女性のエクソシスト、ということについて前例がないわけではなかった。
 歴代ざっと数え上げるだけでも10人程度はいたし、現在でも3名、立派な主力戦力として存在している。うち一人は元帥だし、その上最古参の適合者もやっぱり女性だ(今の形態をそう呼ぶには随分無理があるが)。
 イノセンスがどういう基準で適合者を選んでいるのか、科学班によって様々な仮説が立てられているものの、明確な答えは出せていない。である以上、エクソシストが女性であることについて格別不思議なことは何もない。
 ただこれまで女性の適合者はわりと早い段階で発見されることが多く、リナリー・リーのように教団の囲い込みで養育され、一生をエクソシストとして終えることが多かった(つまりは殉職という形で)。
 クラウド元帥に至っては、並みの男など不要と言い切る豪傑であり、これまた男性並みの扱いで何も問題が起きたことがない。
 よって、こんな問題について教団側ではこれまで特に対応を考えたことがなかったのである。
 つまりミランダ・ロットーのような、ごく普通の人生を(例え並み以下の水準であったとしても)ごく普通に終えるつもりで生きてきた、世間一般の女性にとって最大の転機であり一生を左右するといっても過言ではない問題について。

「つまりその、問題は彼女があまり教団のしくみについてあまり理解していないところにあるわけです」
 と締めくくった彼女の担当カウンセラーの言葉に、コムイ・リーはそれはちょっと違うだろうなと内心で呟いた。
 世界に数少ないイノセンス適合者について教団では常に入念なメディカルチェックを行い、メンタル・フィジカルの両面で万全のケアを行っている。ために各人一人一人に精神面でのカウンセラーがつけられ、戦闘前・戦闘後でそれぞれ診断を行い、少しの異常も見逃さないよう、またどんな些事についても相談をもちかけられるよう常日頃から接触を欠かさないようにしていた。
 子供の頃から教団にいるリナリーや神田、ブックマンとしてオブザーバー的に参加しているラビについては半ば暗黙の了解で外されているものの、それ以外の面々は概ね本人には知らないところで好意的にではあるにせよ監視役に近い人間が常に傍らに存在していた。
 そういった役にあたる人間はエクソシスト当人に不快感を与えないよう細心の注意を払って接触しているのだが、そんな彼らの目から見てもミランダ・ロットーほど監視しやすい人間はいなかった。
 なにせ人を疑うことを全く知らないといってよい驚異的な善人体質である。ふとした弾みで街でばったりあっても「偶然ですね」の一言で済んでしまう。それが何度目だろうと「まあよく会いますね」とこちらを疑いもしないのだ。
 扱いやすいのは結構なことだが、本当にこれで大丈夫だろうかとちょっと不安に思いもする、それがミランダ・ロットーなる女性について教団員全員が抱く所感である。
 まあ能力から言えば後方支援向きなので一人で行動させるようなこともないのだし、なんとかなるでしょうとはコムイを始めとする科学班のトップ層が下した判断だった。
 だからまさかこんな形で問題が発生しようとは考えもしていなかったのだ。
 
 
 ミランダ・ロットーは先に述べた通り、人を疑うことを知らない人間である。他人の裏の思惑とか見えない悪意とかそういったものについて相当に疎い。従って他人から見ればかなりわざとらしい「偶然」についても「まあそんなこともあるだろう」ですませてしまうようなところがある。
 監視役からすれば大いに助かるこの性質が、あるときからちょっと困った事態を招いているらしいとわかったのは、やっぱりその監視役の報告からだった。

『ロンドン・サマセット通りにてミランダ・ロットーに不審な男からの接触あり。明らかに下層階級ないし、浮浪民の出自と思われる。道を尋ねられただけの模様。問題無しか』
『オランダ・アムステルダムにてミランダ・ロットー、ウェイターの不手際により不審な男と食事を同席。身なりからして下層階級者と思われる。食事後の接触は無し』
『ロンドン・キューガーデンに外出中のミランダ・ロットー、不審な男と合流。待ち合わせではなく偶然に出会ったものと思われる。顔見知りか。それほど親しくはない模様だがともに園内を2時間ほど散策』
『アイルランド・ダブリンにてミランダ・ロットーに不審な男から贈り物あり。顔見知りと思われるが、その後の接触はなし。贈られたのは公営カジノで使用するチップ数枚とミントキャンディー1袋。女性に対する贈り物としてはあまり気が利いたものとはいえないと思われる』

 こんな報告書が頻繁に届けられるようになったのはここ半年の間のことだった。
 当初はまあ偶然にしてもそういうことはあるだろう、リナリーなんかどこか行く度にナンパされてることだしと思っていた担当者も、さすがに同じような内容の書面が12通を越えた辺りで不審を感じたらしく、コムイの元にその報告書の束を持ち込んだというわけだった。そして眉を寄せつつ全ての報告書に目を通したコムイ・リーが開口一番のたまったのは「最後の文は余計じゃないかな」という一言だった。
「そういう問題ではないでしょう」
 まともに取り合ってください、と言外に言葉を滲ませて腹心のリーバーがため息をつく。
「まあ問題は問題だけど。なんだいこの不審な男不審な男って。それだけじゃ判断のしようがないよ。もうちょっと特徴とかないの。同じ男かどうかもわからないでしょこれじゃあ」
 なにせスキの多いタイプだしねぇ彼女、とコムイが不満を露に反論するのを、監視役として同席していたファインダーの一人が遮った。
「同じ男のようです。自分は2回見ています。同僚に確認したところ特徴も一致しましたのでおそらく他も同じじゃないかと」
「どんなタイプ?」
 そういって聞き出した特徴はといえば、『瓶底眼鏡をかけていて』 『黒髪で手入れの悪い巻き毛に無精髭を生やし』 『服装はぼろ同然で』 『常にくわえ煙草』の『それはもう見るからに怪しげでいかがわしい風体の、不審者以外の何者でもない』ような男らしかった。
 最初に相談を受けた時には、あまり真剣に捕えていなかったリーバーも、目撃者全員が口を揃えて不審だ不審だと言い切る男というのに興味を覚え、ためにコムイの元にまでこの問題を上げる気になったのだ。
「……なんでしょうかね。如何に彼女にスキがあるからってこうも同じ男から何度もっていうのは……」
 まして報告書はロンドンのみならず全世界にまたがって上がっている。
 もちろん彼女の住環境であるロンドンが一番多いのだが、それ以外にもオランダ、アイルランド、スペイン、遠くはチェコやトルコまで。同じ人間がこれほど幾つもの国をまたいで存在するのはちょっと異常だ。
「……季節労働者なのかな。だとしたら仕事のあるところをあちこち回るだろうからどこにいてもおかしくないけど」
「いやでもこれ見てくださいよ。チェコで会った後の次の報告書、ロンドンですよ。日付3日と経ってない。いくらその日雇いだからとしたってそんなすぐに移動しますか?」
 移動だけでも結構費用かかるでしょうに、とリーバーが続けると、コムイは少し沈黙したが、ややあってお手上げだね、と言わんばかりに手にしたペンを投げ出してこう言った。
「彼女に聞いてみたらいいんじゃない?」

 というわけで呼び出されたミランダ・ロットーだったが、報告書の内容を聞くなり顔を赤くしてうつむいてしまった。
 その様子ときたらひっきりなしに手を組み替えし、うろうろと視線をさまよわせ、必要以上に髪をなで付け、後れ毛をかきあげと実に落ち着きがない。
 一体この男は誰なのか、いや別に責めているわけじゃないんだよ、ただちょっと頻繁に会っているみたいで気になっただけだからとコムイが優しく諭すと、ようやく決心したように顔を上げ、一同を驚嘆させる告白を開始したのである。
 実はくだんの男から先日プロポーズされたのだ、という衝撃の事実を。
 彼女にしては一世一代の、けれど今イチ事態の深刻さが飲み込めていないらしきその告白に、コムイのみならずその場にいた全員がまずあっけにとられて沈黙した。
 ミランダひとりが頬を上気させ、慌てたように次々とこうなった経緯について話してくれたものだから、まあ聞きたいと思っていた内容はすべて把握できはしたのだが、それにしても最初の衝撃が強すぎてそのあたりはほとんど全員の耳を素通りし、結局誰の頭にも残らなかった。
 例えば最も把握しておくべき、相手の男の名前についても。
 まして、ミランダの締めくくりの言葉が、
「そういうわけなんですけども、あの、お受けしてもいいでしょうか」だったに及んでは。

「え、ちょっと待って。ということは結婚…する気なの。その男と」
「あ、はいそのう、できればなんですけど」
 できるわけがない、とその場にいた全員が思った。というかどうして誰も教えていないんだとまずそっちの方に気がいって、お互いが目を見交わした。
「だって……見るからに怪しいよ?」
 問題はそっちじゃないでしょう、とコムイの言葉にリーバーが内心で突っ込む。 
「ええ、まあ……生活は正直心許ない感じなんですけども」
 でも私の方の稼ぎもありますし。二人で合わせればなんとかなるんじゃないかと。とはにかむように言うミランダにはやっぱり事態の深刻さが飲み込めていないようで、ことここに及んで今さら教団員としての義務だとか規則だとかを説明しなくてはいけないのかと思うとリーバーは頭の痛い思いにかられた。
 エクソシストが結婚だなんて。できるわけがない。
 第一、規則の中でもちゃんとそう………、と額を抑えつつ教団規則を頭の中で反芻したリーバーがはっと頭を上げたのは次の瞬間だった。
「結婚……て、そういえば明文化されてましたっけ。教団規則の中に、団員の婚姻についての禁止規定は………」
 あ、と全員が目を見開き、ついで大慌てで傍にいたジョニーが分厚い教団規則を運んでくる。
 目をしばたかせて事態のなりゆきを不安そうに見守るミランダの前で頁がめくられ、得意の速読で全300頁に及ぶ規則集を読み終えたジョニーが、「……ありませんねぇ……」とつぶやく声が静まり返った室内に響いたのはおよそ5分後のことだった。
「ないの?」
 といささかの戸惑いも見せずコムイが問い返す。ミランダと同じくこの男にもやはり事態に対する深刻さが感じられないが、この男のこういう態度は半ば恣意的な韜晦から来るものであることを長いつきあいでリーバーは知っている。
「ないようです……」
 困惑を滲ませた声で言外に判断を仰ぐと、コムイがそれを受けてミランダに向き直った。
「ミランダさん。聞いた通り教団規則には教団員の婚姻に関する事項は規定されていません。……なのでこの件に関してはちょっと検討事項にさせてもらえませんか? 正式な規定がなされてから改めての相談ということで。なるべく早急に結論は出しますので」
 規定がないから規定を作るまで待て、というのはいささか強引な論理であるが、エラい人から難しい言葉で言われたことには逆らえないのがミランダである。
「あ、ええとはい。わかりました」の素直な一言で、一同とりあえず胸を撫で下ろす。
 彼女にはちょっと気の毒だが、これで規定を作って禁止事項にしてしまえば後はなんとかなるとそう安堵しかけた一同に、さらなる爆弾が落とされたのは次の瞬間だった。
「ただあのう……なるべくなら早めにお願いします。実は…」
 お腹に赤ちゃんがいるみたいで。
 瞬時訪れたすさまじい狂乱は後々までの語り草となった。
 分厚い教団規則集が、正確にジョニーの足元に落下し、すさまじい叫び声が響く中、リーバーが頭を抱えてひれ伏す。ファインダーたちの膝が揃って崩れ落ちた衝撃で室内の書類が派手に舞い散り、さしものコムイも言葉がない。
 そんな中、ミランダ一人が、やっぱり事態の深刻さを飲み込めない様子で目を白黒させていた。

 結局、妊娠については後で彼女の勘違いと判明し、なんとか最悪の事態は回避できたものの、ミランダと謎の不審男との逢瀬は未だに阻止できずにいる。どれだけ監視を強化してもいつの間にか現われ消えるその男について、ファインダーたちの間では半ば怪奇現象扱いであるが、それがあながち間違いではないと知っているのは当の本人一人である。
 大慌てで追記された教団規則によって結婚については先送りにされたが、ミランダ・ロットーの平凡にして非凡な交際は、かくして有耶無耶のうちになんとなくで今も続いている。