」
よく覚えていないが、と再度言いおいて兄は新聞に視線を戻した。
結局兄にとってはよくも悪くも父親といえばあの男になるのだろう。
「母さんは・・・どうだったの?」
母、という単語を口にした瞬間に若干の違和感が残った。
普段口にすることのないその単語は、彼らの間では禁句というより疎遠という言葉がぴったりくる。
話すことがない。想起されるイメージがない。会話になりようがない。
例えば学校に行けば、今日母さんが、とか最近母さんうるさくて、とかそういう言葉はよく聞く。そして聞くたびに、自分には縁のない話だと思う。淋しさよりもただぼんやりと隙間のような空白が残る。
欠けてしまった何か。モクバにとって母親とはそういう存在だ。</p
そういえば海馬邸にもメイド以外の女性はいなかった。彼らが引き取られたとき剛三郎は既に独り身だった。乃亜という存在がいたのだから妻がいたのだろうが・・・別れたのか死んだのか、誰からも聞いてはいない。
結局縁遠い。そういう巡り合わせらしい。
「・・・覚えていないな。髪は長かったな。確か」
兄もやはりいつも通り不確かな答えを返した。本気で覚えていないのか、モクバが差別感を覚えないように語るのを避けているのか。本気で思い出そうとしていないところを見ると多分両方とも正しいのだろう。語るほどの思い出もなく、語ったところで弟が悲しい思いを引きずるだけ。そんな兄の気遣いがモクバには少し、つらい。
早く大人になって、兄の負担を減らそうと思うのはこんな時だ。
「なんのお話ですか? 」
例によって食後のコーヒーに心血注いでいた静香がようやくキッチンから戻ってきた。
「ん・・・ちょっとな。俺たちの母親の話。オレが小さいときに死んじゃったからどんな人だったのかなーって」
「だからよく覚えていないと言っているだろう」
静香の前でする話ではないと思ったのか、兄が釘を刺した。
2人きりのときですら話題に上ることは稀な話題だから、彼女の前ではしたくないのだろう。あまりにもプライベートに近すぎる。
兄が彼女に対して意識的にラインを引きたがっていることにモクバは最近薄々と気がついている。・・・意識しておかなければ、拒絶できないラインをあっという間に超えられてしまうということにも。
「・・・・・・そういえばずっと気になっていたんですけど」
そのあたりの空気を察したのかどうか。静香が切り換えた話の方向は、十分に2人の意表をつくものだった。
「乃亜さんて、誰だったんでしょうね」
「え?」
兄によく似た面差しの少年の、最後の笑顔を思い出す。
誰なのか、と言われればかの少年に実際に会ったことのある人間は誰もいない。
海馬剛三郎の、実子。
電脳世界に残っていたデータだけで作り上げられたバーチャルパーソナリティ。
彼らが出会った頃にはとうにマテリアルな存在ではなくなっていた。
けれど、彼と交わした言葉も触れ合った疑似映像も、モクバにとっては実体と比べても全く遜色ない、リアルな存在だった。
モクバの脳裏に蘇る、あの男を父と呼び、ともに滅んでいった淋しい少年の記憶。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、兄の、ことさらに吐き捨てるような言葉が響いた。
「馬鹿馬鹿しい。今更なにを。アレは剛三郎の妄念の集合体だ。とうに亡くなったものを電脳世界で蘇らせるなど非建設的な・・・」
「本当にそうでしょうか?」
苛立つ兄を遮る静香の声は意外なほど落ち着いていた。
「・・・なに?」
「私、以前磯野さんに伺ったことあるんですけど、磯野さんは海馬コーポレーションに入社して15年になるんですって。でも先代の海馬社長にお子さんがいたなんて全然ご存知なかったそうなんです。だから乃亜さんのこと知ったときはほんとに驚いたって言ってました。でも・・・乃亜さんがもし本当に存在していたのなら、それっておかしくないですか?」
「・・・別にありえないわけではなかろう。磯野が入社するより前に亡くなっていた可能性もある」
「それでも、もし本当に生きていらしたことがあるのなら、瀬人さんの耳に入らないのって変です。戸籍にだって残るんだし。少し調べればわかるような痕跡が残るはずでしょう?」
「・・・・・・何が言いたい」
「・・・・・・乃亜さんが、瀬人さんに、すごく似てる理由です」
はっ、とモクバが顔を上げた。
そうなのだ。初めて乃亜の姿を目の当たりにしたとき抱いた印象。
「・・・・・・昔の兄さまに、そっくりだった・・・」
そしてどこも、似ていなかった。海馬剛三郎には。
「モクバさんから、海馬家に初めていったばかりの頃のことも伺いました。みんなすごく冷たかったって」
余計なことを、という兄の視線が注がれるのがわかったが、モクバはそれどころではなかった。
静香が何かの核心に触れようとしている。そのことが怖かったのだ。
「でも、後になって家政婦さんとか、ほんとは優しいことがわかって信頼できる人も増えたって。でも思うんですけど、最初冷たく感じられたのは、多分海馬家の人たちも、慣れてなかったからじゃないかと思うんです。
私、長い間病院にいたからわかるんですけど、病気の人のお世話もそうで、看護婦さんも新人さんとそうでない人ってすぐわかるんです。慣れていないと相手の立場になって考えてあげられないから、つい健康な人と同じように扱ってしまって、それが病気の人にはすごくつらく感じられるんですね。
看護婦さんに聞いたら、子供のお世話なんかもそうなんだそうです。
例えば、子供と話すときはしゃがんだりして目線を平行にしないとすごく威圧感を与えてしまう、とか。モクバさんが最初海馬家の人たちが冷たいって感じたのは、海馬家の人たちも、小さいお子さんの世話に慣れていなかったからじゃないかと思うんです」
「・・・・・・・・・」
そういえば、とモクバには思い当たる節があった。あの家政婦が急によそよそしく感じられなくなったのは、彼女が子供を産んだ後ではなかったか。
そして、多分彼女を真似ることで、他の使用人たちも打ち解けたように感じられたのかもしれない。
自分たちの知らないところで、思わぬ変化の引き金が引かれていたのだ。
「でもね、もしそうなら・・・海馬家にはずっと、小さい子供はいなかったことに、なりますよね?」
だとしたら。
乃亜。
お前、いったいどこにいたんだ。
誰もがばらばらにしたまま放り出していたパズルの破片をひとつひとつ取り上げる静香が、ゆっくりと予期しなかった完成図を描き出していく。
全てのピースをはめ終わって、現れたのは騙し絵のような現実。
仮想世界よりも複雑怪奇な。
その絵の中に、少年の姿はどこにもない。
「・・・・・・なるほどな。面白い推論だ。裏付けとなる証拠は不足しているが、分かってしまえばそれを調べるのは簡単だろうしな。もっとも今となってはどうでもよいことだが。結局は剛三郎一人の妄念の結果という訳か。どこまでも恨みがましいことだ」
青ざめるモクバとは対照的に兄は養父を鼻先でせせら笑った。
兄にとっては乃亜の存在は剛三郎とイコールで結ばれた憎むべき敵と変わりなく、全てのカタが着いた今、記憶野からは完全に葬り去ると決めているのだろう。
もう、自分の他に彼を覚えていようとする人間はいないのかもしれない。
「・・・本当にそうでしょうか?」
だが、静香の言葉は、これで話は終わりではないと告げていた。
「・・・何が言いたい」
「だから、さっきも言いました。乃亜さんが、瀬人さんに、似ている理由です」
兄に向かって、忘れたのかと言い放つ人間がいるとは思わなかった。
常々思うがたいした度胸である。
そして気がつけば、彼女の主題は全く動いていないのだった。
「乃亜さんが、もしも海馬剛三郎さんが作り上げた仮想世界の人だったとしても、そのモデルになった人は、いるはずですよね?」
無から有を産み出せるほど人間の想像力は豊かではない。まして人間一人の人格を作り上げるのならば必ずプロトタイプとして用意されたものがあったはず。
例えば―――――仮にとはいえ、自らの後継者にした少年とか。
理想の息子を蘇らせたのだと、あの男は言った。
理想の、息子。
「馬鹿馬鹿しい! あの男の頭にあったのは海馬コーポレーションの経営と己の権力欲だけだ。息子など自分の思い通りになる傀儡としての存在価値しか認めていない。乃亜とて最後には裏切られ切り捨てられたではないか! あの男に肉親への情などあるものか!」
激昂した兄の言葉に、乃亜への同情が見えたことにモクバは気づいた。兄にしても死者を悼む気持ちはあるのだとほんの僅か安堵する。
「例えばそれがどんなものでも、この世でいちばん大事なものだから、いちばん信頼できる人に渡すんじゃないですか?
自分で育てたから、自分と同じように考えてくれるはずだって思うから、自分の大事なものを子供に託すんでしょう?
それは確かに身勝手かもしれないけど、そうやって信じて期待してたからこそ裏切られたときの怒りって大きいと思うんです。例えば海馬さんが海馬コーポレーションをモクバさんに託して、モクバさんが海馬ランドの建設を止めちゃったら、海馬さんだって怒るでしょう?」
普段は決して兄に逆らったりしない静香が、今日に限っては強情に言い張る。
「モクバはオレを裏切ったりはしない!」
言い切る兄の言葉が、モクバに重くのしかかった。
むろん、兄を裏切るつもりはモクバには毛頭ない。だが、兄と自分では違う面もあると、兄にできても自分にはできないこともあると、それが分からないほどモクバは子供ではなかった。
「ほら」
そして静香はそんなモクバをかばうように、瀬人の前に手を広げる。
「剛三郎さんと、同じこと言ってます」
決闘に負けたとき以外で兄が絶句するのを見たのは、初めてのことだった。
巫戯化るな、オレは認めん!と苦し紛れに言い放った兄の部屋の、乱暴に閉められた扉を見つめ、静香はほんの僅か、悲しそうな顔をした。
「やっぱり、言わない方がよかったのかもしれませんね」
「静香はいつから気づいてたの?」
「・・・・初めて乃亜さんを見たときからです。だってあんなに似てるんだもの」
「そっか。そうだよね・・・」
自分も気づいていた。気づいていたのにわかっていなかった。
「乃亜にも、母親はいなかったんだ・・・」
覚えていないのも、最初からいないのも、同じこと。
例えば人生でどれほどの代価を得たとしても、あたたかく抱きしめてくれる腕や、頭をなでる手のひらや、優しい笑顔。そういった思い出が欲しくないと言えば嘘になる。ないものねだりと知っているからこそうらやまないといえば嘘になる。
孤児院で、ふとしたはずみに兄がつぶやいたあの言葉。
『・・・・・お母さん』
泣き出したくなって、泣くまいと思った。
自分には兄がいる。
兄にとってはどうだろう。
例えば少しでも、自分のこの手が兄の助けになるのなら。
そして自分ではない誰かの手が、兄の救いになってくれるのなら。
「瀬人さんにも気づいてほしかったんです」
いつもいつも、お忙しそうで、お養父さんのことを口にするときはとても不機嫌で。
黙り込んだモクバに気づかず続ける静香もまた、同じ思いを抱いているのかもしれなかった。
「瀬人さんはいつも自分の力でって、言うけれど」
それは確かに自分の人生を自分の力で切り開いて行くことは大切なことだけれど。
「でも自分で思う以上に、人間っていろんな人に助けられたり、気づかないうちに何かを託されたり、誰かに信じてもらっていたりして、それが力になることもあるって。
瀬人さんは自分で気づかれている以上に、誰かに力をもらっているはずなんだって」
だから、どんな人も無力なんかじゃないと、静香はモクバにも自分のその手を信じさせてくれた。
「瀬人さん、まだ怒ってるでしょうか」
自分がどれだけ兄に影響力を持っているか知らない少女は、またしても兄の心に巨大な心痛の種を播いたことにまるで気づいていないらしかった。
でも、瀬人さんなら許してくれますよね、きっと。
そうやって笑う彼女の信頼も、やっぱり兄の力になっているのだとモクバは思う。
乃亜。
母さん。
例えば死者たちの世界がどこかにあるのなら、死んだ母さんは、死んだ乃亜にあげよう。
生きている自分は、それだけで希望があるのだから。
それじゃおやすみなさい、と振り返る少女のふわりと流れた髪を見て。
あの日風に散った弔いの花を思い出しながら、モクバは髪を切ろうとぼんやり思った。