それは悪の組織の平和な団欒の場に端を発する。
悪の組織の幹部らしく金ぴかの調度品の揃った部屋で金のかかった食事と酒、それらを表向き優雅な作法でこなしながら、ノアの一族はとりあえず悪の組織らしからぬ会話を楽しんでいた。
ここ最近のキャメロット家のトピック、すなわち当主の弟、ティキ・ミック卿の見合い話について。
英国有数の名家の当主であり、現外務大臣を務めるシェリル・キャメロットは自身の妻もその地位と家柄にふさわしい深窓の令嬢を選んでいる。とりあえずのところ彼はその妻に対し非常に満足している。おとなしくて優しくて美しくて慎ましやかで教養も高く気品もありととどこに出しても恥ずかしくない彼の自慢の妻だ。世間様でも彼は愛妻家として通っているし、事実彼は妻と子供をこよなく愛する家庭人であった。たとえ裏の顔が悪の組織の幹部であったとしても。
家庭はいい。心を安らかにしてくれる。
そう彼は固く信じ、愛する弟にもこの喜びを知ってもらいたいと心から思い、故にあからさまな迷惑顔も無視して山のような見合話をこと在るごとに持ち込んでいるわけである。
果たしてその成果はというと、芳しからぬの一言につきるわけだが。
「…いったい何が気に入らないんだねティキ。こんなに美しくて人柄もよくて財産家のお嬢さんなのに」
男にとって理想の三拍子が揃った令嬢の見合い写真を広げながらシェリルはため息をつく。
かれこれ何度目になるかわからないこの問いかけに、他の面々はもう話題に加わるのもごめんとばかり、無視するだけだ。ただ一人、彼の自慢の妻だけが彼と弟の間に立って気配りを見せる。
「ティキさんは理想が高くていらっしゃるんですよ。無理もありませんわ。貴方に似てとってもハンサムなんですもの」
「お母様、それちょっと目が曇りすぎなんじゃない…」
ロードのつぶやきは「まあまあこの子ったら冗談ばっかり言って」の一言ともに流された。
万年おしどり夫婦の日常会話はかように他人にはもやもやした疲労しかもたらさない。
苛立ちとともに席を立つルル・ベルは
「というよりまだ好き勝手したいだけなんですよ義姉さん。いい年をして社会にも家族にもまともに責任を果たす気がないんですから。放っておけばいいんです。こんな男の遺伝子に残す価値などあるものですか」
「お前にそれを言われる筋合いはないんじゃないかね。先だってスウェーデンの王族との見合い話を蹴っておいて」
「あんなぼんくらの遺伝子を残す手伝いをするのもごめんです」
「遺伝子遺伝子って、結婚というのはそのためだけにするんじゃないよルル」
シェリルのとりなしにはじろりと冷たい視線だけを返し、ルルは食卓を後にした。
残された家族としては苦笑いとともに見送るしかない。
「貴方、私もそろそろ失礼しますわね」
「ああ、トリシア。そうだねもう休んだ方がいい。今日は疲れたろうから」
昼間にボランティアの手伝いをしていた妻の予定を思いだし夫らしい気配りを見せるシェリルに、彼の理想の妻ははにかむような微笑みを返し席を立った。
唯一の部外者がいなくなったことで、ふいに場の雰囲気が変わる。主にロードとティキがおしきせの顔を脱ぎ捨てたことにより。
けれどやれやれ、これでやっと気が抜けたと姿勢を崩しかけるティキに、シェリルは懲りもせず先の話題を蒸し返してきた。
「ところでねティキ。君はどんなお嬢さんがいいんだい」と。
「またその話かよ。いいじゃねぇかどうせ結婚なんてったってほんとにできるわけじゃなし」
「ほんとにって、君。どういう意味だね。確かに貴族同士の婚姻は形ばかりの夫婦が多いけどね。本人次第ではきちんとした家庭を築いている者もいるんだ。我々を見れば分かるだろう。私はトリシアを大事にしているし、トリシアだって私のことをちゃんと愛してくれているよ。こんなにすばらしい家庭を築いたお兄さんをみて何も感じないのかねティキ」
「それなんだけどさあ」
シェリルの口上を聞いたティキは心底不思議そうな反応を見せた。
「あんたの結婚ってどうやったの」
「どうって?」
シェリルはティキと知り合った頃には既に家庭を持ち、ロードを養女にしていた。故に彼の結婚のいきさつについて詳しく知らないし、今まで聞いてみたこともない。
「つまり結婚てのはさ、普通教会でするもんだよな」
「まあそうだね。それから役所に届け出を出すんだよ。サマセット・ハウスに行けば結婚証明書を出してくれるから」
「あんたも教会で式挙げたの」
「挙げたとも。ウェストミンスター寺院で盛大に」
在りし日の思い出に浸りながら幸せで頬をバラ色に染める義兄の気色悪い顔は見ないようにしながらティキは、そこが分かんねぇんだよな、と首をひねった。
「つまりウェストミンスターはあれだろ。英国国教会の寺院だよな」
「そうだよ。偉大なるヴィクトリア女王陛下の戴冠式も行った由緒正しい寺院だよ」
「英国国教会の寺院なんだよな」
「そうだよ、だからどう…」
といいかけてようやくシェリルも彼が言わんとしていることを理解しかけたようだった。
「つまりそれって俺らにとっては偽りの神じゃねぇの。カトリックだろうと英国国教会だろうとさ。俺らの神様とは違うんだろ」
それじゃその誓いも無効ってことになるんじゃねぇの?と、非難ではなく全く腑に落ちない、といった風に彼は締めくくる。
あんたはそこんとこどう折り合いをつけてるのか、とのティキの問いはシェリルにとって真に虚をつかれるものであった。ここにいたり、伯爵やロードもほう、と興味を引かれたようにティキを凝視する。どうやらこの兄弟、本気でその点を気にしているらしいということに。
「それは…確かに我々の神は結婚に関する明確な規定は定めていないからねぇ」
教会のように誓いの儀式を挙げる建物があるわけでなし、聖書のように決まった文句があるわけでもない。
偽りの神と思うからこそ汝、盗むなかれ、殺すなかれとの古の戒律にも縛られないノア一族は、かといって彼らの神に授けられた明確な契約事が存在するわけではなかった。彼らの神は放任主義なのである。
どうなの千年公、とティキは今度は一族の総責任者に話題をふる。ふられた方は珍しくも眉を寄せ、そうですねェ…と考え込んだふりをしたが、実際のところ答えなどあるはずもなかった。これまでノア一族に妻帯者がいないわけではないがそれはすべて偽りの神の誓いで代用させていたし、どうせ仮初めのものであるとの割り切りがあったから問題にもならなかったのである。
「つまりそうするとさ。俺らって結婚はできねぇってことにならない?」
どうせ偽りの誓いしかできねぇんならさ、とティキは締めくくる。
理屈としてはもっともだがそれを理由にされては既に妻帯しているシェリルとしては立つ瀬がない。
「お待ち、ティキ。つまりだから君、結婚はしないとか言うんじゃないだろうね」
「だってできないもんは無理だろ?」
「無理なことはないよ。偽りの誓いでもなんでも我々仮初めの生活を送る分にはあちら側の流儀に従ってる点はあるんだからね。そこはそれ目こぼししてもらえるよ…そうでしょう千年公」
「まあそうですねぇ…」
シェリルとしては千年公の後押しさえもらえればなんとかなると思っているようだが、ティキの方は全く持って納得しがたい顔のままである。
「じゃあ俺らの結婚てどうやってするの。あいつらの神様みたいになんか儀式とかないの?」
「つまりそれは、偽りではない誓いとして結婚するならば、という話をしているのですかティキ?」
千年公の言い分にシェリルはさらに驚きを深くする。
「そうそう」
「ノア一族のティキ・ミックとして、貴方の選んだ女性をノア一族の花嫁に迎えるのはどうやればいいのかと」
「そうそう。なんか方法ないの?」
あれなんか微妙に話が逸れてるな、とロードは気づいたが口には出さなかった。その方が成り行きが面白い方向に転がりそうだと思って。
ティキの素朴にして根本的な問いに対し、困惑しきりなシェリルと苦笑いする千年公の見解は共通している。ノア一族が結婚などできるはずがない、と。
ノア一族は人間として仮初めの人生を送る方便以外に妻帯する意味を持たない。ノアという個体は基本的に一代限りのものだからだ。すなわちノアの遺伝子は現在この地上に存在する全ての人類に内包されるものである。そのうち選ばれたる13人(誰がどんな形で選んでいるのかは分からないが)のみがなんらかの形で覚醒することでこの世に現れ出るのだ。シェリルは現在妻帯しているがもし二人の間に子供が産まれたとてその子がノアになるなどとは欠片も考えていない。ノアとしての彼の跡を継ぐのは彼の子ではなく、いずれ彼が死を迎えた後で覚醒するどこの誰とも知らぬ人間だ。そんなノアがノアとして他者と婚姻関係を結ぶ必要がどこにあるだろうか。
そういったことを二人はなるべく優しい言葉で懇々と説いて聞かせた。
それに対するティキ・ミックの返事は実に長々としたため息だった。
「だからさあ、俺たち駄目なんじゃないの千年公」
「駄目って、駄目ってどういうことだねティキ。我々の何が駄目だと言うんだい」
先ほどからこの兄弟は何を言い出すのかと狼狽至極なシェリルをティキは半目で見返す。
「だってさ、あちらさんは上から下までそれこそ末端の信徒まで合わせりゃ数億人って規模の組織なのにだぜ。こちらときたらたった13人だけと来てるだろ。AKUMAどもだって数のうちかも知らんけど中枢の俺たちがたった13人ってどう考えても数が足りないと思わん? そりゃ昔はそれでよかったろうさ。教団信者だってそんな数いなかったし、ローマがまだ元気だった頃はさ、人間どもの方がばんばん捕らえて勝手に処刑してくれたりしてたしさ」
けどもうそんな時代じゃないだろ、とティキは続ける。
「あっちは人間どもを味方に付けて今や歴史の表舞台を完全に支配してるんだ。こっちだってそれなり数を増やしてソシキの増強ってやつを図らんといかんのと違うか。あんたは表の顔で事業もやってるんだから、商売相手に先手打たれたらそれなり対抗策ってもんが必要なの分かるだろ」
「………」
そうと言われればそうかもしらん、と思わずシェリルは納得しそうになる。
手下の数が如何に増えたとてそれを動かす首脳部の数が足りないという欠点は確かにある。ノア一族の組織としての脆弱性をまさか一族きっての風来坊、ティキ・ミックに指摘されようとは。これはやはり日頃の教育のたまものと言うべきだろう。この弟にもようやっと高貴な一族としての自覚が芽生えてきたようだ。まことにもって喜ばしい。
「なんか気色悪い顔になってきてるんだけどパパ」
己の教育の成果に満足するとともに弟の輝ける将来像(三割増で美化)を想像して悦に入っていたシェリルを、愛娘の無慈悲な声が現実に戻した。
「ま、確かにティキにも一理あるかもしれないね、どうです千年公」
「そうデスネェ…」
一理あるかもしれないが現実無理なものは無理、とロードは思うが千年公は意外なことにやや前向きな姿勢を見せた。
「まあ一族の数を増やしたいというそれ自体は悪い発想ではありまセン。問題はその手段をどうするかという点デスガ」
「だからそこがもう無理なんじゃないの千年公」
今度こそたまりかねてロードは口を挟んだ。不毛な話題が不毛だと気づかずにずるずる続けて妙な方向性に落ち着きつつあることに危惧を抱いて。
「無理なんですかねェ」
「無理だよ千年公。ティッキーも何言ってんの今更」
「じゃあお前は将来どうすんだよ。年頃になってもいかず後家じゃ哀れだぞ」
「いいんだよっ。僕は永遠の少女なんだからっ!」
三十五年前から少女のままとはまだこの兄弟には言っていないロードである。たとえノアだろうと乙女心は顕在だ。
「なんだって、それは困るよロード。それなりに年をとっていかないと社交界でどうするんだい」
今だって十分にかわいいロードだが年頃になればさぞや美しい令嬢になるに違いないと密かに夢見るシェリルである。
「それに一応君はキャメロット家の令嬢なんだからいかず後家って訳にも…」
誰の嫁にやるなんてとんでもないが、娘がオールドミス呼ばわりされるのはいやだ。それにロードの花嫁姿もみてみたい。感慨に耽りながら結婚式に出席して今日まで育ててくれてありがとうお父様なんて定番の挨拶もされて大泣きする父親を演じてもみたい。矛盾する父親心ここにあり、またしても想像のお花畑に飛んでいく仮の父親を醒めた目で見やってロードは大きく舌を出した。
「うへえ、僕はやだね。ニンゲンの男と結婚なんてとんでもないよ。第一ノアがそんなことしてどうするのさ。ノアはノアとして覚醒するからノアなんでしょ。それこそ僕らの真実の神が決めたことなんじゃなかったの」
そうでしょ千年公、とようやく話を本筋に戻したロードが視線を向けた先にはなんと分厚い古文書らしきものを真剣に読みふける千年公の姿があった。
「…ちょっと何してんの千年公」
「イエネ、ティキぽんの言うようにうちの神様にもやっぱりそれなりの儀式とは聖典とかいうものが必要かなぁと思いまして」
それにあたるものがないかどうかちょっと資料探しを、とものすごいスピードでページをめくるその傍らには過去八千年になんなんとするノア一族の歴史をつづった本(なんとこともあろうにブックマンの写本もある)がレロの手で積まれていっている。
頬をピンク色に染めながらロードに赤ちゃんが産まれたらさぞやかわいい孫がとおぞましい想像を平然と口にするシェリルに、完全に古文書の世界に没頭する千年公。
「ばっかじゃないの、二人とも」
相手にしてられないや、僕もう寝るねと席をたったロードだったが、そのときちゃんと身を入れて制止を入れておけば後日あんな馬鹿馬鹿しいことにならずにすんだのかとは後になって思うことではあった。
「…というわけでさ、もしかしたらちゃんと形にしてやれるかもよ」
とティキ・ミックが枕辺で囁いた言葉に、情事の後のけだるさからようやく立ち直りかけた女が「…そうですか」と呟く。
「うんうん、だからね、もうちょっと辛抱してなミランダ」
「でも…そうすると私ノアに改宗しないといけなくなるんでしょうか…」
「ああそうねぇ、まあ結婚するんならどっちか選ばないといけないからねぇ」
「それだと、ちょっと困るんですけど……」
「おやそう? ま、そんときはまたどうにか抜け道探せばいいさね」
「そんないいかげんなことじゃダメですよぅ」
「ダメじゃねぇよ。形式さえ整ってりゃ満足なんだから、偉いやつらってのはよ」
「でもノアになったらエクソシストでいられなくなるんでしょう」
「いいじゃねぇか、お前はもともとそんなご大層なもんじゃなかったんだし」
「ティキさんだって最初からノアだったわけじゃないじゃないですか」
「そうだよ、だからお前だってノアになれる可能性がないわけじゃないってことだろ」
だから千年公に今方法探してもらってんじゃねぇか、とティキは上機嫌で告げる。
「……そういう問題でも…ないと思うんですけど……」
ロードが聞けば全く同感とうなずいてくれただろうミランダの言葉は、にっこり笑った後でふいにのしかかられたその後の行為によってうやむやにされた。
彼の口にする突拍子もない話をどの程度までまっとうに受け止めてよいのかということについて、ミランダが悩まされることはしょっちゅうだが、結局のところ、それ自体が無駄な行為だとある程度達観してもいた。
人生楽しければいいじゃんと刹那に生きる男にとって、口にする言葉は常にその場任せの成り行き任せだ。信じたところで今日は本気で明日は嘘。だったらどんな嘘でも信じるのは一夜限りで。
そう思って先のやりとりも忘れようと思うミランダだったが、成り行きの用意に取りかかったのが今回はティキではなく、表の世界でもきっての政治家、千年公とシェリル・キャメロットだということをうっかり忘れていた。
どうにかしたいという言葉を耳にしたが最後、実現するまで粘り抜くのが実務家という人種であり、かくて世界はどうにかしてよという無責任な楽観主義者とどうにかしてしまう実務家たちによって回されていくのである。ノア一族の繁栄よあれかし。