錆びた風に乗ってくる夏の終わりの潮騒のように。
常ならば耳を覆うほどの大歓声の中で、耳に届く音はすべて遠かった。
中途半端な熱気が、肌にはりつく布越しに伝わってきて、不快だ。
見えるもの、聞こえるものはすべてぼんやりしたフィルターの向こうにあって、くっきりとリアルに映るのは明るい金の髪と、見慣れない名前を背負った背中だけ。
口に出せない思いを届かない距離のせいにした。

やはり来るべきではなかった。
嘆息と同時に、試合終了のホイッスルが同時に鳴り響く。
やっとこの苦痛から解放されるかと思えば、むしろ清々するくらいだった。
それでも毎度毎度足を運んでしまう己の馬鹿さ加減に腹が立って、麻衣子は陽射しを避けるための帽子を深くかぶり直す。
涙なんてもうとっくに枯れたはずなのに。
もう来ないようにしようと、何度も決めた。
高校に進学してからもたびたび会う機会のある旧友たちから消息を聞く度、離れてしまった距離の遠さに打ちのめされる。
せめて以前と同じに呼べるなら、ここまで疎外感を感じることもなかったのだろうか。
傍にいる人々の会話に、声援に、耳に届く名前は彼女には馴染みのないもので。
抵抗もなくかつての呼び名でよぶ旧友達ほどには割り切れず。
そんな人間は、最初からいなかったのだと何度も自分に言い聞かせたのに。
彼女は未だに、彼の名前を探してしまうのだ。
佐藤 成樹。
藤村なんて、知らない。私は知らない。
リフティングのこつを教えてくれたあの男は、もうどこにもいない。</P
狂喜する観客達に紛れて席を立つ。
見られているはずはないのに、見られたくないなんて思うほど自意識過剰ではないつもりだけど。
同じ客席に座ったその他大勢の一人だと思うほどには自分を貶められずにいる。
いらぬプライドだけが大きくなって、なおさら自分が嫌いになっていく。
そんな恋など欲しくはないのに。
また私は凝りもせず、フェンス越しに彼の姿を追ってしまうのだろう。
一度も振り返らない、その背中を。
ホテルにチェックインして、ベッドに倒れ込んだ。
抵抗なく体を投げ出せば、スプリングの効いたマットレスが2、3度軽く押し返してくる。
何をする気力もない。
────もう、どうでもいいわ。
試合を見に行った後はいつもこうだ。
フィールドの上を縦横無尽に走り回る彼は自由で、観客席から一歩も動けない自分は無力だった。
今日も何もできずに終わった。
自分の中で決着すらつけられず。
もう来ないようにしようと決めたことすら、無駄。
瞳をきつく閉じて、喉の奥にせりあがる嗚咽を押し殺す。
瞼の裏に熱を感じた時、聞き慣れない着信音がした。
携帯電話のディスプレイには見慣れぬ番号が表示されていた。
この電話を持っていることを知っている人間はまだ少ない。
おおよそ登録した人間以外がかけてくることはないはずだ。
未登録者からの着信音を、麻衣子はまだ聞いたことがなかった。
間違い電話かと一瞬不審を抱き、知らぬ人間ならば出る義理もないと放っておくことに決めた。
そのうち諦めるだろう。
しかし予想通りいったんは切れた電話は、1分たたぬうちに再び鳴り始める。
マナーモードにしておけばよかった。
そう思いながら、もしかしたら誰か買い換えで番号が変わったのかもしれないと思い立ち、痛む瞼を押さえてようやく通話ボタンを押した。
「・・・はい、上條です」
『あ──! やっと通じたわ。元気しとったかーお嬢』
対照的なまでに明るい、やや高めのハスキーなアルト。
誰なのか、なんて愚問だ。
「なっ、さっ、、、」
佐藤、と言いかけてまた唇を噛んだ。
そんな名前の男はもういないんだったら!
しかし電話の向こうの声はそんな葛藤など知るはずもなく、どこまでもマイペースだ。
『お嬢、今どこなん──?こっち来とるんやろー隠しても無駄やで――試合見に来とったやろ―?
俺、今、四条の駅におんのや───あ、ひょっとしてもう帰りの列車かー?』
あいかわらず強引な男だ。
会話の切れ目を捕まえて、ようやく麻衣子は返事をする。
「いえ、まだ帰ってはいませんわ。京都駅の近くのホテルに・・・」
『なんや、泊まりかいな。ほなちょうどええわー。飯くわへん? 地元のうまいとこ連れてくわー』
一言返せば3センテンス以上の答えが返ってくる。
「ええと、それはかまいませんけど、あなたなんで・・・」
『どこに泊まっとるん? ホテルまで迎えに行くわ。お嬢は京都初めて?』
「えと、グランヴィアですけど、それであなた・・・」
『グランヴィアな。さすがお嬢やなー豪勢やわ。どのくらいおるんー? 一泊だけ?』
「いえまだ決めてませんけど、あの・・・」
『ほならもう一泊くらいしていきーな。秋の京都はええでー。嵯峨野とか行ったことあるんか? 紅葉がめっちゃきれいなとこがあってなー』
「佐藤! ちょっとあなた人の話は最後まで聞きなさい!」
遮られる会話にとうとう麻衣子は禁断の名を口にしてしまった。
『おお、お嬢の怒った声は久しぶりに聞くな。なんや懐かしいわ』
「だから人の話を聞けと・・・」
『聞きます聞きますゴメンナサイ。なになにー?』
ちっとも変わっていない。思わず口の端に笑みを浮かべそうになって慌てて自分を戒める。
「あなた、どうして私の携帯電話知ってるの」
『ああ、小島ちゃんに聞いた』
小島。
忌々しい名前が不意に浮かれた気分に水を差す。
そうか。彼女の番号は、知っているのか。
『タツボンに頼んで、小島ちゃんに教えてもろたんや』
麻衣子のわずかな沈黙に何を感じ取ったのか、聞かれもしない経由先まで彼はしゃべった。
「ああ、そうなの」
我知らず安堵する気持ちを隠そうとしておかしな口調になった。
『ほなもうあと10分後くらいにな。あ、これ俺の番号、なんかあったら連絡してなー』
最後までマイペースで、電話は切れた。
着信履歴に残った11桁の数字を見つめて、どうしようかと一瞬迷う。
今さら、藤村なんて呼べないけど。
でもやっぱり、名前は大切なものよね。
ディスプレイに表示された番号を「藤村 成樹」で登録して。
メモリ1つ分、ようやくその名は麻衣子の中で居場所を確保した。