父の正体についておぼろげにではあるが少年は理解を示しつつある。
彼が物心ついたとき、父はもういなかった。
並外れてお人よしで、まだ幼い彼の目から見てもあまり頭のよろしくない母親は、父のことについて多くを語りたがらない。
「お父さんはあまりお金持ちではなかったけれど、でもいい人だったのよ」
と過去形で語る表情はとても悲しそうで、しかも母の古い友人たちから聞かされた言葉と総合的に比較してみるに、その言葉の半分くらいは嘘か、さもなければかなりの目の曇りが混ざっているものと思われた。
おそらくは「とてもいい人だった」という当たりに特に。
母の古い友人たち——赤毛の飄々とした青年や、黒髪の美人といっしょに尋ねてくる、顔に傷のある白髪の青年、体つきの大きな盲目の音楽家ともじゃもじゃ髪のやさしそうな画家、大酒飲みで赤毛で長髪の、声と体の大きな男の人——は昔、職場でいっしょだった人たちだとかで、生活の苦しい母と彼の暮らしを心配し、さいさい訪ねてきてくれる。
母は何度も職場を転々とするせいで収入も心元ない人だが、彼らが何かと気を配ってくれるおかげでなんとか人並みに暮らしていけている。近所に住むどこか危なそうな連中も、彼らが目を光らせてくれているおかげで遠巻きにして近寄ってこない。一度妙な風に母に付きまといかけた男がいたが、そのときちょうど赤毛の大柄な人がきてくれたおかげで二度と近寄ってこなくなった。耳を引っ張られて連れて行かれたその男がその後どんな目に合わされたのか、ご近所では決して口にしてはならない禁句となっている。
乱暴で風来坊で金遣いも荒く、白髪の青年などは「悪魔のような男だ」と忌み嫌っているらしいが、その赤毛の人はもっかのところ彼の理想の父に一番近い人である。
そう言ったらその人とは違う赤毛の眼帯の人は「そういえば似てるさ………」と絶句していた。
それでますます彼は確信した。
やっぱり父は「いい人」なんかではなかったらしいと。
だがいい人であろうとなかろうと父は父である。
親は選べないものだ。幼いわりに彼は達観している。
どうもこのあたりの諦めのよさは父に由来するものであるらしい。
自分は父に似ている。
外見だけは母親似だと思っていたが、周囲の話を総合するとどうもそうではないらしい。
父も母と同じ黒髪の巻毛であったそうで、その上顔かたちや口の利き方なんかも足していくと、まさにもう父の生まれ変わりじゃないかと思うくらいだと、口を揃えて評されるのだ。
なるほど言われてみれば、母の地味目でぼやっとした顔に比べ、彼の顔ははっきりと派手めでキツめの南欧人らしい風貌だ。うぬぼれるわけではないが、周囲の女性たちの受けはいい。
(母の友人の女性たちは別だ。むしろこの顔は毛嫌いされているようだ。きっと父の母に対する行いが悪かったからに違いない)
いろいろと周囲と母から聞かされる情報を幼いなりの頭で分析し、彼はおぼろげにではあるが解しつつある。
既に死んだと聞かされている、父の正体について。
まず父は貧乏人だった。少なくとも周囲からはそう思われていた。
母に何も残さなかったところを見て、収入面ではかなりお粗末な人間であったことは間違いない。
また、あったとしてもろくに家族を養う気がなかったのだろうことも。
「あのろくでなし」と母の友人の一人が苦々しげに吐き捨てるのを耳にしたのは一度や二度ではない。
彼に気を遣って言葉を選んでくれる人間もいるが、だからといってそうでない人間から聞かされたことがなかったことになるわけでもない。
母がどう弁解しようと父は言い訳のしようのない「ろくでなし」だったのだ。
一度母に「何の仕事をしていたのか」と聞いたとき、母はうっと言葉につまり「何の……ええとあれは何の職業になるのかしら……貴族らしい格好をしていたみたいだったけど……ほんとに貴族だったのか分からないし……浮浪者みたいな格好をしていることもあったし……」とぶつぶつつぶやいた挙句、「ええと紳士らしい仕事よ。多分。よく知らないけれど」と実にあやふやな答えが返ってきた。
だが、その母の言葉は一概に嘘とは言えない。
何故なら、父がどんな身なりをしていたか忍ばせる形見があるからだ。
彼は古い箪笥の奥からそれを見つけている。
金ぴかの、精緻な細工もののシガレットケースだ。煙草が好きだったという父のものに違いない。
開けてみた中には吸い残しと思われる上等の葉巻が数本入っていた。
母はそれがそんなところにあったとは気づいていないようで、彼もなんとなく母に言うのは躊躇われて、こっそり自分の秘密の隠し箱に入れてある。
一度、赤毛の人(彼の好きな乱暴な方の人だ)が来たときにそれを見せたことがある。
そのとき、彼はまだ、もしかしたらこの人がほんとの父親だったらと思っていたのだ。この人も煙草が好きで、いつも吸っている葉巻がケースに残っていたものと同じ銘柄だったから。
だがそれを見たときの相手の反応はどうということもなく、「いい細工もんじゃねぇか。こいつぁ本物のまじりっけなしの金だぜ。金に換えたら結構いくぞ」と今すぐ質屋に向かいかねない様子だったので彼は慌ててそれを取り返したものだった。
ともあれ、父は金がまったくなかったわけではなかったのだ。
浮浪者みたいな格好をしていたこともあって実際、母といっしょにしばらくここに住んでいたらしいが、ともかく金があったことはあったのだ。
シガレットケースなどという小物に大金をはたける程度には。
だが母にそれが残された形跡は全く無い。
周囲もそんな金が当てにできる見込みは全くないと知っているらしい。
とすれば父の金はいったいどこにあるのだろう。
もうひとつの謎は、死んだと言い聞かせるわりに母はいっかな父の墓に連れて行ってくれたことがないことだ。
普通なら近所の教会とか生家近くの教会とかに墓があるはずで、そう訪れることはないにせよ命日くらいには掃除に行って神父様にお祈りを捧げてもらったりくらいはする。
母は信心深い人で、日曜のミサには必ず行くし、そこで神父様に頼んで昔の同僚で亡くなった人のために追悼のお祈りを捧げてもらうようなことはよくしている。なのに父に関しては全くちっともそうしようとしないのだ。父の方はどうあれ母が父を大事にしていたことは疑いないし、時折持ち込まれる再婚話にちっとも耳を貸さないのもまだ父を忘れていないからだろうと彼は思っている。
なのにその死を偲ぶよすがとなるようなことを、母はひとつもしようとしない。
形見らしいものを見せてもらったことも皆無だ。箪笥の奥で見つけた例のシガレットケース以外には。
ということは母に残されていったものは自分だけということになる。
もちろん母は自分のことを大事にしてくれる。それだけでも母が父を愛していた証になるだろう。好きでもない男の子供をこうまで大切に育てたりするとは思えない。
片親の身でなにかと生活も苦しく世間の風当たりも強かろうに、母は再婚もしなければ彼を救貧院に入れて遠くに行くようなこともしない。何度職場を首になってもずっと同じ街に住み続け、父と暮らしていたという古い家(一応貸家ではないので、これも父の形見といえばいえる)をじっと守り続けている。まるで、誰かの帰りを待っているかのように。
そういうわけで、彼は疑いを、あるいは微かな希望を捨てきれずにいるのだ。もしかしたら父はどこかで生きていて、何か事情があって帰って来られないだけなのではないかと。
彼は賢い子供である。誰に似たのか(おそらく父に似たのだろうが)、近所の子供より、ひょっとしたら母親よりもはるかに大人びて、そしてひねくれた考えの持ち主だ。
以上語ったような様々の事柄から鑑みて父の事情とやらを概ね推察し、その正体に確信を持っている。
「ミランダさん。暮らしぶりは最近どうですか。何か困ったことありませんか」
「ありがとうアレンくん。大丈夫よ。今のところ仕事も続いているし」
「それならいいんだけど…なにか困ったことがあったらなんでもいってね、ミランダ」
「ありがとうリナリーちゃん。ほんとに大丈夫よ。あの子もだいぶ大きくなって手がかからなくなったし。最近では学校で本とか借りて読んだりしているのよ。私の子なのに賢くてねぇ…」
私に似たんでなくてほんとによかったわ、とミランダはおっとり喜んでいるが、じゃあ誰に似たんだと思うにつけアレンはついつい苦い気分になる。他でもないあの男に似たとしかいいようがない彼女の息子について。だがもちろん子供には何の罪もないのだ。
そしてあの男にも悪いところがあったわけではない。そりゃあ彼の仲間を大勢手にかけてくれたことは間違いないが、それもこれも彼がノアに生まれついてしまったからで、そこのところはあの男にも避けようのない運命だったのだから。
しかし彼と彼女の間に子供が生まれてしまうなど誰が考えようか。ミランダの子供の父親が誰かということについて知っている者は彼の仲間だけだ。中央庁に知れたら大目玉どころですむはずがなく、そこのところは皆でひた隠しに隠している。おそらく彼の師あたりが巧妙に情報操作しているだろうからアレンはそこがバレる気遣いはしていない。なにせ14番目の件に関しての実績がある。
ノアはとりあえずこの世を去った。彼の中のノアももういない。かの男——ミランダに息子を産ませたノアの男——も最後の戦いの中、生死をはっきり確認されたわけではないが、多分死んだと思われるような状況で別れている。
その後でミランダの妊娠が発覚し、一同驚嘆と相成ったわけだ。
彼女はその後生まれた子供ともども昔ティキと(正体を知らずに)付き合っていた頃に買っておいたという家に落ち着き、当の息子は何の問題もなくすくすくと、とりあえずも人間として成長している。
ふと傍らに視線をやると、まだ学校から帰ってきていない少年が図書館で借りてきたという本が床の上に散らばっている。
いかにも子供らしい冒険小説の類いだ。
『大どろぼうホッツェンプロッツの秘密』、『怪盗紳士ルパン 消えた宝冠の謎』、『魔人ホーガンと湖に眠る宝物』………。
「ずいぶん読む本に偏りがあるんですね……」
わずかに眉根を寄せるアレンに、ミランダは笑ってみせる。
「まあアレンくん。あの子くらいの歳の子はこんなものよ。この間なんかもねぇ、大きくなったらルパンみたいな怪盗になってお金持ちになるんだとか言って。私のこときれいな服着て贅沢できるよなんて言ってるの」
あの人もよくそんなこと言ってたわ、戦いが終わったら世界旅行に連れてってやるとか大きなこと言ってて……、と能天気に過去の思い出に浸るミランダに、アレンはとりあえず「親孝行なことですね」と返したが、確かにあの父にしてこの息子かもなぁと、一抹の不安にかられもする。
何かよくないこと考えてなきゃいいがと帰る道すがらため息をついて相談したら、可愛い恋人は心配性ねアレン、と笑うだけだった。
一方その頃、家路に帰り着く前に少年は誰も知らないいつもの日課をこなしていた。
すっと息を吸って、慎重にそうっと手を伸ばす。目の前には大きくて固い岩がある。
まず表面に手を当ててゆっくりと頭の中でそれができるとイメージする。
すると彼の手の平に触れていたごつごつした感触が消える。そのまま腕を伸ばす。
手のひらが吸い込まれるように岩の中へ消えていく。
よしよし、と思って気を抜いてはダメだ。何か集中を欠くと腕が岩の中に閉じ込められてしまうのだから。
うまいことこの緊張感を持続させないといけない。人から話しかけられたり何かに気を取られたらこの力はうまく働かなくなってしまう。
今日はなかなかうまくいっている。腕はそのまま岩を通り抜け、向こう側にある草を掴んだ。これをこのままこちら側へ引き抜ければいいのだが、それはまだうまくできない。
( 早くできるようにならないかな )
大きくなればきっともっとすごいことができるようになると彼は信じて疑わない。
自分にこんな力があると気づいたのは学校に上がる前のことだ。
すごい、と単純に彼は驚き喜んだ。だが、このことは誰にも知られてはいけないとも思った。きっと母は悲しがるし、いつも遊びにきている母の友人たちがいい顔をしない。
彼は賢い子供だ。頻繁に訪れる人たちの中に、明らかにこちらを見張っているとの疑念を抱かせる人間が混ざっていることに気づいている。彼の母にたいしては好意的であるいせよそれはそれ、彼の正体を知ればきっと何かしらの行動を起こすだろうことも。
この力が父ゆずりのものであると彼は疑っていない。
父はこの力で、きっと何か悪い仕事をしていたのだ。だからここへも帰って来れないのだろう。帰ってきたら捕まってしまうのだろうから。いやもしかしたらもうどこかの刑務所に捕まっていて、だから出てこられないのかもしれない。
いずれにせよこの力をもっと磨くのだ。今はその修行が第一だ。
父がいない今、自分がしっかりして、いずれ父の後をついで立派な怪盗になるのだ。
そうすれば母にも贅沢な暮らしをさせてあげられるだろう。
いつか捕まっている父を助けてあげられもするだろう。
そしたらきっと母は喜んでくれるに違いない。
大望を抱いて彼は決意を新たにする。その姿はどちらかといえば母譲りの、方向性のずれた思い込みに満ちたものではあった。
ともあれ、この世にただ一人残ったノアの後継は、かようにして将来世界を手玉に取る気満々で今日も修行にいそしんでいる。