ブラウン管の向こう、スタジアムの歓声に包まれてフィールドにいる少年は、確かによく見知っていた人のはずなのに。
真新しいユニフォームと、大人びた表情が彼を別人にしていた。

「へえ、やるじゃないか、あの10番」
 隣で兄が感心したような声を漏らす。
 うちのキャプテンだったのよと言いたくて、でもそれはとても遠い昔のことだったような気がしていた。
 遙か異国の地で。
 彼女の知らないユニフォームを着て。
 彼女の知らないチームメイトたちとともに闘っているあれは誰?

(  知らない  )

 自国のスターを映そうと、大会初日から敵地に乗り込んだテレビ局のカメラワークはずっと彼を追い続けている。
 観客席の方から見下ろすような形でズームアップされたその表情は、この上なく真剣で、挑戦的で、けれど完全に制御され、落ち着いていた。メンタル面での弱さを指摘されていた2年前の都選抜時代は見る影もない。

(  こんな人知らない  )

 余裕のなさをからかって、怒らせて、でも最後には笑い合ったクラスメイト。

 都選抜に選ばれてからはサッカー部に顔を出すこともめったになくて。
 トレセンが終わったらあっという間にナショナルチームに引き抜かれた。
 ほとんど会話らしい会話も交わさぬまま、彼と彼女は中学を卒業した。
 それ以来会っていない。留学と女子サッカーの名門高と、天秤にかけて彼女は日本を選んだ。
 体ができあがっていないうちからの留学はよした方がいいと、Lリーグの名選手だった西園寺コーチに相談した結果だった。悔やんではいない。けれど同じ中学を出て、海外のプロの誘いを蹴って、違う高校に進学したブラウン管の向こうの少年は。

 その動作、視線の全てがフィールドを動かしている。
 下馬評ではベスト16止まりのU-17ジャパンチームの連戦の要。
 今では海外のスカウトの間で話題騒然の天才ミッドフィルダー。

( 誰それ  )

 置いていかれたままの自分を振り返って有希は叫び出したい衝動に捕らわれた。

( いい気になってんじゃないわよ。水野のくせに。 )

 彼の絶妙のロングパスが、またしてもFWのゴールをたたき出す。
「やるねぇ」
 プロ選手として活躍する自慢の兄だったが、本日ばかりは後ろから張り倒してやりたい衝動にかられていた。

「決めたわ」

 夏休みに入って、練習も一段落しての帰省連休、ワールドカップ時期開催間近で俄かに盛り上がるサッカー熱のおかげで見たくもない男の試合を連日見せられて、有希はすっかりご機嫌斜めだった。
「なに? どしたの?」
 サッカーと聞けば3度の飯も放り出す妹の、不機嫌極まりない声に兄が不審そうな目を向ける。
「イタリアに行ってくる」
「へ?」
 厳しい練習も一段落でやっと家に帰ってきたばかりの彼女の発言に、彼は面食らう。
 への字に曲げられた口元は、固い決意の証だった。こんな表情をするときの妹には誰が何を言っても無駄だと彼は長年の経験でよく知っている。
 それにしてもなぜにいきなりイタリア?
 それは目の前の国際大会の主催国がイタリアだから。
 彼女の殺気に満ちた視線がブラウン管に固定されていることに気づいて、そこまではなんとかつながったが、いったい何が気に入らなくてわざわざ海外まで赴こうとしているのかその理由がわからない。
 行く、といっただけでなぜについては口を閉ざしたままの妹の心中を、彼が読みとることができたなら、先ほどまで褒め称えていたその口で、U-17の名MFに天まで届くファックユーを叫んだに違いない。シスコンぶりでは人語に落ちない小島明希人27歳未だ独身であった。

 試合のチケットは兄と中学時代のコーチの伝手で入手した。
 イタリアへの旅費は両親を拝み倒して出してもらった。
 おあつらえ向きに世間の波に乗った旅行会社の企画には観戦ツアーなんてものまであった。
 お膳立てをたった3日で整えた彼女の行動力はさすがである。

(  待ってなさいよ! 水野!!  )

 ちなみにそのU-17には、かつて彼女の中学時代の同級はあと2人ほど参加しているのだが、そのあたりは彼女にとってはなぜかアウト・オブ・眼中である。
 苦笑しつつ見送る兄の視線を背に、なごやかムードの観戦ツアーのお嬢さん方(なんと水野のファンだというおっかけどももいた)とは明らかに違うオーラを発しつつ、たった1日の試合のために言葉も分からぬ敵地に乗り込む彼女の決意が鉄の機体とともに空に舞い上がる。
 ベスト4まで勝ち進んだジャパンチーム栄光の10番が遠い異国の地でくしゃみをしたかどうかは定かでない。


 おりからの季節風、天候は曇り空。降水確率60%のベストコンディションとは言い難い状態で、準決勝進出をかけた試合が始まろうとしていた。
 ワールドカップ前の前哨戦ともいえるこの大会、不況とはいえ未だ金余り大国の名をほしいままにする日本のサポーターの姿も結構増えていた。
 試合が始まる。ファンファーレとともに会場に姿を現した選手に投げつけられる花束に紙吹雪。
 ラテンの地がそうさせるのか、節操なく流行にのる民族性のせいなのか、おそらく両方だろう。
 普段の日本の試合ではまず出ないテンションで、応援席は盛り上がっている。
 その中を。有希は騒ぐでもなく、松下コーチと兄を脅しあげて手にいれた特等最前席に腰掛けて緑のフィールドを睨み付けていた。固い表情で青白いオーラを発する美少女に、両隣の席の若い男が居心地悪そうに離れて座っている。 「きみ一人?」などと気安げに声をかけて有希のガン付けに撃退された結果である。

(  いい気になってんじゃないわよ  )

 試合も4試合目となればもはや慣れっこなのか、選手たちはファンサービスに手まで振ってやっている。
 のりやすい天然バカの藤代や鳴海はともかく、中学の頃からじじむさかったカリスマGK渋沢までが花束を手に笑顔を見せていた。

(  何へらへら笑ってんのよ。これから試合だってこと忘れてんじゃないでしょーねあんたたち!  )

 最前列の有希にめざとく気づいたのは美少女風な外見に反して実は過激に硬派なDF、椎名翼だった。

(  あれえ?  )

 確か従姉妹の西園寺玲から、彼女の母校でもある女子サッカーの名門高に進学したと聞いていたが、この練習の忙しい最中にいったいなぜこんなところにいるのだろう? しかもあの表情から察するにえらくご立腹のようだし。
 しばらく観察していたが、彼女はこちらに気づいた様子はない。
 突き刺すような視線の先を追って、背後を振り返り、彼は納得した。

(  ああなるほどね。アイツを見に来たわけね  )

 でもそれにしてはなんだか。
 遙か日本を離れ、彼を追いかけ三千里、な純愛派と呼ぶにはなんだか。    

(  どっちかっていうと、仇討ちか借金の取り立てに来たみたいだ  )

 試合開始のホイッスルを聞いて、GKの正面の定位置につきながら、フィールドのほぼ中央で攻撃を組み立て始める10番の背中を見つめ、    

(  水野のやつ、ひょっとして結婚詐欺でもやったかな。  )
(  いやいやアイツにそんな甲斐性はないだろう。まして相手が彼女じゃ。逆ならあるかもしれないけど  )
(  でもけっこうああいう真面目そうなタイプに限って、むっつりスケベだっていうし   )

 と信頼のかけらもないことを考えていた。

 ピンチに次ぐピンチを、苦戦しながらもよくしのいでいた。
 得意の攻撃的な布陣で始めた試合を、初盤の早い段階で体力自慢のDFを集めて防御優先に切り替えた、彼の判断はさすがである。
 じらして、粘って、チャンスを待つ。
 時間制限のあるスポーツで、これをやるのはかなりの精神的強度を要求される。
 まして、前半ぎりぎりのところで1点を許していた。
 攻撃力では大会ナンバーワンと言われ、常に3点差以上で黒星をあげ続けてきた相手に1-0のカウントはマシな方ではある。
 それでも勝たなければ意味がない。
 試合後半の残り15分。
 彼は自分の持つ全てを、初めて、解き放つ。

 色素の薄い、長めの髪が、風に跳ねる。走り始めた彼を止められる者は誰もいなかった。

 スタジアムが熱狂する。
 総立ちになった観客席で、有希は一人静かに椅子に座ったまま、フィールドを切り裂く彼の背番号をただ追いかけていた。
 周囲の絶叫も、興奮ぎみのアナウンスも、ただの遠い潮騒になって、ざわざわとしか聞こえない。くっきりと響いているのは、普段の10倍も大きくなった自分の心臓の鼓動だけだった。
 敵も味方も、みんな彼を追っている。追いつき、けれどあっさりと抜かれ、パスを通す的になり、そしてまた黒と白のボールは彼に返る。  魔法のように。
 誰も止められない。
 走る彼に託す願いは誰もが同じ。

(  奇跡を、見せて  )

 自分の入っていけない領域がそこにある。男だったらと願い、女でもと決意した、中学2年の夏。
 彼女が走り出したのはやっぱり彼の背中を追ってで。あたしだって、あんたと同じくらいやれる。そう思っていた。
 サッカーをしていないときの彼はどちらかといえばからかいやすくて、やりこめるとむきになる彼の未熟さを少し侮っていたりした。メンタルの弱さがあんたの弱点よなんてしたり顔で説教したりして。でもほんとは分かってる。あんたは他とはどこか違ってる。あたしが追いかけて追いついてやりこめられると思ってた他のどの相手とも、違う。
  たとえば今は押しも押されもせぬスーパーサブ、あんたが一番信頼してるあのFWだって、あたしが教えてやった時期があった。今はもうそんなことはできないけれど。でもあのころから一度だって勝てそうで勝てなかったのはあんた一人で。手が届きそうで届かないもどかしさをずっと抱えて、あたしとまともに勝負してよって、女だからってバカにしないでよってホントはそんなのは彼の優しさにはぐらかされていただけだと思い知らされる。
 女だとか。男だとか。彼にはホントは関係なかった。ただ勝てると分かってるから闘わないだけで。8人がかりでも勝てないって分かってるから普段は全力を出さないだけで。
  サッカーは一人でやるスポーツじゃないけど、みんなで横並びだとパターンに慣れちゃうから、負け癖がつくとダメなのよ。必要なの。羅針盤みたいに、絶対間違わない、絶対揺るがない核が。

  ゴールぎりぎりのラインまできたとき彼は二人のDFに囲まれていた。露骨な体当たりが彼の体を弾き飛ばす。けれど、そのときには、彼は最後のパスを最も信頼するFWに通している。避けようと思えばいくらでも避けられた反則すれすれの体当たりを彼が避けなかったのは、彼の仕事は終わっていたからだ。呼応するように小柄な少年が動いた。受けとったボールごと、ゴールに飛び込むようにシュートを決める。
 歓声が地を揺るがす。
 総勢8人がかりでも止められなかった彼のフィールドワークは、相手チームの戦意を確実に奪っている。
 攻撃が主力のチームが、下手な防戦に回り始めた。
 2点目を決めたのは、早いパス回しからサイドへ切り込んだ連携プレーだ。
 すかさず、監督の指示が飛ぶ。  選手交代。
 ウィングバックを足の速い選手と入れ替え、スピード重視の攻撃に切り替える。
 今まで防戦型だったために、攻撃陣の体力は温存されている。そして彼も控えのMFと交代した。パスさばきでは彼と同じくらい定評のあるMFだ。結果の見えた試合に、これ以上主戦力は必要なしとの判断は誰の目にも明らかだった。
 彼の仕事は、終わったのだ。

 フィールドを降りてくる彼に注がれる惜しみない声援。
 背負った10番の責任を果たした彼に浮かぶ満足そうな表情。
 すべきことをすべてやった彼が手渡されたペットボトルに口を付け、空を仰ぐ。  勝利は既に彼のものだ。

 今。このフィールドに降りていけるなら。
 その手を高々と、天に上げてあげたい。      

(   あたしのファンタジスタ   )

 あなたに会えた、この奇跡。
 永遠に追いつけない背中に会えた、この歓喜。
 いっそ手の届かないほど高みにいて。
 お茶の間の話題で、すごいねなんてちょっと騒がれて、それで年が明けたら忘れ去られちゃうような、そんな風にまとまったりしないで。

 もっともっと、奇跡を見せて。

 立ち上がって、フェンスをつかむ。
 その名を呼びたくて、呼べない。    
 ベンチ近くまで下がってきたとき、額の汗を拭って顔を上げた彼と目が合った。
 一瞬、何を見てるのかわからないって顔。
 学生時代のまんまの顔。
 きょとんとした表情が、彼の飼ってた犬そっくりで。
 思わず笑ってしまう。

「なに、やってんだ。こんなとこで」
 近づいてきた彼が真下から声をかける。
 たった今目の前で奇跡を見せつけたスター選手の気安さに、周囲が一歩下がって有希を見た。
「なにって、試合見てたんじゃない。芝刈りにきたとでも思ってんの」
「いやそりゃそうだけど」
 彼が苦笑する。あいかわらずだなって、そんな顔。
「元気そうだな」
「おかげさまでね」
「いつまでいるの?」
「明日には帰るよ」
「なんだ見てくのこの試合だけ?」
「だってチケットも取れないんだもん」
 決勝戦のチケットだけはどんなに粘っても脅してもダメだったのだ。
 ネットオークションで100倍近い値がついていてはさしもの有希も諦めるしかなかった。
「そんなん」
 彼がわらった。
「なんとかなるよ。どこに泊まってんだ?」
 有希がホテル名を口にすると、ひとつうなずいて、彼は後でな、と言ってベンチに戻った。
 とりあえずあさっての決勝戦。
 またしても奇跡が起こることを確信して有希はスタジアムを後にした。