神の御手により救い上げられた日から、秘密などというものを持つことはもってのほかのことだったろう。
ところが彼女はそれを持っていたのだった。
もっとも彼女のことだから秘密といってもそんな高級なものではなくて、せいぜいブリキの貯金箱の中で銅貨がいくつか淋しげな音をたてている程度のものだった。
だがそれでさえ、一点の穢れも許されぬ場所では秘匿されねばならぬ罪となる。
過去のささやかな思い出の中に眠る、かの人の面影は、誰に聞かれずとも明かすことのできないものとしてミランダの心の奥底に仕舞い込まれていた。
そうしろと誰に教えられたわけではないにせよ。
ただこのような場所ではおそらく許されないことなのだろうと、朧げに解したからだ。
己が身が清いものではないということは、全知全能の御方にはとうにお見通しのことであろうし、神に召し上げられる前には貧困に喘いでいた下層の出身、そんな過去の一つやふたつあったとておかしくはないと暗黙のうちでは判断されたとはいえ。
それでも黒い団服を身に纏い、教団の一員と数えられたからには清廉であるべきだと、誰に教えられずとも周囲が己を見る目、扱う仕様によって彼女はその型にいびつな己の身を押し込めていた。
ぎこちのない動きで踊る操り人形のように、ミランダは慣れぬ仕事に精を出す。
うまく踊れぬことははなから承知。普通の人が普通にすることさえ満足にやり遂げられぬ己に、世界を救うなどという偉業、その末端ですらこなせるわけがない。
だがだからこそ、ミランダはその仕事を厭わなかった。
並みの人間、まして女性であれば恐ろしさと忌まわしさに逃げ出したくもなるだろうAKUMAとの戦いも、世界の何処に眠るか知れぬイノセンスが起こす怪異も、己が人より劣ると知るが故に、厭わなかった。なんとなれば誰がやってもうまくやれるかどうか分からないことならば、己がやってうまくいかなかったとしてもそう咎められることがない。幾分打算的な自分に嫌気が指しつつも、幸いなことに彼女は今まで大した失敗もなく任務をこなせていた。皮肉なものである。
かつてはあれほど人並みでない自分を嘆いていたというのに、うまくやることを諦めたらそこそこうまくやれるようになった。
かくして他人にとってはともかくミランダにとっては教団は居心地のよい楽天地となった。
たった一つ、胸にしまったその秘密だけを隠し通せれば、理想的な、とは言えぬまでも瑕瑾なき教女としてその楽園を失わずにすんだのだ。
描かれた肖像画を手にしたとき、最初ミランダはそれが誰だかわからなかった。
ノアというAKUMAよりも恐ろしい一族の人だと周囲から教えられ、遠い東の果てで彼女が疲労に倒れた時、間近にいたのだと聞かされてもなお。
おそらく、素顔の彼をあまり見たことがなかったから第一印象としてぴんとこなかったのだろう。
あるいはあまりにも深く記憶の底にしまいこみすぎて、思い出すのに時間がかかったのかもしれない。
いずれにせよ、驚愕に悲鳴をあげるタイミングを逃してしまったのは彼女に取って幸運だった。
それは自室に戻り、暗い部屋の中寝台の上に仰向けに寝転がってしばらくしてからやってきた。
彼女の巡りの悪い頭の中で、ふたつの記憶から現われ出た輪郭が透かし絵のようにぴたりと合わさったときに。
そうと悟った瞬間ミランダの身体を襲ったのは激しい絶叫でも恐怖による震えでもなく、とめどのない嘔吐だった。
『 Did you realize me? 』
そんな落書きが彼女の自室に残されていたのは、それから数日してからのことだった。
緋色のインクで描かれた小さなメモ。姿見に映る彼女の、ちょうど胸の位置に貼られていたそれ。誰がどうやってなどと問うまでもない。
彼女がエクソシストになったことを、彼はいつから知っていたのだろうか。
知っていて―――何も言わず、今日まで見過ごしにしてきたのだろうか。
先だってのEDOの戦で、ミランダは終始気を失っていたに等しく、彼が傍ら近くまで来ていたと知らされても彼女の方にはまったく覚えがなかった。
狙われ、殺されかけたのはリナリーの方だったらしい。
自分には見向きもせず、ラビや神田と激しい戦いを繰り広げていたとも。
気付かなかったのか、気付いていて知らぬふりをしていたのか。
いずれにせよ、残されたメッセージは、彼の意思表示だった。
気付いたのなら―――これ以上隠すな、と。
『だって貴方はもう私の敵なのでしょう。だったら私を殺すのでしょう。』
『そう、ミランダが俺の敵なら、俺はそうするよ。でも本当にそうなのミランダ? ミランダは俺の敵なの? 何を守るためにミランダは俺を敵に回すの?』
『世界を―――』
『へんだねミランダ。ミランダはこの世界がそんなに好きだったかなぁ。ねぇ、俺よりも好きだった?ミランダ―――』
聞いてはいけない。開いてはいけない。
胸の奥に、粗末な傷だらけの箱の中にしまい込んだ秘密を。
かつて彼に無邪気に捧げたあの言葉を。
けれどああ。
女の手はいつだって、それを隠してはおけないのだ。
『世界中の誰が私を見捨てても、貴方が傍にいてくれれば、私は幸せです』
ミランダ・ロットーがイノセンスの不適合者となり、謎の失踪を遂げるのはその数日後のことである。