ある日。
 英国特有の霧雨に煙る大気がなんとなく人を憂鬱な気分に追い立てるある日の朝。
 天候ごときでは全く左右されてくれない本能(=食欲)を満たさんがため、今日も今日とてアレン・ウォーカーは大量の朝ご飯を一心不乱に消化していた。
 しかし他人が見て思うほど食事中のアレンはその摂取に集中しているわけではない。
 彼が大食なのはまさしく寄生型適合者としての宿命であり本能の支配するところであって、つまるところ味わうどころか咀嚼ひとつにさえそんなに気を配ってはいないのだ。無意識下の行動故に制限もきかず、ふと気付けば「おやこんなに食べちゃってたか」くらいな気持ちで食事が終われば食べた量など腹具合ともども忘れてしまっている。従って、食事中の彼は他人が知ればまさかと思うほど、周囲のいろんなことに気を配り、思考を働かせているのだ。
 ――例えば斜め向いに座る女性の顔が、本日の天候と同じくらい、そしていつにも増して冴えない表情なのはなぜだろう、とか。

「どうしたんですか? ミランダさん」
 と声をかけたのは、先ほどから彼女のスプーンが皿の2cm上から少しも動かない距離で固まったままであることに気付いたからだった。
「なにか悩み事でも?」と問うアレンの顔には善意しか浮かんでおらず、実はその原因が何なのか知ってますよとは相手にも周囲にも欠片ほども気取らせていない自信があった。
 果たしてミランダは「いいえなんでもないの」と明らかに無理無理な顔で微笑んでいたが、そうと気付かされてすぐ隣に座る心配性のリナリーとおせっかいやきのラビの二人が放っておくわけもない。
 いったい何事かと問いつめた(あくまで善意で)結果、ようやくミランダが口にしたのは、「実は昨日恋人と別れてきた」という一同驚嘆の事実であった。

 瞬間、驚天動地の叫び声が響き渡り、それが静まった後には限りなくちぐはぐした空気と沈黙が訪れる。
 誰もがミランダを凝視し、まさか到底信じ難い、という表情を浮かべていた。
 だがさていったいどこから何に驚き何を疑えばいいというのか。
 ひとりミランダ本人にも知らないところで事情を知るアレンだけが、驚きながらもほっとした表情を浮かべていた。先ほどのミランダの告白に叫び声を上げたのは彼も同じだが、自分が何に驚いたかくらいは正確に把握できたので、周囲ほど衝撃を引きずらずにすんでいる。
 引きずりまくっているのはむしろこの世の事象は全て記録せずにはおかれないブックマンの性として教団一の事情通を自認していたラビがいちばんだろう。
「いっいったい誰にいつから何でっ……!!!」
 ぐらぐらと頭を揺らしながらもすべての疑問を一度で口にしたのはさすがの業というべきか。
 しかし問われたミランダに答えられるわけがない。一つの質問に答えるだけでも難儀な頭の持ち主なのにそんなことを一時に聞かれてもうまく説明できるはずもなく逆に周囲の驚きに引きずられて目を白黒させるばかりだ。
「そっそうよ! つまりええと問題なのはそこよね、だから恋人がいたのミランダ!?」
 ようやく自分がいちばん聞きたいことの整理がついたらしきリナリーの問いに、周囲も同意の空気を見せたのでミランダはまずそのことから答えることにしたらしかった。
 実にあっさり、一言。
「え、ええ、そうなの」と。
 いや聞きたいのはそこじゃなくて。
 質問の意味を正確に捉えてもらえなかったリナリーは、がっくりしながらさらに問いつめる。
「いつから!? 誰とつきあってたの!?」
 今度は質問がふたつ。
 ミランダは考え考え答えを口にする。
「ええと…最初に会ったのは実は教団に来る前なの。つきあい…っていうかよく会うようになったのはここ1年くらいで…仕事中に偶然再会して………」
 とりあえず嘘ではないからぼろは出なさそうだな、とアレンは一安堵した。
 おっとりしたミランダの人柄からして周囲は単なるデートの相手くらいに捕えたようだが、おつきあいどころか会えば即情事にもつれこむ関係であったなどとは口が裂けてもこの場で言ってほしくない。というか言わないですよねミランダさん、と祈るような気持ちで先を続けるミランダを見守る。
「でも、もともとほんとは好きになってはいけない人だったの。わかっていてずるずる会ってて…こんなんじゃいけないって思って、昨日お別れしてきたのよ」
 それでやつれ気味のわけがわかった。
 悲しみ故の蒼顔かと周囲は思ったようだが、絶対アレが駄々をこねて無理を強いたに違いない。なんのかんのと理由を付けて朝まで寝かせなかったに決まっている。アレン・ウォーカー(16歳)はまだ未成年だったが男女の機微についてはいい反面教師に育てられていたため正確に事情を察した。
 リナリーたちはいまだ衝撃醒めやらずでそのあたりまで推察が及んでいないようだが、とにもかくにもミランダ自身が納得ずくで別れてきたのだという事でよしとしたらしい。
「好きになっちゃいけないって……なにか事情のある人だったの?」
「まさか既婚者とか?」
 敢えてラビが踏み込んだ質問をするとミランダはゆるゆると首をふる。
 まさか相手はノアなんです、とは言わないでしょうねとまたしてもアレンははらはらしながら、もしそうなったら何が何でもミランダを逃がす算段をしなくてはと気の早すぎる計算を始める。
「いいえ、そういうわけじゃないんだけど……彼には私より大事なものがあって。それに貴族だったから……私とは最初から身分が違ってたのよ」
 だからしかたない、とそれでも淋しげな横顔を見せるミランダに周囲はいたく同情した模様。
「なるほど。女より家が大事というわけであるな。男の風上にもおけんである」
 特にかつてAKUMAとともに心中さえはかったクロウリーには心の琴線に触れるところがあったようだ。どこの誰なのだ私がとっちめてやるとミランダにさらなる告白を強いていたが、ミランダ自身は頑としてそれだけは言えない、と痛々しくも笑顔で「大丈夫よ、全部終わったことだから」と言い切って席をたった。
 アレンはそんなミランダのほっそりした背中を見つめながら、周囲の同情とは異なる思惑を抱いていた。

(それにしてもよく納得したなぁ……あの男)

 以前彼が説得に赴いたときには梃でもイノセンスでも別れそうにない印象だったのだが。
 やはりミランダ本人に三行半をつきつけられたことで諦めがついたのだろうか。

 まあもともとノアとエクソシストの恋は実らないとは本人の言である。
 もしかしたらあの頃から考えるところはあったのかもしれないな。
 同情にはあまりあるがミランダのためにはよかったのだろう。
 できれば幸せになってほしい、と真摯に彼は思った。
 もちろんミランダのことだけではなく。
 

 しかしてその数ヶ月後。
 街で偶然ミランダに会った彼は目を三度しばたき、ひきつった表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「あら、アレン君、偶然ね」と笑うミランダの顔は彼とは対照的に、ここ最近見ないほど朗らかで何の悩みもなく順風満帆にしあわせそうだ。
 珍しくもよく晴れた日曜日。ランチバスケットを手に提げ、日よけの帽子(彼女にしては明るめの色だ)を被って公園を散歩していたらしき彼女の傍らには、ていうか腰には、どこかで見かけたような男がしっかりと腕を回してひっついていた。
 瓶底眼鏡にもしゃもしゃの髪、でも以前会ったよれよれの浮浪者の為りよりちょっとはマシなオフホワイトのセーターとデニム地のズボン、という姿で。
「み、ミランダさん……その男は……」
 別れたんじゃなかったんですか、という声は寸前で飲み込んだ。
 アレンが言葉を継ぐより先に、ミランダが恥ずかしがるほど体を寄せた男が「なにミランダこの男お前のツバメじゃないだろうね」とこちらを全く無視してミランダにからみはじめたものだから。
「ち、違いますよ同じ職場の男の子なんです」とミランダが弁解するそばから「じゃあ早くあっち行こうよオレ腹減ったよ」と無理矢理ひっぱっていこうとする。
「ご、ごめんなさいアレン君。また後でね」
 とすまなそうに手を振るミランダを「後ってなに。オレとした後ってこと?」となおも返答に困らせながら、ついにアレンに一言も問いつめる隙を与えず連れ去った手並みは誠に鮮やかという他なかった。

 次の日の朝、またしても寝不足そうな(その理由についてなど聞きたくもないし聞く必要もないが)ミランダに、アレンはやや気まずげにおはようございます、と声をかけた。
「あ、あらアレン君。おはよう」
「え、ええと昨日のことは……」
「え、ええそうね。えっと……みんなには黙っていてくれる?」
「も、もちろんです。よりを戻したなんてリナリーとかが知ったらきっと怒るでしょうしね」
「より?」
 アレンの事情は知ってますよといわんばかりの顔にミランダは小首をかしげて笑う。
「いやだアレン君。彼は違うわ。以前つきあっていた人とは違う人よ」
 あまりにも確信をもって言われたのでアレンは一瞬聞き違いかと思って目を丸くした。
「え、ええ?え、そうでし…たっけ……」
 でもあれは確かに。アレンが最初に会ったアレなのだが。
「ええ、でもよく似てはいるのよね。最初に会ったときもそう思ったの。もちろん彼は貴族なんかじゃないし、肌の色も違うし、雰囲気も…似ているようでやっぱり違うものね」
 それは同一人物の白の面と黒の面、裏表な関係だからだろうと思うのだが。しかしよく考えてみればミランダの出会ったアレは最初から貴族風のスカシた伊達男のアレで、よれよれのぼろぼろのぐだぐだの孤児の浮浪者としてのアレの面は見たことがなかったのだろう。
 従ってミランダの中では全く違う人として認識されてしまっているらしい。
「同じ国の人だからかしらねぇ…偶然だけど名前も一緒だったし」
「…へえ……偶然なんですか……ソレ……」
 偶然で片付けてしまっていいんですか、と本音では言いたい。
「ええ、でもあちらの国の人ってよく似た名前つけるから。珍しくないんだって言ってたわ。移民も激しくって何代も前からこっちにいる人も多いらしいし」
 あちらの国、と聞いてアレンは確かポルトガルだったかなと何世紀も前に海上貿易の覇者であったかつての大国を思い浮かべる。位置的にも文化的にもスペインの近所。そういえばあの国はマリアとかカルロスとかパウロとかゴンザレスとか聖人にあやかった名前を一人の人間に三つも四つもつけていて、ちょっと聞いただけでは区別のつかない名前が多かったりする。
 いやでもそれにしたってティキなんて聖人いたっけと思いつつ、それでだまされているミランダに真実を教えるべきかどうか悩んだ。
「ミランダさん、あの……」
 思いあまって顔を上げればミランダの薔薇色に染まる頬に行き当たる。
 あまりにも幸せそうな空気を纏う彼女に二の句が継げず、アレンは挙句まったく違う言葉を口にした。
「あ、……彼とはその…幸せですかミランダさん」
 その一言に、ミランダは実に実に晴れ晴れと―まるで何の文句も問題もない、と言わんばかりの笑みで答えた。
「ええ。もちろんよ。彼はとってもやさしいし」
 そうですか、と白ぼけた頭の片隅でアレンはあの悪党で超のつくサディストの優しさとはどんな爛れたものかと考える。
 しかしてミランダを見る限り本当に本気で幸せそうで、それを邪魔するほど酷い男にはやっぱりボクはなれません神様、と咎落ち覚悟でイノセンスに詫びた。

 その後しばらくしてやはり街で偶然再会したあの男(どうやらまたしてもミランダと待ち合わせ中らしい)に問いつめたところ、『やっぱりノアとは付き合えないし、何より貴族めいた貴方と私では釣り合いません』というアレンが聞いても問題の前後がずれたミランダの嘆きにとうとう折れることにしたらしい。
 ノアがどうこういうんなら無視だけど貴族がヤダってんなら話は別、というこれまた妥協点としては変じゃないかと思われる理由によって。
『だってノアのオレはどうにもできんけど、貴族のオレは所詮借りモンだし?』
 とうそぶくティキ・ミックは本気でこの風体と肌の色の違いだけで別人として騙し通すつもりらしい。
 まあ自分も最初正体明かされるまで気付かなかったしとミランダのことを笑えないアレンは、それでもくれぐれも他の教団関係者には見つからないように(特に神田あたりには)と釘を刺し、へらへらと手を振る男から早々に離れることにした。
 その人生舐めきった笑顔を見るにつけ、こんな男の幸福など願うのではなかったと心底腹を立てながら。
 馬鹿々しいったらありゃしない。
 アレン程度が心を痛めてやらなくても、この世の道理の全てをねじ曲げてもこの男は勝手に幸福になるに違いなかった。
 遺伝子がどうこういうまでもなくこの手の男に懲りるとか諦めるとかいう人生観は皆無なのだ。
 すぐ間近で同じタイプの男に育てられていながらそんなことにも気付けなかった己の迂闊さをAKUMAの如くアレンは呪った。

 かくて道化芝居は終わり、またひとつの舞台の幕が開く。役者次第でいかようにでもなる三文オペラのごとく。