長いこと空き家だったお隣さんに、どうやら人が入ったらしいと気づいたのは、彼がいつもの日課として水門の様子を見に行こうとした朝のことだった。

蔦とかつてはつる薔薇だった奇怪な植物に覆われた鉄錆だらけの門が開け放たれ、その奥から壊れ掛けの長椅子を庭先でえっちらおっちら移動させている若い男の姿が目に入ったのだ。
ヘゼカイア爺さんは一瞬目をぱちくりさせ、しばらくその様子を見守った。
だが男がこちらに気づく気配がないので、まずは一旦立ち去ることとした。こんな田舎では何よりいつもの日課が優先される。好奇心を満たすのはその後だ。
そうしていつものごとく、教会の鐘楼が朝いちばんの鐘を鳴らすまで用水路の流れを確かめた後、同じ道を戻ってきたとき、男は先ほど格闘していた長椅子を征服したと見え、その上にのんびりゆったり腰掛けてパイプを吹かしていた。

今度はこちらに気づいたらしく、「よう」と人懐っこい――というより幾分馴れ馴れしい挨拶を寄越した。
明らかに外国人らしい顔立ち、こんな田舎にはふさわしくないような美男子である。
今度こそ好奇心を抑えられず、ヘゼカイア爺さんは通風で痛む足を門の方に向けた。
「新しく越してきたんかね」
との問いかけに、そうそう、とやはり気安げに答えた男は聞かれもしないのにぺらぺらと自分のことをしゃべりだした。
「兄貴に言われてさ。こっちにも家が必要だっていうんだよ。この家安く売り出されてて、だから買ったわけ」
「ああ、前の持ち主がなんやら妙な絵ばっかり描く画家でな、いろいろ手ぇ加えとったから。こんな妙ちくりんな家、うんと安うせんと誰も買わんだろてパグラムさんが言いなさっとったよ」
「ああそうだね。確かに妙な感じだよな。でもいいさ、雨風しのげるんならなんでもさ」
「呑気だぁね、お前さん」
妙な、という表現はこの家を表すにいささかおとなしい部類に入る。白とオレンジの煉瓦を交互に、やや不規則に組み合わせた壁はまるでベーコンの縞のようだし、黒い破風がごたごた飛び出し、二つの組み合わせ煙突を備えた屋根は遠目にもバランスが悪い。かつてはチューダー様式の立派なものだったらしい張り出し窓の装飾は青や黄色のけばけばしい石がはめ込まれ、かと思えばポーチの脇の柱はコロニアル様式といった具合。あらゆるものを思いつきで配したとしか思えないその家は、近隣では童謡になぞらえ「ねじれた家」で通っている。
「まあね、どうせ仮の棲処――だと思えば気にもならんよ。ところであんたはお隣さん?」
「ああうん、その先に住んどるよ」
お隣、といっても5分は歩いた距離にある。自己紹介を含めた挨拶に、よろしくな、と気のいい声。
通過儀礼的な田舎の社交が終わりかける頃には、爺さんはこの人懐っこい異邦人をとりあえずの隣人として受け入れる心持ちになっていた。
「そういやあんた名前はなんといいなさんだ」
「俺?俺はねぇ……ティキ・ミックって言うんだ。」
その名がでた途端、老人は軽く目を見張った。
「お前さん、からかっとるのかね。そりゃあ、新しいご領主様のお名前でねぇか」
「うん、そうそう、それそれ。俺がそうよ。そのご領主様」
調子良くも自分の方を指さしながら笑っている男に、ヘゼカイアは鼻白んだような眼差しを向ける。
冗談でなければこちらをからかっているのだろうと。
「へええ、ご領主様がこんなボロ家にかね」
「だからどうせ仮の棲処なんだって。だったら金かけるだけ損じゃねぇか。こんな田舎すぐに飽きちまうだろうし」
まあシェリルあたりにうるさく言われずにのんびりできんのはいいかな、と付け加え、男は長椅子に座ったまま、うん、と手足を伸ばす。
「へえそうかい。そいつあお気楽なご身分だ。確かに貴族の旦那方らしい言い草だな」
住み慣れた故郷を馬鹿にされたようで、今やすっかり気分を害したヘゼカイア老はそれ以上相手にせず、そそくさと家路についた。

彼の機嫌などどこ吹く風か、男はその後も会えば気楽な挨拶を寄越し、気が向けば水門の様子を見にいく彼についてきたり、彼の仕事――ヘゼカイアはこの近隣で唯一の煙突掃除人だ――を手伝ったりした。
侯爵様のなさることかね、と嫌みよりも呆れの方が勝った彼の言葉にも「だって領地人のこと見てやれっていうんだよ、シェリルがさ」と大真面目に答える始末。
シェリルというのは、おそらく、以前この領地を治めていたサー・キャメロットのことであろうと思われる。もっともキャメロット家はここ以外にも多くの所領を抱えている大貴族だから、彼も直接会ったことはない。来るのは徴税請負人ばかりだ。
その徴税請負人にしてからが、彼に始めて会ったとき不審者と間違えたくらいだから、この自称ティキ・ミック卿についてヘゼカイアを含めて村の誰も信じていない。あからさまに邪険にすることはないにせよなんとなくうさん臭い目で見られていることを本人も気づいているらしく、ことさらに呑気に務めているのが余計に浮いているという感じ。その様子は確かに田舎の小作人の群れに紛れこんだ貴族の坊ちゃんのようで、ヘゼカイアは一種の痛ましさを感じていた。
とはいえ、つきあっていると本気でこれが性根らしいと思わされることが多いのだが。

その日も彼は水門を前にして、水路の水かさを確かめているヘゼカイアにずっと付き添っていた。
雨上がりとあって流れも速い。
また空も午後には崩れてきそうな曇天で、少し放流させておいたほうがいいかと首をひねっていた老人に、ふいに男が口を開いた。
「なあ爺さん、爺さんはずっとここに住んでるのかい」
「ああ、そうさな。生まれも育ちもここだな」
男の質問に対し、彼は半ば上の空で答えていた。それよりも気になるのはこの水流だ。
「どっか余所に行きたいと思ったことないのかい」
「ねぇな」
簡素な答えに、意外そうな声が返ってくる。
「なんで?」
そこでようやくヘゼカイアは腰を上げて彼を見た。
「余所ってどこへいきゃあいいんだね。どこへ行ってもやることは変わらんだろうに」
「変わらないかね」
「変わらんだろうよ。相変わらず朝起きてひと散歩して飯食って、人様の煙突見て煤払って夜になったらまた飯を食って酒を飲んで寝る、そんだけだろうよ。まあ煙突掃除が違う仕事に変わることはあるかもしんねぇけどもな。人間のやるこたどこだっておんなじだ。太陽がのぼって沈むまであくせくして生きるだけだな」
「その太陽が昇らなくなったらどうだい」
また突拍子もないことを。
呆れながら彼は男の顔を正面から見た。
「そんなこたあるわけねぇさ」
「そうかね」
その言葉に妙な調子を感じ取って、ヘゼカイアは首を傾げた。
「どうしたんかね、お前さん」
「いやもしもの話だけどさ。もしも――明日の陽が昇らなかったら、爺さんはどうするのかね。いつものようにこうして川を見に来て煙突掃除するのかね」
いやに執拗な響きがする。薄気味悪く感じながらも彼は断じた。
「ああ、そうさな。結局――変わらんだろうさ。お天道さんが昇らなかったとしたって――それでこっちに何ができるっていうんだね。そんなこたぁ神様がどうにかなさるこった」
「そう、その神様さ」
瞬時、彼の目が異様な光を帯びた。思わずこちらを怖気させるほどの。
「その神様のなさることってやつを、恨みに思ったことはないかい爺さん」
その一言には並々ならぬ真剣さが籠っていた。普段軽口ばかり叩いている男とは別人のように、まるで当の神様を前にしているかのように――こちらを睨め付けてくる。
「こっちはなんの罪科犯した覚えもねぇのによ、勝手に横から大事なもんをかっさらって、そのくせ自分は絶対正しいって顔でえらそうに上から見下ろしてやがる。そういうの恨みに思ったこと、ないかい爺さん」
見れば彼の顔は笑っている。だがその顔はどこか精神の箍が外れたものを感じさせた。ありていにいえば狂人のそれだった。
歪んだ笑顔に晒されて、ヘゼカイアがまず考えたのは、失った家族のことだった。ある日突然倒れてろくな治療も受けられないまま死んだ妻のこと。船乗りになって村を出て行き、その航海の上で消息を絶った息子のこと。結婚に反対したために駆け落ちしたまま一度も連絡を寄越さない娘のこと。そうして一人取り残され、この村で老いていく自分のことを。
濁った川面に揺すられる葦草のように、頼りなく流されるままけれどどこにも行けずにここに縛られている、そんな田舎の老爺の人生を。
「そんでも」
水面から目を離さず、彼は顔を上げた。
「そりゃあやっぱり神様のせいではねぇよ。神様はいつもお天道様より上にいて、こっちを見守ってなさる。ただ見てなさるだけだ。失ったもんも手に入れ損なったもんも、たんとあるけどよ。そりゃあ神様とはなんの関係もねぇだろうさ。わしがどうにかするしかねぇこった。わしの人生を神様に代わりにやってもらうわけにゃいかねぇんだからよ」
だから神様は関係ねぇ、ともう一度繰り返した彼に、男は何も答えなかった。
しばらく黙ったまま、二人して水の流れを追う。
「ああそうかい。そんだけのことかい」
何に納得したのかぽつりとつぶやいた男が微かに笑ってみせ、この話は打ち切りとなった。
それにしても、なにやら相手の目がずっと金色に光っていたような気がしたのは気のせいだったろうか。
首を傾げつつも、ヘゼカイア老はそのことはそれきり忘れた。なにせ田舎の暮らしにはすることが山ほどあるのだから。

それからしばらく男は姿を見せなかった。
『通知あるまでパン・牛乳配達不要』の札が門の横木にかけられ、半年も過ぎた頃、今度はいきなり領主が変わったとの知らせが入った。
なにやら大元のキャメロット家からしてお取り潰しされたとか破産しただとかそんな噂も流れてき、田舎のこととて詳しいことは何も分からず、ようやく新しい領主が決まったとだけ町長の元に通達が届いた次第。もとよりただの一度も姿を見せたことのない新興貴族ティキ・ミック卿について詳しい正体を知る者は一人もおらず、誰もが首を傾げながらも上流の方々のなさることにこちらが楯突く義理も無しと結局そのまま新しい領主を受け入れる運びとなった。

そしてそれからほどなくして、ひょっこり彼は帰ってきた。
いつものように水門に向かう彼に、繁え放題の生け垣越しに「よう」と手を振ってくる。
その様子はやってきたときといささかも変わらず人を食ったような笑顔のまま、けれど格好はどこか以前よりも砕けて落ちぶれた感じがした。そしてあの奇妙な家の奥からはどたんばたんと大掃除でもしているのか派手な物音が聞こえてくる。
「……誰かいるのかね」
「ああ、俺の嫁さんと息子」
あっさり言い切った彼を思わずまじまじと見返す。
何か言いかけてまごついているうち、奥から背の高い、彼とよく似た黒髪の巻き毛の婦人と、彼とはまったく似ても似つかぬ銀の髪をした男の子がでてきた。どちらの子供にしてもいささか歳を取りすぎている。なにやら事情があるらしき彼の家族について聞きたいことは山ほどあったが、結局ヘゼカイアは何も聞かぬこととした。
「それで留守しとったのかい」
「うん、まあね。いろいろあってさ……あのさ、俺ここに落ち着くことにしたのよ。そんで何か仕事ないかなぁ。このとおり学はねぇんだけども体力だけは自信あるからさ」
にこにこした笑顔と調子の良い物言いにはこちらを当てにしきっている思惑が感ぜられる。
ため息をついてヘゼカイアは、「まあ考えといてやる」とだけ口にし、こちらに丁寧に頭を下げる奥さんにはうなずくだけの挨拶を返すと、水門に続く蛇行した道をいつもと変わりない足取りで辿りはじめた。