本日の成果。コロッケパン1個。

 手元のそれを見つめて、シゲはこっそりとため息をついた。
 育ち盛りの身にあまりといえばあまりの粗食だ。
 4限目の授業は袴田で居眠りの罰に職員室に呼び出され30分近く説教された。
 結果として購買部のパンはほとんどが売り切れ、残っていたのはこれ1個。
 屋上の扉を開ければ風祭の心配そうな声がかかった。
 
「シゲさん、やっぱり間に合わなかったの?」
 サッカー部の面々の視線が彼の手元に集中する。手のひらサイズ以下の小さなパンとパックの牛乳がその答。
「僕の、少しいる?」
 あっという間に(というより3口で)食べ終わってしまった彼に風祭が自分の弁当(それも残り少なかったが)を差し出した。
「ええて。お前、ただでさえよう動くんやから。──それにもうチャイムや」
 言い終わる前に軽やかな音が無情なタイムアウトを告げる。
「放課後になんか買うてくるわ。」
 ぐう、と一度鳴った腹を押さえつつ彼は笑い、ごまかすように足早に教室に戻っていった。

「───でもシゲさん、今日補習じゃなかったっけ。」

 風祭がつぶやいた声は、無論彼の耳にだけは届いていなかった。
 周囲があーあと投げやりな同情を寄せる中で、殻になった弁当箱を手にぶらさげ、上條麻衣子が思案気に東の空に目をやった。
 強くなった風とともに、1ヶ月遅れで上陸した梅雨前線がイヤな感じの雲を連れてきている。
 本日の降水確率。午後から70%。

 目の前の黒板にでかでかと書かれた「補習:数学」の文字。
 固まるシゲに「やっぱり忘れてたんだ」と風祭が横目で同情の視線を送る。
 6限目も数学だったC組では、担当教師がそのままスタンバっているため、隙をついて逃げ出すことも難しそうだ。
「じ、じゃあ、僕先に部室行ってるね」
「───おう」
 抑揚のない返事を返すシゲを残して彼は去った。そして入れ違いに入ってきた黒髪の美少女。

「なに、ぼーっとつっ立ってるの。邪魔よ」
 邪魔も何もオレの席やがな。
 しかしその程度の反論をする気力さえなく、彼は脱力したように椅子に腰を落とし机につっぷした。
(───もうええです。放っておいてください神様お嬢様上條様。)
 実は朝ご飯も寝坊で抜いていたりする。そして夕べの晩は食事当番が失敗したせいで、カップラーメン1個だった。
 そんな彼にふん、と一息漏らし彼女はすぐ後ろの席に腰掛けた。
 窓際だからという理由で春から彼女の定位置だ。
 だが今は梅雨真っ盛り。
 昼休みを終えたあたりから降り出した雨は、天気予報通り───いや、それ以上の激しさでさっきからコンクリートの壁越しに異常な冷気を伝えている。半袖の裾からのぞく腕に鳥肌が立つのがわかった。

 ─────寒い。

「それでは補習をはじめます」
 数学の教師が、女で新米なのだけが精神的には救いといえば救いだった。
 それでも苦手なものは所詮苦手なもので、始まって10分もしないうちに数式が念仏に変わりはじめる。
 暗い空に貧弱な蛍光灯の明かりがなおさら睡魔を助長していた。

 ─────眠い。

 ここで寝たらさすがにまた職員室への呼び出しは避けられないだろう。
 そして彼の胃袋はさっきから盛大に不満を訴えてはじめている。

 ─────ひもじい。

( あかん、自殺の三大法則や。)

『人間にいちばん悪いのは腹がへるのと寒いゆうことですわ』
『寒い部屋で一人でメシも食わんともの考えるとロクなこと想像しまへんのや。ノイローゼちゅうやつですわな』
 以前、家出した彼を最初にかくまってくれたミナミのホルモン屋のばあさんが言っていた言葉を思い出し、彼は半眼になりつつ苦笑した。

 思えばあれも雨の日だった。

『……ひもじい。……寒い。もお死にたい。不幸はこの順番で来ますのや』

( ────ああバアさん。あんたは正しいわ。)

 公立中学の教室のド真ん中でそんなシビアな人生訓を思い出すのもどうかと思うが。
 やはり人間腹が減るとロクなことを考えないのである。
 彼の頭が眠気と無気力で下がりかけたその瞬間、後ろの席で、がたん、と強気な音がした。

「先生。佐藤くんが気分が悪いみたいですわ!」
 シン、と静まった教室であっけにとられた若い教師に、彼女はどちらが目上かわからないほど堂々と宣言する。
 
「保健室に、連れて行ってきます」


「バカね。ああいう時は自分から言えばいいのよ。実際ひどい顔色してるわよアンタ」
 誰もいない保健室のベッドの脇で彼女は腰に手を当て呆れたように彼をしかりとばす。
 ちなみに不在の保健医は現在研修のために出張中で、そのことは当然あの数学教師も知っていたはずだが、何も言わなかった。言えなかったが正しいかもしれない。

「どうせ、また虚勢張って、そんなかっこ悪い真似できないとか思ってたんでしょ」
 いやそれ以前にそんな発想は思いつきもしなかった。
 ぐうのねも出ないとはこのことである。少なくとも、口からは。
 かわりに腹の虫が盛大に代弁する。
 
「まったく。」
 ため息をついて、ほら、と彼女が布団の上に紙包みを投げ出した。
 そういえば彼を連れて行く前に、鞄から何か取り出していた。
 中を覗くと、パウンドケーキとおぼしき菓子が入っている。わりと大きい。

「調理実習だったのよ」
 そんなものでもないよりマシでしょ。あたし甘いモノそんなに好きじゃないし。
 いいながら我が物顔で勝手に備え付けの戸棚を開けて茶器を取り出すと、ティーバッグで紅茶まで入れてよこす。
「それ食べて、寝てなさいよ。先生にはうまく言っといてあげるわ」
 うまくも何もあの新米教師が相手なら多分迫力、というか貫禄勝ちだろう。そう思って彼は珍しく素直にうなづいた。 

「いい? ちゃんと食べて寝てるのよ?! もの食べずに考え事してると、人間、ロクなこと思いつかないんだから!」
 この世で最も説得力のある人生訓をのたまうと、お嬢様は身を翻して保健室を出ていく。

「そんなんだから、自分の誕生日も忘れるのよ!」

 へ、と顔を上げたときにはすでにぴしゃりと扉は閉められた後だった。
 ごそごそと取り出したパウンドケーキに、チョコレートで書かれた「HAPPY BIRTHDAY」の文字を見つけて呆然とつぶやく。

「…………おおきに……」

 一口囓ってみたケーキは甘くて、まだほんのり温かかった。
 雨は相変わらず激しかったが、雨宿りできる場所はちゃんとあると知る。いつでも。どこででも。
 

ミナミのホルモン屋のばあさんにはロクデナシの息子がいます。
ロクデナシの息子には美人の嫁さんと健気な孫娘がいて、
孫娘は三日月傷がトレードマークの猫を飼ってるのです。
……そういや西川のりおの声はハマリ役でしたねぇ。