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常識で考えて、あの男と二人で旅行なんてとんでもない、と頭では理解していた。
とはいえイタリア行きの手配は既に済んでしまった。
同級の友人と行く、という一言を両親は疑いもしなかった。
大学の同級ではなく、しかも異性である、などという嘘ではないにしろ言わずにいた部分がバレたらさぞかし怒るだろうとは思いもしたのだが。
もはや飛び立ってしまった飛行機の中とあっては言い訳もできはしない。
せめても行き帰りが同行でなかったことが唯一の救い。
向こうで偶然会ったのだとか、単にアルバイトを頼まれただけだからとかそんな誤摩化しで納得させるしかない。
窓に映るしかめ面の自分に、ふと苦笑がこみ上げた。
嘘。言い訳。誤摩化し。
いったい誰に対して?
仕事で忙しく、娘の交友関係などろくに知ろうともせず、コミュニケーションの不在を金銭や不干渉で補おうとする両親が、恋人の一人や二人で彼女を咎め立てするとは思えない。
母親などむしろ「そろそろ恋人の一人も作って女を磨け」と言ってきているくらいだ。
フランクに過ぎるこの母親が麻衣子は嫌いではない。
ただ反面教師になっていたことは事実だった。
中学時代、この人のようにはならない、とわずかな反抗心から意地を張っていたこともあった。
だが、この年になってみると、似ている部分も似ていない部分も含めて、ごく自然と違う人間になっているということに気付く。肩肘を張る必要もなく、「同じ人間」などいるわけがなかった。
そんな達観に至って冷めた自分の目に映る「上條麻衣子」という人間はとてもつまらなそうな顔をしている。
大学二年にしてこの有様。
なんだかあの頃のあの男みたい。
そう思っていたのに。
久しぶりにかかってきた電話の声はとても楽しそうだった。
夏の日差しはからりとしていて、日本とは違うのだなと空の青さを仰いで思う。
飛行機が降り立った異国の地。
建物の形や標識の色彩の違いに見慣れず、とまどう。
これからどういったらいいんだっけ。
そうそう、確かタクシーで……。
父親に教えてもらった別荘までの行き方を思い出し、タクシー乗り場を探す。
きょろきょろと見渡すその視界に、陽気に手を振る人間がいることに気付くのはやや遅れた。
「お嬢ーー!! お嬢ーーー!!!」
馬鹿みたいに大きく手を振って。
あっけに取られる自分に余裕の顔で近づいてくる。
なぜだか踵を返して逃げ出したくなった。
「やー、無事ついてよかったなー。元気そうでなりよりや」
もう何年も会ってないことなど意にも介していない笑顔だ。
「え、ええ。あなたもお元気そうね」
なんとか鍛え上げた外面が対応すると、途端に相手が不満そうな顔になった。
「なんや、お嬢冷たいな。もっと喜んでくれてもええやん。久しぶりなんやし」
「……まあそうだけど」
わずかなひっかかりを覚えてしまったのは、久しぶりに会うこの男が、どうしてもあの頃の佐藤成樹と重ならないせいだった。
「藤村成樹」は彼女にとっては未知の他人だ。
名字が変わって京都に戻った瞬間から、なぜだかそう思えて仕方がない。
二週間前、かかってきた電話の声を聞いた時から、さらにその思いは増していた。
知らない、男だ。と。
もちろんそれは麻衣子の勝手な思い込みでしかない。
相手にしてみれば中学時代の同級生。そのことに変わりはなくて、だからこそこんなに屈託なく笑っているのだろうから。
「ほな行こか」
当たり前のように麻衣子の荷物を取って歩き出す。
まるで自分の国にいるときと変わりのない躊躇いのない足取りは、もう何度もこの地を訪れていることを忍ばせる。
ミラノに父親の店の支店があると言っていたから、多分そうなのだろう。
後ろについて歩きながら、やっぱり思う。
まっすぐ伸びた背中。Tシャツ越しにわかる鍛えられた身体のライン。
知らない、背中だ。
頼まれたモデルの仕事は別荘に行く前に終わらせる約束になっていた。
早速のように瀟酒なビルの一角にある店に連れて行かれ、あれやこれやと着せ替えさせられる。
雑誌に載せるのではなく、インターネットのオンラインショップ用だということで店内での撮影だった。
「まだまだこれからや」という割に、客は入っているようで、着替えて出てくるたびに異国の人々の視線にさらされている。
「やー、やっぱりお嬢に頼んで正解やったわー。背ぇ高いからこっち向けに選んだ柄もよう似合うし。顔立ちもこっちウケするアジアン・ビューティいうやつやしな」
本気で褒められている気はかけらもしなかったので、黙って無視した。
撮影が終わるまで、結局作り笑顔以外の表情は浮かべないまま、それでも夕方には相応のバイト代を手にしていた。
なんと麻衣子にとっては初のアルバイトにあたる。
「お嬢、これからどうする?」
まだ最後に撮影した着物姿のままの麻衣子に、男が声をかけてきた。
「別荘に行きます」
簡潔に答えて、麻衣子は着替えるために更衣室代わりの小部屋に向かう。
「これから行ったら夜になってまうで」
「かまいませんわ」
「別荘の鍵持ってきとるん?」
「管理人にもらいます」
「こっちの人間は5時こえたら働かんよ」
ああいえば、こう返ってくる問答に麻衣子は苛立ちを滲ませて振り返った。
「何が言いたいの」
「こっちでいっしょに過ごそ」
こっち、というのはミラノでという意味だろう。
で、いっしょに過ごそうというのはつまり………どういうことだろう。
この後に及んでまだ相手の真意が図りかねる。
とぼけた顔で、はぐらかす。決してこちらと向き合おうとはしない。
中学時代のそういう顔と似ていた。いや、似てはいるが何かが違っていた。
無表情のまま、黙り込んでとっくりとその顔を見つめていると、麻衣子の混乱を見て取ったか、相手がさらに口を開く。
「俺と寝よ、て意味なんやけど」
はっきり言われて、麻衣子は立ち尽くす。
言ってくれてよかったが、言ってほしくはなかった。そういう言葉。
次の瞬間には思い切り横っつらを張っていた。
「痛いなぁ…お嬢」
ひっぱたいたその足で部屋の扉を閉め、着替えて出てきた時にもまだ男はその場に居た。
いるとは思わなかったので、少し驚く。
「恥知らずな誘いをかけるからです。会ってすぐなんなの、この遊び人」
麻衣子だって心の準備というものがある。
前々から唐突な男だとは思っていたが、まさかこれほどとは思いもしなかった。
「いやあ……別にふざけて誘ったつもりはないんやけどな」
「なおさら冗談じゃないわ」
「お嬢は俺のこと嫌い?」
先に立って歩く麻衣子を追うようにして男はついてくる。
実のところどこに行くあてもなかった。
ただ駅の場所だけは事前に確認していたので、とりあえずそこを目指している。
「嫌いも好きもないわ」
それが正直な感想だった。
再会したときから、ずっとつきまとって離れない漠然とした不安。
それが何なのかもう麻衣子はわかっている。
「あなたのこと何も知らないもの」
つまりそれが最大のモンダイ。
わかっていたはずだった。
中学時代のこの男とは違うことは。
藤村成樹は彼女にとって未知の他人だ。
何度も自分にそう言い聞かせて諦めさせた気持ちは、1本の電話であっさりとくびきを切っていた。
再会して、実際に会ってみて、かつての面影を探して、裏切られるばかりだったとしても。
それでもどこかで。
あの臆病で、孤独で、どうしようもなく救いのなかった頃のろくでなしの彼に会いたかった。
変わってしまった自分を棚に上げて、変わらない彼を望む、卑怯な自分がいた。
この男はやっぱり自分の知らない男だ。
そして彼の目に映る自分もやっぱり知らない女だ。
悔しくて、悲しくて、足を速める。
ついてくる相手の速度はなぜかゆるりとしているのに引き離せない。
きっと失望はお互い様だろう。
「知らんて、そんなことないやろ」
駅にたどり着いても、どうしていいかわからずそれでも後ろを振り返れない麻衣子に、声がかかる。
「お嬢は昔見たいにサトーて呼んでくれへんけど」
だってそれは貴方の名前ではないでしょう。もう。
そう言いたくて言えなかった。
「でも俺は気にせんし。サトーでかまんのになぁ」
とりなすような、けれど少し、すねたようにも聞こえる口調だった。
「俺は、変わっとらんし、何も」
「嘘よ。変わったわ」
「どこが?」
問われて麻衣子は迷う。どこがとはっきり言えるほど今の彼を知らない。
ただ変わったと、それだけはわかる。
「変わってへんて」
ふいに、手を取られた。
どうやって近づいたものか、気付けば目の前に立って、以前よりずっと親しげに笑う笑顔が目の前にある。昔はこんな風に棘のない笑いを浮かべる人ではなかった。
笑うたびに嘘が透けてみえるような笑顔はもうどこにも見当たらない。
以前のような近寄り難さはもう、ない。けれど余計にそれが淋しい。
麻衣子の知らない顔、ばかりで。
とられたその手が、ふいに相手の胸に押し付けられる。左の心臓の上に。
呆然としていると、相手の手が頬に触れた。
「俺はなんにも変わってへん。触れてみたらわかるやろ」
何の根拠にもならないことを男は言った。
こんなに近くに触れたことなど今まで一度もない。変わったかどうかなど知りようもない。
「わ、わからないわよ」
震えた声に、相手がさらに距離を縮めてくる。
気付けば得体の知れない笑顔が目の前にあった。
「やから」
変わらないことが一つだけあると、ふいに気付く。
「もっと、触れてみたらわかるて」
この男の、この詐欺師のような笑い方だけは。
そして、そんな笑顔に出くわしたときの、搦めとられるような感覚だけは、今も昔も変わらない。
闇の中に光る誘蛾灯のように、惹き付けられて———やがて、地に落ちる。
もうだめだ、と思った。
こんな異国の地に来てまでも、こんな想いをかかえて。
どうしてこの男といると、こうなんだろう。
こんなにも、逃げ場のない焦りが募るのだろう。
「お嬢」
もう一度、だめ押しのように耳元で囁かれる。
「いっしょに、いよ」
それは終わりの言葉のようだった。
男が告げたのは、確かに始まりの言葉のはずなのに。
麻衣子が感じていたのは、どうしてだか何もかもがもう終わったというような、どうしようもない閉塞感に似た何かだった。
髪をかきあげられる指から伝わる淡い束縛に、目眩を感じて麻衣子は目を閉じた。
….and so,heaven’s door closed…
高柴様主催:2007年シゲマイフェスタ初出