「パスポート取った?」
「俺持ってる。海外旅行なんて何度も行ってるもんねー!」
嘘ではなかった。
数年前までは、という注釈がつくだけのことである。

桜庭雄一郎。
上から下まで古式豊かなその名は、いかにもハイソな家庭のお坊ちゃん、という品格を漂わせる。事実、小学校に上がるまで彼は白金台に家を構えるどこをどうとっても恥ずかしくない立派なお坊ちゃまであった。
しかしながら所謂「バブル崩壊」後、中堅の不動産会社という桜庭家の家業は、不況の荒波をまともにくらった。
あっという間に負債は膨れあがり、資産はこげつき、手形は不渡りを出し・・・それはもう聞くも涙語るも涙の転落ぶりを晒すことになったのである。
幸いにしてヤバいところから金を借りるまではいっていなかったため、ヤクザまがいの取り立てにさらされることはなかったのだが、銀行、関係会社への借金は軽く億を超えていた。
負担に耐えかねた父は蒸発し、もともとお嬢様育ちで体の弱かった母親は住み慣れた我が家を手放したその日に病院に入った。
桜庭家には彼の他に姉、弟2人の子供がいた。自然、家計は唯一の成人である姉が支えることになる。
大学も中退し、水商売で生活を支える姉の背中に、彼は歯がみするような思いで手を合わせたものである。
長男として、男として、俺は必ず桜庭家を復興させてみせる! 青雲の志に燃える雄一郎少年は、不況日本の中、Jリーグ開催、FIFAワールドカップと景気よく盛り上がるサッカー業界に望みをかけたのだ。
『姉ちゃん! 俺サッカー選手になる! サッカー選手になって、借金返して青山に億ション買ってやる!』
目指せ年俸1億円。
彼が10番に拘るのは、サッカー選手の中でいちばん目立つからでも花形だからでもない。
チームの中で一番金が稼げるポジションだからだった。
そんな彼が、東京選抜で水野竜也に出会った時、以前の彼と同じ匂い--つまり所謂「お育ちの違い」的匂い--をかぎ取って、こいつは敵だと判断を下したのは無理からぬ話であった。
「桜庭はウィングでいくのかい?」
選抜チームの新フォーメーション、として手渡された資料に目を通しながら、マルコが確認してきた。
「本人はセンター志望のようだけど」
暗に試してみてはどうか、という意思表示である。
センター候補として選ばれたMFはもちろん能力の点で疑いはなかったが、いずれも知略に傾くタイプで質的には似ているため、彼としては多少毛色の違うタイプもいれた方がおもしろいのではないかと考えていた。
「いいえ、桜庭はウィングよ。あれ以上ウィングに向いている選手は他にいないわ」
「確かにクロスの精度は選抜一だね。」
「そういうことじゃないの」
「?」
「彼には他の誰もかなわない適性がある。ウィングとしてのね」
自信満々にそう宣言する西園寺の視線の先には、桜庭、小岩、黒川の3人のウィングの姿があった。
**************『苦しくても、最後まで諦めない。いちばんの負けず嫌いが勝つのよ』
『勝つのは、あなたたちよ』
試合前、定番の決まり台詞を吐いてにっこり笑った笑顔の下で、帽子の陰に隠した口元が不敵に微笑む。
本日の相手は関東選抜。
坪単価20万そこそこで一戸建てが当たり前の田舎育ちに、四畳半ワンルームに5万の家賃を払い続ける東京都民が負ける要素など、彼女はいささかも感じていなかった。
**************
Cフォーメーションと称したイケイケの武闘派チームを率いて関東選抜をうち破った西園寺は、試合後、コーチミーティングで語ったという。
「ウィングは、FW以上にボールに対して貪欲な嗅覚が必要なの。サイドラインぎりぎりのボールをさらい、ゴール前に送り出す。貪欲なまでにボールにくらいつき、前に進む精神力がね」
現役時代、女子サッカー界の第一人者として幾多のチームメイトを観察してきた彼女は確信していた。
ウィングは貧乏に限ると。
ライン際を駆け上がれ。
ぎりぎりまで諦めず。
さながら落ちた一円玉を追うがごとく。
「一円を笑う者は一円に泣くのよ」
目指せ、年俸一億円。
目指せ、青山億ション暮らし。
見果てぬ夢を抱いて桜庭少年は、今日も不屈の貧乏根性(ハングリー・スピリット)でボールを追う。