「だからなんで?」というのが首尾一貫した男の主張だった。
まさかこうまで話が通じないとは思っておらず、アレン・ウォーカーはがっくりと本日何度目かの肩を落とす。
見た目自分より遥かに年上、遺伝子の記憶という点を考慮するならもう何千年の経験を積んでいるはずの男に、何故自分がこんな幼児にも分かりきった道理を説かねばならないのか。
彼の師もたいがい得手勝手な男だが、少なくとも自分の置かれた立場とか責任くらいは……心得ているかどうかはともかく理解くらいはしているはずだ。多分。
なのにこの男ときたら何をどう説明しても、本気で理解不能らしい。
彼女はエクソシストで、あんたはノア。
こんな単純なことなのに。
「いやだからさあ少年。それは分かってるって」
と、むしろ朗らかなくらいの顔で男はこれまた何度目になるやら分からない言い訳をする。
「ホントに分かってるんですか?」
と我慢強く聞き返すのもかれこれ20回目くらい、いやそれ以上。
しかし相手の方はと言えば、念をおされて「失礼だな」とやや機嫌を損ねた顔くらいにはなっても、果たせるかな肝心の問題については少しも真剣に捕えている節はない。せいぜいが給仕に水を引っ掛けられたレベルの不愉快さ加減。
それでもこうして己が身を危険に晒してまで面談を申し込んきた彼に敬意を表してか、あるいはテーブルにつっぷして慣れない酒のグラスを握りしめている身を憐れんでか、組んでいた腕を解いて「ちゃんと分かってるよ」ともう一度笑った。
「オレがノアで、ミランダがエクソシストで」
「そうそう」
「ノアとエクソシストは敵同士で」
「そうです」
「だよな。オレもだいぶ殺したもんな。エクソシスト」
罪悪感など欠片とも感じていないらしい態度については、もう触れまい。
どうせこれからも改める気などなく殺し合い続けるのだろうからお互い様だ。
しかし”このこと”については問題の次元が違うだろう! とさっきから説いているのだが。
「ミランダもエクソシストなんか早く辞めればいいのにな、オレもうこないだからずっとそれ言ってんのにやっと見つけた仕事だからってミランダのやつ全然聞きゃしないんだよ。それ少年からも言ってやってよ。どうせそのうちまたヘマやらかして首になるに決まってんだからさ」
「辞めるって、そんなことできるわけないでしょう…」
疲れるからもう怒鳴ることは止めた。だからといって怒りを押さえ込んだ分ストレスはたまる一方なのだが。
「なんで?」
そんなこちらの徒労感はいっさい無視してぐだぐだと埒もない苦情を述べたてていた男が、今初めて聞いた、と言わんばかりのきょとんとした顔になった。
やっぱり分かってやがらねぇこの男、と普段の彼らしからぬ悪態をつく。師匠と同じくらいどつきまわしたい大人に初めて会った気分だ。
「イノセンスの適合者は全員教団に属することが決まってるんです、そういう決まりなんです、それももう何度も言ってるじゃないですか!」
「いや聞いたけどさ。誰が作った決まりなのそれ」
「それは……」
もちろんのこと、それは教団が勝手に決めたルールではある。
イノセンスに適合した人間全てがエクソシストになりたかったわけではない。
ただそうした力を得てしまった、そのために、どうしても人生の歯車は狂う。周囲からの白眼や自身の現実生活との乖離。他に行き場がない、持て余す力の使いどころがない。アレンが見た限り、エクソシストの多くはそうやって教団に流れつく。最初は強制的に連れてこられたとしても、繰り返す日々の中で、異能の力を持つ自身の居場所はここしかないと思いはじめる。イノセンスの存在意義は教団の目的と完全に一致するからだ。
AKUMAと戦うこと。そのためのイノセンス。そのための教団。
あるいはそう、思い込まされているだけかもしれないが。
「一方的な理屈だよね、それ」
アレンの僅かな躊躇いを見透かすように、男が底意地の悪そうな目をして笑った。
「イノセンスなんてさ、勝手に宿って、勝手に裁いて、勝手に進化してさ。従わなきゃ咎落ちだもんな。下手すりゃ悪魔以上の暴君じゃねぇ? そんなもんに勝手に人生決められちゃってそれで良いわけエクソシスト?」
そういえばこの男は以前とあるエクソシストを「咎落ち」させているのだった。
その結末についてもよく知っているはずなのに。
「ミランダさんのことは心配じゃないんですか」
強ばった声で問いかける、こちらの真剣さを見て取ったか、ようやくのこと、ノアの男はここで出会ってから崩れないふざけたような態度を改めた。
「そりゃ心配だよ。アイツはただでさえ馬鹿で阿呆で、後先考えないって点じゃ人後に落ちない底抜けの間抜けときてる。聞けば能力だってどう考えても戦闘向きじゃないだろ? それでどうやってAKUMAとやりあえるってんだ? 大怪我しないうちにやめとけって何度も忠告してんだよオレは」
「その前に貴方と会ってることが最大の問題なんですよ」
論点が完全にずれた男の返答に、それでもアレンはようやくのこと話を本題に戻した。
しばらく沈黙を置いて男の返答を待つ。
だが、出会ってからこっち、アレンの言葉に間髪入れずの返事をしてきたはずの男は、わずかに視線をそらして紫煙を燻らせただけだった。
周囲の喧噪が急速に遠のく。
一瞬で温度の変わった二人の間の空気に、誰も気付いてはいない。
だが、もし今誰かがこの場に割ってはいればなんだかただではすまない。そんな気がした。
こんな場末の酒場で、まさかの世界大戦が始まったりはしないだろうが。
お互い、ここで会っていることは重大な秘匿事項だ。
以前街で見かけた二人が気になって、休日に出かけるミランダの動向にそれとなく気を配っていた。
彼の知る限りでの逢瀬が5回目を越えた時、とうとう彼女と別れた後の彼に声をかけた。
よう少年元気かなどと、頭のネジが一、二本外れたような調子で挨拶などされたものだから、これはもしや話せばわかるかもと思ったのだが。
「……貴方に心を許したことが、教団に知れたらミランダさんがどうなると思います? 幸いにして彼女のイノセンスは見逃してくれているみたいですが、教団の上層部はそんなに甘くはないですよ。よくて破門、悪ければ一生監禁です。むしろそっちの方が実現性が高いくらいだ」
「関係ないよそれは」
「関係ない? ミランダさんがどうなってもいいって言うんですか!?」
とうとう椅子を蹴立てて立ち上がったアレンを、煙草を手放さない似非紳士が「落ち着けよ」と制した。
「たとえどこに監禁されたってオレには関係ない、って意味だよ。オレの能力は知ってるだろ少年。その気になりゃあんな場所からミランダを連れ出すくらいわけないって」
「…………」
「オレとしちゃすぐにでも実行したいくらいなんだがね。ミランダがどうしても教団を辞めたくないっていうからそれを尊重してやってるんだ。教団から貴重なエクソシストを奪わないでやってる点についちゃむしろ感謝してくれてもいいんじゃないか」
「このまま関係を続ければいつかはバレますよ。教団のお膝元まで来て、結構おおっぴらに会ってるじゃないですか。まさか逆に連れ去る口実に?」
「いやそこまで考えちゃいないが」
「だと思いました。後先考えない点では貴方もミランダさんを笑えないですね」
人の良さそうな外見のわりに、アレンの言葉はきつい。
実際人が思うほど善良なわけではないことを、目の前の男もよく知っていた。
「まあね。だけどバレたってどうとでもなる。そのあたりいっしょにしてほしくないんだなぁ」
「どうとでも……」
それがあながち法螺ではないとわかるだけにアレンは疲れた声で鸚鵡を返した。
「だってアイツのイノセンスは見逃してるだろ」
対する男はしごく冷静だ。開き直っているというより本気でそう思っているらしい。
「ホントに罪だってんならオレが最初に触れた時に咎落ちとやらになっててもおかしくないんじゃないかね。かれこれ20回以上、オレはアイツを抱いてるぜ。なのにイノセンスは一向にお咎め無しだ。だったらこれは罪じゃないんだろうさ」
徹頭徹尾手前勝手な結論だったが、否定することは難しかった。
事実、彼女のイノセンスは以前と変わりなく顕現し続けている。ミランダ自身の罪への迷いとは裏腹に彼女と周囲を守り続けていた。
「どうせ途中から横入りしてきたのはそっちの方だしな。イノセンスなんてモンがなきゃあアイツは今でも普通にオレといっしょにいられたんだよ。勝手に攫っといて勝手な教理とやらを押し付けられてそれでなんでこっちが引かなきゃならないのか、納得のいく説明とやらをぜひともしてほしいもんだなええ?」
ふと気付けば、殺気の塊のようになった男がそこにいた。
表情を変えず、口調も態度も変えず、ただ静かに気配だけが変わる。そんな場面にかつて対峙したことを思い出し、アレンはそれ以上は何も言えなくなった。
言葉を尽くして理解り合う時間は終わった。これ以上先は行動の出番だと。
「落ち着けよ少年。今ここでやり合う気はねぇよ」
さきほどまでの物騒な気配をあっさりと引っ込めて男は薄く笑う。
まあ、座れや、と声をかけられるままに、アレンは脱力したように椅子に腰を落とした。
「ミランダさんとは……以前から?」
先ほどの台詞で気になったことをとりあえず聞いてみる。
殺気に当てられた頭を冷やす時間が欲しかったのだ。
「アイツが故郷にいた頃からな。千年公の用事でしばらく滞在したことがあったんだ。……出会ったときは白い方のオレだったんだが」
「?」
白い方、と言われてもアレンには何のことか分からない。ただノアではない彼という意味なのだろうと朧げながらに察する。
「その後その仕事はロードに引き継いで……やっぱあんとき連れてきときゃよかったなって後で思ったよ。お前らのカミサマとやらにひっ攫われて良い様だ……ったく」
声に自嘲じみた響きが混ざったが、すぐに消えた。かわりに金の目がゆっくりと彼を射る。
「だからさ、邪魔するなよ少年。お前らの神様にもそう言っとけ。人のもんに勝手に手ぇ出すんじゃねぇよってな」
話は終わった、とばかりに手元のシルクハットを手に、男は立ち上がる。
気付けばこんな安手のパブにふさわしからぬお貴族様だというのに、周囲は誰も気にした素振りを見せない。これもノアとしての能力故なのかそれとも根っ子のところは同類項だと脛に傷持つ周囲が察したからなのか。後者であってもおかしくない気がした。
立ち去る後ろ姿に、アレンは最後の言葉を口にした。
説得には失敗したとしても、ミランダのためにどうしても言っておかねばならないことがあった。
「ティキ・ミック。貴方はどうでも……代償を払うのはミランダさんです。不幸にしないであげてくださいね」
「愛する女の幸せを願わない男がいるかね、少年」
戯けた台詞はどこか切なく響いた。
多分自身で言うほどには、彼も幸福ではないのだろう。
得られぬものに足掻くのは人もノアも同じことらしかった。