ティキ・ミックは最近とても残念に思っていることがある。
他でもない、EDOから箱舟を撤去してしまった件についてだ。
あの訪れる度何故か言いようのない郷愁にかられる古巣を破壊してしまったこと自体については、もう惜しんでもしょうがないと思っているし、14番目の呪いに冒された上に教団に盗られるくらいならいっそという伯爵の気持ちもよくわかる。だからその点について異議を申し立てるつもりはない。
2番目の箱舟を手に入れて、年甲斐もなく飛び跳ねながらおNEWデスヨー!!とはしゃぐ後ろ姿になんの文句がつけられよう。新しいものはいいものだ。第一きれいだし。
かつてのような懐かしい思いにかられることはないにせよ、それなりの愛着もまあ住んでいくうち芽生えるだろうとそう自分に言い聞かせ、だから、その点を深く考えるのはよすことにした。
だがたった一つ、あの無邪気にして残酷な伯爵にリクエストを聞いてもらえるならば、是が非でもお願いしたいことがある。
他でもない、「EDOという地から」箱舟を撤去してしまったことについて。
EDO。
それは今となっては遠い異国JAPANの首都だ。
世界史的に見れば、アメリカの要請(半ば脅迫的な)によってようやく開国し、その名が登場したばかり、長いこと鎖国と称して世界との接触を断っていた謎と興味の尽きない伝説の国である。オランダなどの一部の国だけがDEJIMAという場所への出入りを許されていたころ、そこからもたらされる民芸品や美術品は一部の貴族たちの間でなかなかに手に入らぬ珍品としてもてはやされていた。それが開国以来さらに高騰し、東洋趣味は英国貴族の間でも近年のトップモードである。
あら奥様きれいな扇子飾り、ええこの間手に入れましたのMAKIEといいますのよ。ご覧になってこの金細工の精緻なこと、なんて会話を小耳に挟む度、ティキはいいようのない苛立ちと郷愁に駆られるのだ。
何がMAKIEだ、何がUKIYOEだ。JAPONIZMなんぞくそくらえ!JAPANの真の伝統文化はそんなもんじゃねぇ!と声高に叫んでやりたくて。
だがお上品に振る舞うべきミック候の姿ではそれもならず、ましていっぱしの貴族階級に属するはずの身であんな異邦の果てまで自らの足で訪れたことがあるなど口にするわけにも行かず、ぐっとこらえて品のない罵倒を咽の奥に封じ込めるのである。
ああ懐かしき奥ゆかしき日本文化よ。あの謙虚さと忍耐深さは誠に見習うべきであろう。
それにしてもあの国は本当によかった。
何せあの国にはアレがあった。
いやアレがあるだけで、ライスに酢を混ぜた上に生魚を乗せて喰うなどという悪魔のような所業も我慢できた。
現在の箱舟でも戻ることは可能なのだろうが、伯爵が壊滅的にEDOを破壊し、全てのAKUMAを連れ去ったせいで、今やJAPAN全土がおおわらわだ。とてもじゃないがのんびりアレを楽しんでいる暇などあるまい。
嗚呼。
ため息をついてティキは夜空を見上げる。
思い出せばつい懐かしさに胸が迫る。せめても似たようにやってみようと、工場の裏手にあったドラム缶いっぱいに沸かした湯を溜め込んでハーブを放り込み、首までしっかりつかりながら。
「………何やってんのティキ」
「おっイーズ、お前もやってみるか。ONSENって言ってさ、JAPANじゃこれが普通なんだぜ」
「………いい。なんか臭いし」
「そりゃ香草のせいだろ」
「………ドラム缶に残ってるタールの匂いじゃないかな……」
控えめにけれど多分間違ってはいない事実を指摘するとティキはたいそうがっかりした顔になった。でも仕方がない。ティキの奇行は今に始まったことではないが、お湯を沸かすのは結構手間がかかるし、その湯をここまでバケツで運ぶのだってひと苦労なのだ。
「あの国なら地面掘っただけでお湯が出てくるんだけどなぁ」とティキはしきりと残念がっているが、そんな国いつ行ったのかという疑問はさておき外で裸のまま風呂に入るなんて正気の沙汰じゃない、というのがイーズを含めた周囲の感想だった。
そもそもティキがONSENにはまったのは、広々とした湯船に身を浸す、そのこと自体がよかったからではなかった。
いやこれはこれで気持ちがいいし、日本で入ったONSENは周囲に何もない山の中で、空も工場の排気に曇ってもおらず、空気もきれいで夜空には満天の星空、その点が決定的にこちらとは違う。
だがそういったことを差し引いたとしても、あのとき出逢ったワンダフルな想い出が色褪せることはないだろう。
あれはそう、満身創痍のエクソシストどもが無謀にもEDOの地で決戦をしかけてきたあの夜より、ちょっと前にさかのぼる。
そのときティキはSINSYUというところにいた。
伯爵に呼ばれてEDOにやってはきたものの特にすることもなく、一仕事終えた後だしちょっとゆっくり羽根を伸ばそうと、山間の静かな温泉宿で疲れを癒すことにしたのだ。
EDOにもSENTOUなるものがあって、何度か入りにいったことがあったのだが湯船の広さは気に入ったものの何せ湯が熱い。その点をロードに愚痴ってみたところ、天然の露天風呂ならば多少の熱さでも我慢できるのではないかとのこと。早速AKUMAたちに情報を集めさせ選んだのがOKUHIDAと呼ばれる日本でも有数の山岳地帯のど真ん中にあるその宿だった。
ティキがその宿を選んだ理由は主に、そのあたり一体にまだ本物の人間が残っている、という点にあった。今や日本全土はほとんどAKUMAの巣窟と化し、経済や産業、政治といった本来人間が行うべきこともAKUMAたちがおおっぴらに代行している。そんな中でわずかながらも人間の住む場所として残っていたのがSINSYUだった。
この国にいるとどうしてもノアとしての自分でいる時間が長くなる。少しでも人間としての自分で気が抜ける場所が欲しいと、そう思った結果だった。
そうして訪れたその宿は、宿場町からやや外れた一軒宿。周囲には何もないとあって客も少ない。
というか自分しかいなかった。
当然、目当ての露天風呂も独り占めである。
これはいい、と伯爵に呼びつけられるまではと長逗留を決め込んで、人間としての自分に戻って温泉三昧で過ごしていた3日目のことだった。そのへんぴな宿に、自分以外の客が来たのは。
他に客が来たらしい、という気配はなんとなく感じていた。
だがその客たちはついてすぐ部屋の中に閉じこもったきり、食事を取る気配もなくなんだかこそこそ隠れて故意に周囲に気付かれぬようにしているようだったので、ティキも穿鑿はせず放っておくことにした。仮にこちらに害意を抱くようなことがあったとしても返り討ちにする自信は反っくり返るほどあったので。
夕餉を終えるとすぐに温泉に入りにいく。
この宿にはいくつかの露天の風呂があるのだが、ティキのお気に入りは宿から階段をやや下ったところにある渓流沿いの温泉だ。天然の岩を利用した造りで、広さもなかなかのもの。湯も熱すぎずぬるすぎず、長く入っていてもそうゆだることもない。
「やー快適快適♪」
と誰が聞いていなくてもつい呟いてしまいたくなるのもこの開放感の為せる業だろう。
こんないい風呂があるのに閉じこもったきりなんてもったいないよな、と身も知らぬ同宿客に思いを馳せていると、暗がりの向こうから人が歩いてくる気配がした。
おや、やっぱり入りにきたのか、と彼はひとまず様子を見る。
ほっそりと痩せた人影だ。何せ灯と言えば周囲に焚かれたかがり火だけなのでそれ以上は分からない。
近づいてみるべきかどうか。だが先に入っている自分がそれをするのはあからさますぎるだろう。向こうにしたってどうも周囲と友好を深めたい雰囲気ではなさそうだし。
というような判断を一瞬ですませて、ティキは結局静観を決め込んだ。
人影は広い湯船の向こう側、温泉内にいくつかある天然の岩石に隠れるようにしてこちらに背を向けている。どうやらこちらには気付いていないらしい。
さてどうしようか。声をかけてみようか。
そう思ってしばし観察を続ける。向こうもようやく体がほぐれてきたのか、岩場の影で姿勢を崩した。かがり火の光が落ちた中に白い肩身の肌が浮かび上がる。ほっそりした、極端な撫肩のライン。
あ、と思った。
女だ。
そういえばこの温泉は混浴だったのだ。
どうせ客は自分しかいないしとすっかり忘れていたが、JAPANのONSENにはこんなうれし…あいや、ふしだらなオプションがあるのかとロードから聞いた時は驚いたものだった。
これまたすっかり忘れていたが自分がAKUMAのいない宿を選んだ理由もそこだったような。
(だってそんなサプライズに出くわすならAKUMAの女より人間の方が絶対にいい)
そこまで思い出した上でティキの頬が思いきり緩む。
それは誰が見ても、いかがわしい以外のなにものでもない、笑い方だった。
こんな山奥の、誰もいない場所で裸の男女が二人きりなのだ。これはもうちょっかい…いや声をかけないのは男として逆に失礼に当たるくらいじゃないだろうか。
そんな身勝手な理屈でひとまずこっそり、その岩場の反対側まで肩を沈めて近づく。
相手に気付かれぬよう一瞬で相手の容貌を確かめ、その造作がまずまずなのを見てますます不埒な思惑を強くした。
さてそうなれば次はどうタイミングを計るかだ。
常々思うが、こういった時の行動力はノアである自分よりも人間であるときの自分の方が遥かに勝っているような気がする。より貪欲に、より積極的に人生を楽しもうとする姿勢は何故か卑小で無力なはずの人間のティキの方が強いようだ。
ノアであるティキなら、こんなとき自分から声をかけたりはしない。どちらかといえば相手任せの成り行き任せで事を進めるだろう。
だから今、見知らぬ女に手を出そうとしている自分はおそらく人間としてのティキの意識の方だ。
羽目を外すならとことんまでやるのが一興だろう。
「コンバンハ、オジョーサン?」
にんまりと笑みを捌いた顔でティキはわざとに女の肩先に向かって声をかけた。
対する相手の反応は予想に違わぬ…いや予想以上のものだった。
「ひええぇえええっ!?」
女にあるまじき悲鳴を上げて、相手が飛び上がる。
ぐるん、と凄まじい早さで首がひねられこちらを認めるや一瞬固まった後、
「きょあああああああああっ!?」
とこれまた猿のような奇声を上げてとびすさった。
おお、おもしろい反応だ。
想像以上にいい遊び相手に出くわしたとティキはますます笑みを強くした。
「だっ、だっ、なっ、なんっ」
混乱の極みに達した様子の相手からおそらくはこちらを誰何するらしき声があがったので、ひとまず相手を宥めにかかる。
「や、オレはこないだからここに逗留してるんだけども。どうやら相客? あんた一人なの?」
「な、なななななんでなんでおとこのひとが………!?!」
「え、だってここ混浴だもの。聞いてない?」
「こ、こん、、よく、、、?」
「つまり男女いっしょってこと」
ティキの説明に相手は目を白黒させその後、
「ううううそでしょう、そんな、そんなばかなことが!」
と信じ難い、という叫びを返してきた。
そのときティキは初めてまともに相手の顔を見て、その容貌が明らかに東洋人種でないことに気付いた。そういえばさっきから会話も英語で介している。
「あ、あれ?あんた外国の人? 日本人でないよね?」
え、と相手もこちらが日本人でないことに気付き、驚いた顔をする。
「あ、あの、こちらの方じゃ、ない…んですか?」
「あ、ああうん……」
さてどう説明したものかな、とティキは一瞬言葉に詰まる。今の日本はまだ鎖国を解いたばかり、こんな山奥のど真ん中に異国人がいるのは明らかにおかしい事態なのだ。それは相手もだが、まずは自分の方の事情を説明できないことには不審感を与えるばかりだろう。
「オレはさ、西の方からここまで旅してきたんだけども」
「え、西?」
「うん、NAGASAKIって知ってる? オランダの交易船に乗ってね、水夫に雇われてきたんだけども、ある程度まとまった金もらったんでちょっとこの国回ってみようかなーって」
「……………」
相手の反応はまず半信半疑といったところだった。ありうる話なのかどうか判断基準が曖昧なのだろう。
「あんたは? 今のこの国で、外国人って珍しいよね。どうやって来たの?」
「わ、私たちは……SADOというところから船で……」
「SADO? あああそこね。ってことは清国経由?珍しいねー、あっちから渡ってくるのは」
「え、ええ、とそうなんですか? 私初めてこの国に来たので……」
「うん、たいていはね。YOKOHAMAとかNAGASAKI経由で来るのよ。SADO経由で来るっていうのは…まずないなぁ。第一SADOって開港してたっけ? あそこから来るって密貿易じゃないの。大丈夫?」
「え、そうなんですか!…知りませんでした…」
「危ないなぁ…。なんか騙されてんじゃない? 大丈夫?」
重ねて問うと、それは、多分大丈夫です、みんないい方たちですからとなんだか頼りのない返事だ。
だがどうやら主導権は握れた感じなのでひとまずそこは置くことにした。
「そう?それならいいんだけどね。でも初めてなら知らないの無理ないね。JAPANではさ、ONSENはみんな混浴なのよ。そんでもって一旦入ったら先に入ってる方が出るまで後から入った人は出たらダメなの。知ってる?」
「え、そうなんですか!?」
相手の反応にティキはますます気を良くする。こんな大嘘に容易くひっかかってくれるとはなんて人の良いことだろう。
「そうそう、そうなの。オレも入ったばっかりだからさ。ちょっと仲良く話でもしようよ。お姉さんどこの人?」
調子に乗って今や完全に岩場から姿を現したティキに、女はあわあわと隠れる場所を探す。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってくださいあの、近寄らないで見ないでくださいお願いですから……!」
細い腕で胸を覆い、身を縮こまらせて背中を向けるが、裸なのは隠しようもない。むしろ背中の肩甲骨の線や細い腰のくびれ、そしてその下に続く隆起がはっきりと見て取れる分だけこちらの想像力をかき立たせる結果になっている。
遠慮も呵責もなくその肢体を視線で撫で回しながら、ティキはもう一計を案じ口を開いた。
「大丈夫大丈夫。ほら、これ見てこれ」
とティキが指さすのは、人間としての自分のトレードマーク、瓶底ほどに分厚い幅広の眼鏡である。
おそるおそる、と振り返った彼女に、湯気で曇ったそのレンズを見せつけ、
「真っ白に曇っててさ。なーーーんも見えてないから。安心していいよー」
と真っ赤な嘘を吐いた。
どれだけ湯気が視界を塞ごうとも、自身の能力があれば全く問題ない。今も分厚いレンズ越しにはっきりとその白い肢体を捕えている。
けれど相手は少し警戒を解いたようで、
「ほ、ほんとですか?」
と聞き返す。嘘だと言うわけないだろうに、と相手の人の良さに半ば呆れながら、ティキはうんうんとうさん臭さ極まりない笑顔を向けた。
「ほんとほんと。だからさ。もうちょっと寄っていいよね? 何もしないからさ。見えてないんだから。や、ほんとだって」
「え、あのでもそれはちょっとあの」
「ほんと見えてないのよ。見えない相手と話すにはさ、もうちょっと声聞き取りやすいところまで行かないと」
見えていないくせにどうしてこんなに正確に近くまで詰め寄れるのかという点は混乱するばかりの相手にはわかっていないようだ。 それでも事態が危険な方向に向かいつつあることだけは察したらしく必死でこちらを止めにかかる。
「いえでもあの別に見えていなくてもやっぱりちょっと恥ずかし」
「大丈夫だって。JAPANじゃ普通のことなんだから。ほらローマに行ったらローマの流儀に従えっていうじゃん。」
「あ、あああの近すぎますあの、そこ、そのあたりでできれば止まって……!」
「えー? ナニ?聞こえないなぁ。なんて? あ、どのへんにいるの今?」
「きゃあ!あたって、あたってます、手が、手が!」
「んー?これ?これってなに?あ、このあたり?」
「だから、だから、近すぎって……! や、止めてくださいちょっと!」
「あれどこいくの?ねぇちょっと待ってってば、ねぇ」
声にこもった愉快そうな響きを隠そうともせず、彼は大慌てで逃げようとする相手を裸のまま追いかける。
混乱の極みにあるらしき女が盛大に湯船で転んだのを幸い、背後から抱きすくめ押し倒した時にはもう次の成り行きは決まったも同然だった。
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嗚呼懐かしきJAPAN、素晴らしきONSENよ。あんないい想い出の残る場所は他にない。
思い起こせばお空に向かって溜息のひとつもでようというものである。
その後決戦時に当の相手と再会し、どうやら敵側の人間だと判明したものの、何せ出逢いが出逢いだったものだから、ティキにとってはそれはそれな感じの相手になってしまった。
何度かの手合わせの場で再会すること数度、彼女を見る度にティキが考えるのは、「どうにかEDOでもっかいアレできないかなぁ」という殺し合いもへったくれもそっちのけの、不埒な思惑ばかりである。
だが、彼女にとっては最も幸いなことに、箱舟2号がEDOにつながる予定は、今のところ、ない。