
明日の初戦を前にして、やや気が昂っていたのかもしれない。
深夜も近い時刻、海馬瀬人は最後にもう一度自分の目で点検しておこうと、バトルシップの最上部にあるステージに足を運んでいた。
乗り込んだ最初の夕食をかねたパーティで、第1回戦の組分けが決まった、その夜のことである。
本来ならばすぐ初戦開始の手はずだったのだが、上空の天候が不安定だとの報告を受けて、翌日の朝からに延期したのだった。
彼ならば雷が鳴ろうが風が吹き荒れようがいざ出陣となればむしろ喜んで背後に従えるところだがあいにく参加者のうち数名は普通の人間だ。・・・あくまで数名だけは。
厚いチタン合金の扉を開けば、疾風が裾の長いマントを翻す。
夜間の間は高度も速度も落とすように指示してあったが、やはり気圧の高低差の激しい上空は風も強いようだ。
雲が早い速度で流れていく。
扉の外に一歩踏み出し、視界を確かめた瞬間。
あってはならない色彩を目にして、彼は硬直した。
「・・・・・・何をしている」
一人でも嵐を呼び込めそうな不機嫌さを隠そうともせず、彼は長い髪を風に遊ばせている少女の後ろ姿に声をかけた。
振り返った少女の表情は、すこしばつの悪そうなものではあったが、彼の低気圧加減に比べればはるかに罪悪感は薄かった。
それが証拠に、一瞬後にはからりと笑ってみせている。
「こんばんは、海馬さん」
「・・・貴様、深夜のこの時刻にふらふらと、決闘者にとって最も神聖たるべきこのステージを物見遊山で占領した挙句、責任者であるオレに向かって最初に吐く台詞がそれか」
「・・・え? ここがそうなんですか? 決闘のステージ?」
しまった、と彼は己の迂闊さを内心で呪う。
まだ参加者の誰にも決闘の場所は公開していなかったのだ。
ことさら秘密にすることではないが、決闘の様子は中継録画することになっているため、演出効果を狙って敢えて伏せていたことをすっかり忘れていた。凡骨どもの驚嘆する顔を全国ネットで晒しものにしてやろうと思っていたのに、兄の危機を敏感に感じ取ったかこの小娘が。
「すごいですね。こんな場所でなんて・・・風も強いのに、カードとか飛んじゃわないんですか?」
しごく常識的な意見がなおさら彼の苛立ちを煽る。
図星を指されたからだとは死んでも認められないことだったが。
「この場に臨んで大事なカードを取り落とすなどそんな間抜けが、この最終ステージまで勝ちあがってこれるはずがなかろう!」
自信満々で言ってのけたが、彼女はそれを聞いてなおさら眉を曇らせる。
「うちのお兄ちゃんだったらやるかもしれないです・・・・」
その意見には、さすがの彼も声を詰まらせる。
確かに凡骨ならやるかもしれない。いや絶対にやる。身内にさえそう太鼓判を押されてしまってはなおさら確信も持てようというものだ。
「だ、大丈夫だ! ・・・・おそらくな」
最後の台詞はさすがに視線が左に泳いだ。
「そうですね」
だが、少女はあっさりと納得してくれたので、内心彼は拍子抜けする。
そして気がつけば会話がとぎれてしまっていた。
「・・・・・・で、何をしていたのだ。こんなところで」
ようやく本題を思い出し、彼はもう一度問いかけた。
「あ、ええ・・・・・お月さまがきれいだったから」
「・・・から?」
「もっとよく見ようと思って」
ああそう。
月が。
きれいだったから。
彼女にとってはそれで十分なのだろう。
だから、「彼の」この船の中を我が物顔で歩き回って、深夜に一人で許可した覚えもない神聖なこの場所を占拠して、それで転落でもして生死に関わるような事故でも起こされたらいったい誰の責任になるのかわかっとるのかこの小娘は!
世界はお前を中心に回っているわけではない! むしろオレだ! オレを中心にして回るべきなのだ、世界はまだしもこの大会は!!
いずれ世界も自分が回す気満々な彼だったが、この時ばかりは回りすぎて三半規管が叛乱を起こしたような気分になった。思わず右手に顔を埋めて額を押さえる。
「海馬さん? 大丈夫ですか?」
心配そうな彼女の声がなおさら身に痛かった。
お前ごときに案じられるほど安い身ではないわ!
思わず声を荒らげようとした瞬間、わあ、というはしゃいだ声が上がった。
視線を上げた彼の目の前を横切る、金色の光。
(・・・なんだ?・・)
光と見えたそれは細かい粒子となってすぐに風に流れる。月に反射しながら微かに光って消えてゆく。
さらに視線を上げれば、強い風の中、そこだけ時間を止めたように重く緩く乱反射し滞空する燐光の川があった。その中を影のようにひらめく無数の羽。瞬く毎に光の粉は増えていく。
「蝶々ですね」
その正体を彼が頭で理解するより早く、傍らの少女が呟いた。
見れば僅かな灯りに寄せられたか、大きめの二枚羽が、いくつか船体に群れている。彼女のすぐ傍の手すりにも1羽の蝶が羽を震わせていた。
「・・・マダラアゲハか」
渡り蝶としてもっとも知られたその名をつぶやけば、そっと人差し指で救い上げようとしていた少女が振り向いた。
「そういう名前なんですか?」
「・・・ああ。よくは知らんが。図鑑でみた覚えがある。昔」
ふうん、と呟く彼女の関心がもうこちらに向いていないことはすぐ分かる。
横顔を月に照らして、その瞳いっぱいに光を映しておこうとするかのように、ただ黙って翻る金の川を見上げている。
噎せるような鱗粉も気にならないようだった。
「おい、そろそろ入れ。・・・体に悪いぞ」
目に、と言いかけてあわてて言い直す。
ようやく外の世界を映すようになったその瞳は、くるくるとよく動くくせに、いったん対象を定めるとなかなか反らさない。じっと、覗き込むように瞬きもしていないのではないかと思うほどに。
彼に対してもそうだった。
はじめまして、こんにちはとそう言った瞬間から、片時も反らさなかった。
だから彼も反らせなかった。なんにせよ他人に遅れをとることを許さない彼である。たかが小娘一人の視線にたじろぐような真似はできなかった。
そして今、彼女の見つめる対象は彼ではない。映っているのは無数の光。羽。
それが少し気に入らなかった。
なぜと問われても答えられないことだったが。
おい、と二度目の退去をうながした時、瞳を空に据えたままだった彼女が、初めてこちらを向いた。
不意打ちのような視線だったので、彼はまたしてもたじろぎそうになって表情を固く戒める。
「海馬さん」
「・・・・・・なんだ」
ひたり、と据えられた視線には恐れも罪の意識もない。
「私、ここに来られてよかったです」
翻る燐光の中で少女がふわりと笑う。
改めての一言だったので、彼は思わず警戒心を解いた。
「・・・・・・」
「ここに来られて、こんなすてきな、こんな綺麗な景色が見られて、それをいっしょに見てくれる人がいて、それがすごくうれしいんです」
「・・・・・・」
何かを言おうとして、何かが喉に引っかかった。
思わずつぶやきそうになった言葉はなんだったのか。
「この船に乗せてくれて、この蝶の名前を教えてくれて、どうもありがとうございました」
深々と頭を下げる少女は、心の底から彼に感謝している。それがありありと分かって、彼はまたしてもどう対処してよいかわからなくなる。
感謝など。
される筋合いは、少しもない。
彼は何もしていない。ただその場に居合わせただけで。
ただ彼らしく振る舞って、ただ思いついたことを口にしただけで、ことさらに恩に着せるようなことをしたわけでなし。
「・・・気にするな。オレはなにもしていない」
何をどう考えても、こんな平凡な答えしか返せない自分が不思議でしょうがなかった。
結局、蝶の群れが去ってしまうまで、彼も彼女もそこから動けなかった。
否、彼女が動かないから、彼も動けなかったという方が正しい。
幻惑するような光の渦が遠くなって、ようやくほっと一息ついた彼だったが、彼女の視線が未だ空に据えられたままなのに気づいて、今度は何をといぶかしむ。
「・・・何が見える」
「え? だからお月さまです」
「・・・蝶ではなかったのか!」
見たかったのは、と思ったが考えてみればもともと、彼女は月がきれいだからという埒もない理由をたてにしてここに居座っていたのだった。
「お月さまって、まんまるだと思ってたけど、ここから見ると結構穴とかあるんですね」
月の表面が均一でないことなど、その影にウサギを見立てた例もあるのだから知っていそうなものだが、やはりこのあたりは盲目故の思い込みなのだろう。
「ああ。海もあるしな」
少しからかう余裕の出てきた瀬人はわざと誤解を招く言い方をした。
「え!? お月さまにも海ってあるんですか!」
「あるとも。氷の海、雨の海、晴れの海、静かの海、いろんな海がある」
正体を明かせば単にクレーターの少ない平野のことなのだが、命名者の些細な誤解から、月の平野部はだいたい海(マーレ)と呼ばれている。
自分の調子を取り戻し始めた彼が得意気に並べ立てた最後の言葉に、彼女がくすり、と笑った。
「・・・なんだ」
「静かの海」
「?」
彼女のおかしそうな笑顔の理由がまだわからない彼はなんとなく落ち着かなくなって問いただす。
「だからなんだ」
「私、川井静香っていうんです」
凡骨の妹、としか認識していなかった少女が名乗ったその名前に、彼は思わず絶句した。
「・・・・・・・・!」
「月に名前があるなんてちょっとうれしくなって」
ついでにいえば、海は海馬の「海」である。
もちろん素直な彼女はそこまで考えてはいなかったが、企業家として先のことを考えすぎる海馬瀬人氏は勿論しっかりと思い至ってしまって愕然となった。
ええい!
たかが名前一つで、うろたえるな海馬瀬人!
たかが・・・女の名前ごときで!
「静かの海ってどのあたりにあるんですか?」
未だ激しく渦巻く彼の葛藤に気づきもせず、少女はまたしても月を見上げる。
いっそ撃ち落としてやりたい。
そう思いながらも彼は律儀に答えていた。
「あの、ウサギのように見える影の頭のあたりだ。」
「・・・ウサギ?」
いきなりいわれてぴんと来なかったのか、少女が首を傾げた。
「・・・あの上の方に少し飛び出た耳のように見えるところがあるだろう!」
「・・・あ、そういえばなんとなく。じゃあ、あのちょっと下の楕円形っぽく見えるところが「静かの海」ですか?」
「そうだ、あれが「静かの海」だ。1651年にイタリアのリッチオリとかいう学者がつけた名だ。影を水と勘違いして「静かの海」などと命名したが、実際のところは溶けたマグマが凍結してできた火山性の溶岩地帯で、水など一滴もありはしない。「静かの海」は月の表側に位置し、「嵐の海」についで表側では2番目に大きいとされている。他の海に比べ、チタニウムなどの鉱物が豊富で、1972年にアメリカが初の月面着陸を成功させた地点として有名になった。」
知っている限りの知識を総動員して、自棄を起こしたように静かの海、静かの海と連呼する彼を、その名を冠した少女は関心したように聞いている。
「わりと大きいですね。どうして「静かの海」なんでしょう」
「知らん。図書館ででも調べろ」
オレは決闘者であって天文学者じゃない。
内心そう一蹴した彼だったが、彼女の少し残念そうな顔を見るにつけ、磯野あたりにでも調べさせておこうなどと考えてしまうのがまた癪なのだった。
「・・・もういいだろう。中に入れ」
このままここにいたら精も根もカスカスになるまで搾り取られそうな気がして、彼は強引に彼女の腕をつかんで扉の奥にひっぱりこんだ。
少女もさすがに遅い時刻だと気づいたか、おとなしく彼について部屋の方へと戻り始める。
「あの、どうもありがとうございました。海馬さん」
早足の彼に駆け足でついていきながら、少女が背後から声をかける。
「気にするな」
またしてもの返事しか出来ずに、彼は一般客室に通じる扉を開けて彼女を通す。
彼自身の部屋ももちろんそっちにあるのだが、なんとはなし一緒にいくのは憚られたのでしばらく戻るのは止すことにした。
おやすみなさい、と最後に笑った彼女が通り過ぎる瞬間、その髪に残った鱗粉がふわりと宙に舞った。
「・・・!」
思わず手の甲で鼻を押さえた彼を、彼女が不思議そうに振り返る。
「・・・なんでもない」
思い出すのは、翻めき舞う金の鱗粉と朧に笑う彼女。
「・・・なんでもない!」
苛立ちの滲んだ声が、惨めな敗北を晒していた。
なんに、とは言うまい。
ただ月が。
去っていく彼女の後ろ姿が、一室に消えていくのを見届けて、彼は扉を閉めた。
月が知っている。
静かの海。
水などなくても、人は溺れるのだと。
[Caucus Race様へ] 社長に名前を呼ばせてとのリクで。