最初にそれに気づいたのはラビだった。
 というかその場で正気を保っていたのが彼だけだったので、気づいたのは彼しかいなかった、という方がより正しい。

 ミランダ・ロットーは概ね感じのよい女性で、多少、いやかなり実際的な面で難ありだったとしても教団にいる限りは稀有で貴重な能力を有していたので問題はなかった。
 だから”教団にいる限りは”ほとんどの人間から好意的に接してもらえていたし、だからか彼女はとても早くにこの組織に愛着を抱き、適応した。
 局長であるコムイ・リーがことさらに「ホーム」としての性格を強調した組織作りを行っていたこともその理由の一つではあったろう。
 どんな人間であるにせよ過去は問うまい。ここにいる以上はみな同じ同志であり家族であるというのが彼の基本方針である。だからか自然、みんなで集まって何かする、という機会が多々あった。聖誕祭、降臨節、復活祭など教団お決まりの祭日にはじまり、誰かの誕生日、入団記念日、あるいは苦しい残業のあとのなんてことはない打ち上げまで。外から来たラビをとまどわせるほど多種雑多な行事ごとが、多忙なはずの実務の合間をぬって企画され実行される。
 そしてなぜかそういう場合には普段教団には寄り付かないはずの元帥クラスの人間までが帰ってきては騒ぎ、翌朝には姿を消しているのである。
 そのようなお祭り騒ぎはあたりまえのように教団の中の大食堂で行われる。総勢何人になるのか知れないがこうも多く開催される会に文句もいわず(というかむしろ嬉々として)対応してくれる料理長ジュリー氏には全くもって脱帽である。
 まあ毎日アレンの大量の注文を平然とさばききる腕前があればたとい100人分の料理をその場で用意しろと言われても動じる気配もなさそうであるが。

 さて話をミランダ・ロットーのことに戻す。
 彼女は見るも哀れなほど痩せた女性である。
 痩せていることは女性にとって重大なことでその逆よりはよほどいい、と普通ならば思うだろう。だが、彼女の場合は明らかに行き過ぎの傾向を示していた。教団に来た頃など一歩間違えば病人ではないかと思うほど痩せていて、しかも肌も白すぎるほど白かったから、ついたその日にメディカルチェックが入念に行われ、その結果単なる貧困ゆえの栄養不足と診断されたが、教団に来て数ヶ月、食生活が大幅に改善された今になってもまだ、気の毒なことに彼女の体つきはかなり貧弱なままだった。
 神田あたりが口悪く「なんだあの鶏ガラ女は」と罵ってはアレンとリナリーに鉄拳制裁をくらっていたが、事実は事実として受け止めねばなるまい。当初よりややマシになったとはいえ、普通の女性から見れば呪い殺してでもと思うほど彼女のウエストは細い。コルセットなしで流行のドレスが着れるだろうほど細い。
 食物の摂取量と体重の加増度を比較考察するに、彼女はどうやら食べても太らない体質らしかった。

「ミランダ……まだ飲むんさ……?」
 細い身体に不似合いなほど大きなビールのジョッキがラクラク空にされていくのを目の当りにしたラビは思い切り顔を引きつらせて聞き返した。
 久しぶりにエクソシストのほとんどが帰ってきている機会をいかしての「おかえりなさいパーティ」での席上である。単に普段揃わない面子が揃ったからという理由だけであっという間に飲み会が企画されてしまうこの教団のフットワークの軽さはもっと他のことにいかすべきじゃないかとふと感慨にふけっていた隣の席で、どん、という音ともに「おかわりくださぁーい」という調子っぱずれに明るい声。不意打ちに驚いて顔を上げればこの光景が目の前にあった。
 近くにいた給仕係(普段は確かファインダーとして働いているはずだ)が早速のように大ジョッキにビールを継ぎ足し、足早に去っていく。気づけばあちこちで同じように「おかわりー」という声が上がっているので一人一人まで気が回らないのだろう。今自分が応対した女性がいったい何回彼を呼び止めたかなど覚えていないに違いなかった。(覚えていればそろそろと止めたはずだ。)
 目の前の彼女が酔っ払っているのかどうか顔色からでは判断できない。少なくとも所作、口調におかしなところは見受けられない。
「みんな久しぶりに揃っていてうれしいわね」と気安げにラビに話し掛け、ついで細い手首が軽々と自分の胴体より太いのではと思われるジョッキを持ち上げる。
 降ろされたときには中身は半分近くまで減っていた。
「つ、強いんさね、ミランダ」
 酒は飲んでも飲まれるな、が身上のブックマン候補者が手にしているのはごく普通のエールグラスで、まだそれも2杯目のようやく半分開けた程度だ。ミランダが今飲んだ量は多分このグラスの3杯分はあるだろう。
「私、ドイツ人だから」
 とにこやかに笑ってミランダはソーセージを頬張った。
 おいしそうに幸せそうに食べている、その姿はまこと微笑ましい。
 つられて、へらっと笑うラビの目の前で、またしてもジョッキが空いた。 
「ドイツの人って、みんなそうなん?」
 と思わず問い掛けたのはそんなはずないことを彼がよく知っているからだ。
 こう見えても世界中旅してきた身である。
 彼女の故郷旧プロシアあたりにだって小さい頃から何度も行っている。酒場に混ざって現地の人間と話すのは情報収集の第一歩なのだから。
 ドイツ人は確かにビール好きの国民たちで飲む量も半端ではない。だがミランダのこの量は異常だ。ハイデルベルクの学生街でだってこんな飲み方をする人間はいなかったと断言できる。
 しかし生粋のドイツ人、ミランダ・ロットーは答えた。
「ごく普通だと思うわ」
 だとしたら自分がこれまで見てきたドイツ人はいったい何だったのだろう。
 おっかしいなぁ、オレ行った国間違えた? と疑いたくもなる。
 思わずうつぶせる彼の前でまた波々と黄金色の液体が注がれていく。
「おいしいわねぇ。ドイツのビールもおいしいけどイギリスのも悪くないわね。この間クラウド元帥に飲ませてもらったアイリッシュ・ウィスキーもすごくおいしかったし」
 あれ、あるかしら。あったら飲みたいわ、とまるでカフェでチョコレートでも頼むかのような口調でミランダは言った。
 アルコールの摂取はダイエットの大敵と以前聞いたことを思い出し、ラビは思わず彼女の腹を(失礼ながら)眺める。
 そのウエストは相変わらず世の女性の羨望の全てを集めるほどに、細い。

 ふと気づけば彼女の周囲の人間はほとんど潰れてしまっていた。
 何度も言うが酒は飲んでも飲まれるな、がブックマンとしての身上である。
 酒場だからといっていちいち酔いつぶれていては世界の記録など到底取れはしない。
 うまくコントロールしながらなんとか最後まで付き合い、部屋まで送り届けた後食堂に戻って見たのは累々たる泥酔者の群れだった。
 やれやれこんなときにAKUMAの襲撃なんかあった日にはたちまち壊滅状態だな、と一人ごちた彼だったが、それがいっかな切実に響いてこなかったのはやはり彼にも相当酔いが回っていたからだろう。
 自室に戻ってすぐ、眼帯も外さずヘッドバンドも取らずベッドに倒れてしまったからには。

「ああ、今日も楽しかったわ……ラビ君ともいっぱい話せたし」
 一方こちらは就寝前にシャワーを浴びる余裕まであるミランダである。
 くせっ毛の強い巻き毛をタオルで拭きながら寝室に戻ってくると、見覚えのある人間が窓枠に腰掛けて煙草をくゆらせていた。
「あらティキさん」
 と笑って近寄ってくるミランダに、よう、と気安い挨拶を返し、ふと彼は笑みを強める。
「酔ってんの?」
「わかります?」
「わかる。ミランダ酔っ払うとあたふたしないから」
「あらー」
 笑う彼女はいつも通りのミランダだ。教団の人間たちならそう思うし、おっとりした言動や感性のずれた返答も彼女ならではの純朴さ(悪く言えばおつむの悪さ)ゆえと判断されるLibrary > Weekly Jump,Comicだろう。
 教団の頭のよすぎる人間たちはミランダを愛すべき人間と思いこそすれ自分たちの知らない秘密や裏を抱えられるほど複雑な人間とは思っていない。見たまま、表れたままの赤子のようなミランダ・ロットー。彼らの侮りにも似た愛情は、彼らの神の傲慢なそれとそっくりだ。

「ミランダ、おいで」
 彼の伸ばした腕の中にすんなりと納まる今の彼女に罪の意識はない。
 揺り篭に似た動きでゆすってやるとうっとりと目を閉じ、彼女は力を抜いた。
 実はミランダに飲酒の悪癖を教え込んだのはかつての彼である。
 職を失う度やけ酒で気を紛らわす、飲め飲め浮き世の辛さはたいていこれでなんとかなると煽るように酒場に連れていっては酔いつぶそうとした。
 だが、彼女の自己嫌悪は酒の酔い程度でどうになるものでもなく、結局酒への耐性がついただけでいっかなその涙も悲しみも癒してはくれなかったのである。だからティキの腕の中で全てを忘れさせるしかなかった。
 それを思えば今の彼女は随分と安らかなのだろう。

 かぐろき脈の 葡萄酒よ、
 おお酒、おお血、神と崇めむ。

          (鈴木信太郎訳『ヴェルレェヌ詩集』:「葡萄のみのり」より)

 気取った詩の朗読会で唯一覚えた酔っぱらいの詩を口ずさみ、ティキは笑う。
 かの神の息子は自分の血はぶどうの酒だと言ったとか。
 そうならば確かに彼らの下僕を切り裂きすするその血はまこと甘美に違いない。
「麦の酒にしとけばよかったのにな」
 試しに口づければつん、と苦い匂いが鼻を指す。
 これは彼が欲するのとは違う血の味だ。
 ぶどうなど実らぬ不毛の北の地に産まれた女は、その恩寵には恵まれぬまま育ったのだ。
 ならば彼の手に堕ちるも無理はない。
 彼女の体に流れる血は、今宵神の血とは異なる液体で薄められ、彼に染めかえられるのを待つばかり。
「わたし、今日、麦酒しか飲んでないですけど……?」
 彼の呟きが聞こえたのか、ミランダが不思議そうにこちらを見つめている。
「うん? うんそうね。その方がいいよ、今はね」
 何と比べていい、なのか危うい言葉を彼は口にせぬまま額にまたひとつ口づけを落とす。
「お酒くさいですか…?」
 けれど言葉の意味を捕え損なった彼女は不安そうに問い返してきた。
「平気だよ。どんな酒でも、オレは好きだから」
 ミランダの味ならね、と付け足して酔いのせいではなく頬を赤くした彼女をもう一度深く抱き直した。