己が非凡な人間であるなどと彼は考えたこともなかった。
そりゃあ人よりちょっとやっかいなものを抱え込んでいるかもしれないけれど、ちょっとややこしい人生を歩んでいるかもしれないけれど、それを差し引いてしまえば後に残る自分なんてそれはもうちっぽけで平凡で吹けば飛んでしまうような存在でしかないと。
卑小で貧弱でありきたりで——それで何が悪い、というのが彼の人生観でさえあったのだ。

彼が身のうちに抱え込んでいるものは、確かに余人が持ち得ぬものである。何がどうやってなんの弾みがつけばそんなものを手に入れることができるのか、神様か悪魔ででもなければ知り得ぬものである。
だが、だからどうだというのだ。それが手に入ったからといって何か他人より得をするようなことがあるだろうか。否。断じて否だ。むしろそのせいで彼の単純にして平凡な人生はかなりこんがらがってしまった。こんがらがるだけならいいが、ややこしくなった。ややこしいことは何より嫌いだというのに妙な使命感を押し付けられる羽目になった。
全てを否定する気はない——それは確かだ。他人にはない能力、草の根のように生きていた自分には到底知り得ぬ世界、そういったものを味わう楽しみは増えた。
楽しいことは好きだ。誰だってそうだろう。まして働かず食べていけるだけの金を他人が用意してくれて、好きにおやりなさいと言ってくれるとあっては。
だがその一方で、それにもまたすぐに飽きるだろうことを彼は既に予感している。
ぐうたらするのが好きな一方で、退屈も嫌いという我が儘な己の性質を彼は生まれた時から自覚していた。つまり彼が抱え込んでいるもののせいではなく、多分に彼が生まれ出た時からのものだということを。
なぜならば彼の国の人間はほとんどがそうだからだ。昼の暑い最中は木陰に入って安息を取り、夜は夜で酒場でどんちゃん騒ぎ。24時間の間で働いている時間よりぐうたらしている時間の方が長いお国柄である。金さえあれば誰が働くものかと誰もが思っている。その金だって贅沢するほど欲しいわけではない。明日のパンと夕べの酒が買えればそれで十分なのだ。
とはいえ金持ちになりたくないわけではないから、そうなったとき彼は単純に喜んだ。だがそれに伴うあれやこれやがとんでもなくめんどくさかったのでその楽しみもすぐに半減した。金だけあればいいのになんで余計なものまでくっついてくるんだと、彼はそうそうにそこから逃げ出す算段を案じ、有能な使用人を雇って面倒を押し付けるや、さっさと元のその日暮らしに舞い戻った。
たまに呼び出されて義務を果たせと尻を叩かれることはあるが、まあたまにのことなのでよしとする。そう心持ちを落ち着けて、ようやっと己の平凡で気ままな暮らしを取り戻し、満足していた。
——これまでのところは。

己にお楽しみと面倒毎を同時に押し付けた神様について、彼はさほど真剣に信じてはいない。世間一般で信じられている神様とやらについてはペテン師同様の侮蔑を抱くにせよ、それは平凡な彼の人生を取り巻く有象無象と変わりないだろうと思っている。彼程度の罰当りならそのへんにごろごろしている。違うのはそれこそ「神様」なるものが「本当はいる」ことを知っている、知った上で唾吐く真似ができる、その点のみである。
だからといって彼自身が知る「真実の神」に信仰の全てを預けているのかというと——実はそんなでもなかったりするのが正直なところだった。

そういう人間になるには今いち真剣味というか精神性というかそういうものが彼には欠けていた。つまり俗物だった。
どれだけ姿形を装っても中身は粗野で俗悪な育ちの悪い孤児のままだった。
こんな人間に神の使命がどうとか言ったって無駄である。崇高の高みから鳴る運命の鐘の響きよりも献金箱の中身がちゃりんと立てる音の方がずっと心に響く人間なのだ。こういった人間を動かすにはまず何よりちゃんと即物的な見返りがいる。
故に千年公は彼にラクして金が手に入る地位を与えたわけだが、与えられれば図に乗るのもこの手の人間の悪癖である。
なだめすかしおだて脅しして彼に使命を果たさせるその苦労ときたら、いったいなんだってこんな人間を選んだのか、真実の神とやらも厄介具合では教団側の神とそう変わらないとつい溜息の一つもでようというものだった。
だが、そんな千年公の苦労はほどなくして終わりを告げた。
あのティキ・ミックが、あのめんどくさいことが嫌いで、ノアの自覚も薄くてニンゲンに未練たらたらで、隙あらば行方をくらまして仕事から逃げようとするあの快楽確信犯のティキ・ミックが、ある日彼のもとに自発的にやってきてこう言ったのだ。

「千年公。エクソシストなんてあと数人なんでしょう。だったらとっとと狩っちまいましょうよ。エクソシストさえいなかったら教団なんざあっという間だ。14番目だって見たとこ完全に覚醒してるわけじゃなさそうだし、とっとと狩りあげてカタつけちまいましょうぜ」
言い方はどこのマフィアの三下かという具合だが、彼は本気だった。
それはもうやる気満々の姿勢で早く早くとせっつきはじめたのだ。
そうなると俄然、成果もあがりはじめる。まず元帥クラスを一人、その部下たちをまとめて数人葬り去った上で、残りについてもEDOにおびき寄せて廃棄予定の箱舟に閉じ込めた上で時の彼方に送り込んでしまえと、乱暴な罠まではり始める。
千年公としてはさほど事を急いで進める気はなかったのに、彼が勝手に派手に動き始めたものだから、ついに表舞台に宣戦布告せざるを得なくなってしまった。
『3000年の雌伏の時を……』などとエラそうな予告文をでっち上げたものだが実のところホントに3000年経ってるかどうか千年公自身も確信がなかったりする。
つっこまれたらどうしよう、と冷や汗かきつつ手配を進める傍から、ティキ・ミックは勝手にアレン・ウォーカーまで葬り去ってしまった。
主役なのにいいんだろうかと妙な心配をする千年公を余所に、暴走列車もかくやの勢いで仕事をこなす彼の熱意は、実のところまことに即物的な理由に根ざしていた。

エクソシストは残すところ後、数人となった。
箱舟に閉じ込めた奴らを差し引けば把握しているだけで後6人。うち2人はここで片付けるとして、問題なのはクロス・マリアンと元帥2人、マリアンは特に手強いのでできればロードかルルに任せよう。
箱舟の一部屋でロードとともに、しとめ損ねたアレン・ウォーカー以下がやってくるのを待ちながら、ティキ・ミックは既にその後の算段を始めている。
別に殺せなくてもいい、イノセンスさえ破壊できれば、相手戦力をゼロにして教団を無力化できさえすればこっちの勝ちなのだから。ノアが本気を出しさえすればあんな奴ら訳ないのだ。
とにかくとっとと終わらせて早く元の生活に戻るのだ。いや、戻させるのだ。
誰をとは言うまでもない。
勝手にエクソシストなんかになって彼の元から姿を消したミランダ・ロットーのことである。

ノアとニンゲンの二重生活を楽しんでいた彼の元に、かつての恋人がエクソシストになったという連絡が入ったのは先年のことだった。
冗談じゃない。
こんな書き割り舞台の上みたいな生活、ほんのつかの間のことだと思えばこそ楽しめるというものなのに。
ところがミランダときたら何度説得に赴いても首を縦に振らないのだ。
挙句にイノセンスが選んでくれただの仲間を裏切れないだの、神様の思し召しだのと気の狂ったようなことを大真面目に信じている始末。
そんなやくたいもない与太話は教会の神父どもに任せておけばいいのだ。
世界がどうの神様がどうのなんて自分たちには関係のない話だ。そんなものに人生捧げてどうしようというのだ。もっと現実的になれ、お前自分の幸せってものをもっと考えろと言うのに。
偽りの神もタチの悪い詐欺を仕掛けてくれたものだ。相手にするならいくらもカモはいるだろうになんでよりによってアイツなのだ。アレなんか使徒にしたってたいした戦力にもならないだろうにひっかけるにしてももっとマシなのを選べと言いたい。
だいたいこっちの神様だってそうだ。何も自分をノアにしなくてもよかったのだ。
そうしたらミランダの説得だってもっと容易かった。なまじ事情に通じているせいで笑い話にもできやしない。

彼女が教団に行ってしまってからこっち、こんなわけでティキ・ミックは憤慨しっぱなしだ。
こうなったら舞台そのものをぶち壊して終わらせるしかないと、固く決心している次第である。
千年公に弓引く気は毛頭ないが、とにかく敵がいなくなってしまえば活動は休止せざるを得ないだろうから。
幸いなことにミランダが「最後の一人になっても戦う」というタイプでないことをティキは分かっている。
アレは自分で考えて動くような頭は持っていないから、教団がなくなってしまったらどうしていいか途方に暮れるだけだろう。
そうしたら手を引いて連れて帰ってやればいいだけの話だ。
もともと市井で平凡に暮らしているので充分に幸せな人間なのだから。(そりゃあ確かに多少出来は悪かろうとも)
指折り数えて残りのエクソシストを片付ける算段をするティキを、ロードはおもしろそうに見守っている。
ロードは千年公よりよほどこの弟のことを理解しているので、彼がここ最近馬車馬のように働いているについてある程度の予測がついている。それを思うとついつい人の悪い笑みが浮かんできてしまう。
あのミランダ・ロットーが、あの不出来な、不幸女のミランダ・ロットーがこうまで事態を進展させた原因だなんて、一体誰が考えるだろうか。教団側もとんだ疫病神を引き入れたものだと。
意地の悪い思惑を得て笑うロードの視線の先には、晴れ渡った偽物の空の元、爆音とともに崩壊する偽物の街が見える。

( こうやって壊れていくものもお前の力なら戻せるんだろうにねぇ )

あの日、時計の街で幾度も同じ日を巻き戻してみせた女の力を、ロードは少しだけ認めている。
だけどここにあの女はいない。ティキが連れてこなかったのだ。仲間とともに葬り去ることをせずにこっそり忘れた振りをして置き捨てたのだ。間違ってAKUMAの餌食になったりしないよう、比較的無傷のエクソシスト2人とブックマンを残して。
今頃仲間の身を案じて刻盤を手に震えているだろう女に、ロードは囁いてみたくもある。
お前のせいで、世界は滅ぶんだよ、と。
ティキ・ミックは、彼女の傍らで呑気にくわえ煙草をくゆらせるこの弟は、戦いを終わらせさえすればいいと思っている。この戦いさえ終わってしまえば元に戻るのだと。
冷静に考えれば、戦いが終わったその先のシナリオを千年公が用意していないはずもないだろうに、なぜそんな楽観論に依れるのだろうか。
苦笑とともにロードは結論づける。
要するに、二人とも平凡な人間なのだ、と。
明日の糧さえ得られれば後のことはどうでもいい、目先のことが片付きさえすればどうにかなると思っている、そんなささやかで愚かな希望に縋って生きている人間なのだと。
ノアとして覚醒していても、彼が自身の身をさほど特別扱いしていないことは連れてこられた時から明白だった。
だが彼の思惑とは裏腹に、その身はいずれ遠く人とは隔たるだろう。その未来が至近のものであることをロードは知っている。
人の身であったときから手放さぬ煙草をくわえたまま、過ぎた力を弄ぶ弟に向け、ロードは口を開いた。

「でもね、ティッキー。ティッキーは……」

もうじき全てを失うことになるよ、とその言葉は、さらなる爆音の響きに消し去られ、彼には届かぬままとなった。