昔、一度だけ、父と母が抱き合っている姿を見たことがある。
それは全然ヘンな意味ではなくて、真夜中にふと目が覚めて階下に降りてきた時に、居間のソファに座っている二人の姿を見たというだけのことだった。
母は父の胸元に頭を寄せてもたれかかっていた。
父は母の髪をゆっくりと撫でていた。
私は最初、母が眠っているのかと思った。
母は目を閉じていて、呼吸をしているのかどうかさえ分からないほど静かに、ただ静かに父の腕に抱かれていた。
父はそんな母の髪を撫でながら微笑んでいるような、それでいて少し怒っているような、普段私達の前で見せる機嫌のよい父のそれとは微妙に異なる表情をしていた。
二人は全く会話をかわしてはいなかった。
覆いをかけて閉じこもっている繭のように、母は完璧に世界を遮断していた。
父はそんな母のかわりに、世界中の全てのことを考え、感じ取ろうとしているかのようだった。
身を寄せ合う二人は、まるで何か不思議な回路が通じているかのように、互いから見えない力を引き出していた。
私はそんな父の姿をみて、まるでアンテナのようだと思ったのだった。
そんなことを仁勲おじちゃんに話したら、そうだな、確かにあいつは感度のいいアンテナみたいな男だからなと笑った。
父は若いころから天気を当てるのが得意で、それは父の従兄弟もそうだったらしい。
だからあいつの一族はみんなそうなのかもな、唯元はそんなことないかいと笑っていた。
雨の日の試合とか、いいぞ。コンディションが事前に分かって助かると冗談みたいに言った後、おじちゃんはふと考え込んだ。
「そういえば、あいつはいつも唯錫さんが試合に来るとどこにいるって分かるらしいんだな。
試合の最中に、あそこの列の左から3番目にいるって言い当てるもんだから、お前試合中なのにどこみてるんだよってみんなで呆れたもんだった。
そうするとやつは見なくてもわかる、感じるからって自信満々で言ってのけるのさ。
それで、試合が終わって、会いに行くとホントにそこにいるんだ。賭にもなりゃしねぇって道漢がよく嘆いてたよ。
いつだったか、それで会いに行った時に、やつが珍しい青い蝶を見つけてね、見て唯錫、あそこに蝶がいるって乗り出して取ろうとするもんだから観客席から落っこちそうで、唯錫さんが危ないやめてやめてって必死でやつの腰に抱きついて止めようとしてたよ。
俺はそれを見て、唯錫さんがまるであいつの錘みたいだと思ったんだ。
あいつは放っておくと、糸の切れた凧みたいに、ふらふら気のむくままどこに行くやらわかんないようなやつだったから、唯錫さんみたいな人がいてちょうどいいんだなと思った。
……でも、そうだな。ほんとはちょっと違ってたのかもな。
あいつはホントに唯錫さんに蝶を見せたくて、唯錫さんがやめてって言ってもホントはやめる気なんか全然なかったんだろうな。
唯錫さんは北から来たばかりで、まだどうなるかわからない北とのことずっと気にしていて、だからあいつは唯錫さんのかわりに世界中のいろんなきれいな、楽しい、うれしいことっていうのをいっぱいいっぱい感じ取ってそれを唯錫さんにあげたかったんだな。
ああ、あいつはホントに感度のいいアンテナみたいな男だったよ。どんなことにも敏感で、好奇心が強くて、見逃さない。
だけど一見あけっぴろげにみえても、内心はどうだかわからないとこがあったから、理解するのはたいへんだったけどな。」
そう言う仁勲おじちゃんも、多分お父さんにとってはそうとう相性のいい受信機だったのだろうと思う。
だって二人の試合をビデオとかで見てると、仁勲おじちゃんはお父さんのパスをいつもすっごくいい位置で受け取っていたから。
あたしがそう言うと、そりゃ長いつきあいだからと苦笑していた。
瞼を閉じると、父と母の若いころの姿が浮かんでくる。
空に手をいっぱいに広げて蝶を取ろうとしている父と、それを必死で止めようと父に抱き着いている母と。
父は母にその蝶をどうしても取ってあげたかったのだ。
母に、世界中のきれいなものを、いっぱいいっぱい見せてあげたかったのだ。
多分おじちゃんも同じことを思い出していたのだろう。
目があってお互い同じタイミングで苦笑して、あたしはそれがとってもうれしかった。
それからはなんとなく会話がなくなって、フィールドの隅っこに二人並んで腰掛けて、でもあたしはそれが全然気詰まりじゃなかった。
おじちゃんとあたしの間にも、見えない回路があるみたいで。
ちょうどその時刻、そこから2kmほど離れた李家では、感度のよすぎるアンテナを持つ家長が盛大なくしゃみをして、心配性の妻を慌てさせたりしていたのだが。
その原因がついに不明で終わったことは、崔仁勲の数少ない幸運のうちの一つである。
※SPICA様へのさしあげもの(SPICA様のオリジナル設定をお借りしています。)