何もかもが無彩色な世界。
愛しい人すら色褪せる日常。
退屈な繰り返しの中で。
生きているモノを見られるのはフィールドの上だけのような気がした。
ブラウン菅ごしに鮮やかにめまぐるしく移り行くスピード。
生きているあの人がいるのは、あのフィールドの上だけだ。好きだと感じるのは、あの彼なのだ。

My fragile

「恋じゃないと思う?」
 至極、真面目に聞かれて上條麻衣子は眉をしかめた。
「・・・そんなこと、言われたって」
 いきなり呼び出されて長いこと何も言わなくて、やっと始まった話題と言えば昨日の試合のことで、ノロケ話なら聞く気ないわよと釘を刺したらまた黙った。
 そうして深いため息をついた後でやっと吐いた本題がこれ。
「だって、普段のアイツはほんとにつまんないのよ。かっこいいかもしれないけど、気は利かないし、なのにやたら細かいこと覚えてるし、クリスマスも誕生日もやることなすこと定番だし」
「あなたね、なに贅沢いってるのよ」
 こっちはクリスマスも誕生日も会える時間は少なくて、お互い連絡を取り合っていなければすれ違うばかりだというのに。
「ああ」
 かちん、と音を立ててかき混ぜていたスプーンの背をカップのふちで鳴らす。
 既にして3杯目のコーヒーだ。
「倦怠期なのかなぁ」
「まだ結婚もしてないくせに。」
 とはいえ夫婦同然の二人であることは聞かされなくても知っている。
「じゃあ結婚しようかなぁ」
「何言ってるの、あなた」
「だって、今のまんまじゃなんか・・・・」
 中途半端な気がする、という彼女の悩みは仕事と恋、よりも、恋そのものの中途半端さらしい。それで結婚とはまた極端な手に走るものだ。
 珍しいとは思うが同時にらしくない。
 らしくないことはさせるものではない、と思ったのでやんわりと釘をさした。
「サッカーはどうするのよ」
 1年前アメリカのプロチームから帰ってきた彼女は日本の実業団のチームに入ってなんとか夢を叶えている。日本の女子サッカーは実は男子より早く世界に出ているので、ぜひオールジャパンに入りたいと考えての帰国だった。
 世界を相手にというのは、スポーツ選手なら誰でも考えることだ。
 だが一面、プロとしての日本サッカーのレベルに物足りなさを感じてもいるのだろう。
 だから余計に鬱に取り憑かれやすくなっているのかもしれなかった。
「・・・続けるわよ、もちろん」
 上目遣いに言われた口調は、それに関しては二の次だったとはっきり告げている。
「ああそう。じゃあいいんじゃないの。結婚しても」
 いちばん好きだったものすら恋の前ではかくも疎かになるのか。
 まったくなんのためにアメリカまで行ったのだか、こちらを失望させてくれるなと言いたくなる。
 ついぞんざいに突き放してしまったら、相手がしまったという顔をしたのがわかった。
 その程度にはこちらに気を遣う余裕が残っていたようだ。
「・・・でもさ」
 そしてまた話題は最初に戻る。
「恋だと思う?」
 ようするに、そういう恋もあるのだろうと上條麻衣子は思うのだが。
 相手がいて、自分がいて、どっちの気持ちも不安定。
 恋の定義など、誰も同じ結論を出さない。
 そう告げてやっても、やっぱり相手は納得した顔はしていなかった。

 立ち上がって、喫茶店の前で別れた時、これから水野に会う、と告げられた。
 とても恋人に会いに行く顔ではない、と思ったが黙っていることにした。
 自分のそれだって多分人に言えたものではないと知っていたから。


 歓声の中、フィールドを駆ける青いユニフォーム。
 疾走するそのスピードが、全ての音を不可聴域に押しやっていく。
 そんな瞬間を知っている。
 そんな瞬間を共有しているのは自分だけだと思う。
 それが思い上がりだということも知っている。
 共有できるものは他にもたくさんあるけれど、それを誇らしく思えるのはその感覚についてだけなのだ。
 けれど結局同じフィールドには立てない。
 それを思い知る都度、悔しくて悲しい。
 日本の女子サッカーのレベルは決して低くはないのだと、むしろ男子よりも先に世界に出ていたのだからと、そう言い聞かせてみても、結局のところ勝ちたい、戦いたい、立ち向かいたいとそう思うのはやっぱり彼だけだ。
 世界に出てもそれは変わらなかった。
 なぜこんなにもこだわってしまうのかわからない。愛情よりも優先させてしまうこの情熱。
 いやむしろこんな気持ちがあるから恋したのかもしれない。こんな気持ちに恋したのかもしれない。錯覚ではなくてただ彼がいなくては生きていけないとさえ。
 

『サッカーと、生きていくって決めたから』

  ーーあなたと、生きていくって、決めたから。

 我知らず固めた拳に掻いた汗に笑い出したくて泣きたくなった。
 恋よりも何よりも、生きていく理由に彼を使うことが。
 悔しくて悲しい。
 過ぎていく日常は大半が夢のための時間ではなくて、食べて寝てこうして道を歩いて誰かに会いにいったりして、だけど生きていると感じられる時間は今ではない。
 その時間を共有していると信じたい気持ちは思い上がりだと知っていても、その足は自然とそこへ向かう。
 敗北が決定づけられた試合に臨む前のように、わずかな可能性を信じて、彼女はそこへ向かう。
 ぶつかって躰中の力が抜けるような敗北を心のどこかで待ち望みながら。