扉をあけた瞬間に、心臓が跳ねた。
 けっ飛ばされたみたいに鼓動が一つ。

 まずい時に来たのだとすぐに気がついた。
 放課後の人気のない教室。忘れ物を取りに戻っただけなのに。
 日直だった彼の傍らに、やはり同じ日直のクラスメイト。
 それだけのことなのに。
「小島」
 向かい合う彼女から視線をあげ、自分に気づいた水野がほっとしたような表情で、名前を呼んだ。
 ちょっと。やめてよ。
 巻き添えにしないでよ。
「じゃあ。悪いけど」
 目の前の少女に、だめ押しのようにそう言って、鞄を取り上げ、歩いてくる。
 うつむいている背中は痛々しくて。
 同じ気持ちがわかるから、今はほんの少しこの男が憎い。
 なのに、救われたような苦笑で先に立って歩く彼は、いやおうなく彼女を共犯者にしてしまうのだ。

「また?」
「---ああ」

 それだけの会話で全ては通じ合う。
 今頃彼女は教室で一人泣いているのだろう。
 なけなしの勇気をふりしぼって告白しても、彼の心に彼女は映っていない。
 それは努力してもどうしようもない領域の問題だ。

 だって人の心は変わるから。
 ゴールポストみたいに変わらず定位置にいるわけではないから。
 ボールみたいにいつも同じ形をしてくれてるわけではないから。
 追いかけようにも存在すら掴めないから。
 見えなくてもどこかにはあるのだろうと確信はしているけれど。
 どうやって追いかけて、どんな風に捕まえられるのか、分からない。
 彼のも。ことによったら自分自身のでさえも。

 グラウンドまでの道を歩きながら、しばらく続いた気詰まりな沈黙を先に破ったのは彼の方だった。
「---参るよな。傷つけたくはないけど、応えられないっていうのは。どうしようもないし」
 どうしようもない?
 そんな風に断言する彼は、ちゃんと自分の心に手綱をつけているかのように平静だ。
「応えられないってどうして?」
「そりゃ---」
 言いよどんで彼は言葉を探す。
「今は他のことで手一杯だし」
「例えばサッカーとか?」
「そうだな」
「サッカーしか、っていう方が正しいんじゃないの」
「そうかもな」

 ホントはただめんどくさいだけなんでしょう。
 サッカー以外興味ないなんて、そりゃそうでしょうよ。
 サッカーはあんたを悩ませたりしないものね。
 フィールドの上のあんたは迷ったり悩んだりしなくていいもの。
 だって誰もあんたに勝てないから。
 誰にも捕まえられないから。

「やってみたら?」
「? 何を?」
「だから、つきあってみたら?」

 簡単に翻る彼の言葉に苛立って、彼女は自分の心の在処をまた見失った。
 考えてもいない言葉が勝手に口をついて出る。
 ああ、また。
 いったい誰が勝手に持ってっちゃうんだろう。

「       」

 ぽっかり空いた一瞬で、相手の言葉を聞き逃す。
 自分の中から自分を動かす全ての何かがごっそり盗られていったみたいだった。
 誰かがあたしの中から。
 蹴っ飛ばして奪っていった。

「お前にだけは言われたくないぞ」
 ふいにくっきりと耳に入った言葉に、反射的に顔を上げる。
「何それ。どういう意味」
「お前だって、似たような口実で断ってるんだろ」
「そりゃ、そうだけど。でも違うわよ」
 だってあたしは。
 ちゃんと。
 見失ったり、追いかけたりしてるもの。
「何が違うんだよ」
「-----」
「同じだろ」
 そう言って不思議そうに笑った。
 お前と。俺は。同じだろ?
 また一つ。心臓がけっとばされた音。
 胸の奥でただ命を紡いでいるためだけの音が、なぜか体を離れて耳元で大きく響いたのが聞こえた。

 私の音じゃないみたい

 きっとそれは逃げていった天使の足音だ。
 ずるい水野に共犯者にされた私に与えられたささやかな罰の音だ。
 天使が、サッカーボールみたいにあたしをけっ飛ばす。
 蹴り飛ばされて転がって、立ちすくむあたしを放り出したまま、足音が遠ざかっていく。

 何一つ共有しようとしないくせに、あたしを共犯者にした水野が、早く来いよと遠くで笑った。
 聖者の笑顔で。

<the end>

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 引用:「天使にかまれる」:渡辺美里
Illustration by Little Eden