ミランダ・ロットーが妊娠した。
相手はこともあろうにノアである。

 

……どこかで聞いたような出だしはともかくとして、当然ながら関係各位は大騒ぎだ。
堕胎させろ解剖だ破門だ宗教裁判だと喚く非人道的な一団が主力を占める中、ミランダと個人的なつきあいの深かった者たちは彼女の弁護に回り、ともかく悪いのはあのノアだ、あっちを先にどうにかすべきだと矛先を変えるべくやっきになる。
結果、苦しいのは両者の間に立つコムイ・リーである。

 

「どうしたものかねぇ…」
と日に何度もつぶやく彼に何を迷うことがあるのかとブリジット・フェイはやはりこれも何度目になるか分からぬ進言に及ぶ。
「どうしたもこうしたもありません。こんなことは前代未聞です。我々の一存でどうこうできる問題ではありません。中央庁の判断に委ねるべきです」
「でもそしたら彼女間違いなく宗教裁判だよね」
「そうですね」
「ただですむはずないよね」
「もちろん」
「最悪処刑だよね」
「仕方ありません」
「……よくそんな風に割り切れるね。仲間なのに」
「先に裏切ったのはあちらじゃありませんか!」
呆れ果てたように声を荒らげるブリジットにコムイは口をへの字に曲げたままこの期に及んで見苦しく彼女の立場を弁明する。
「だって彼女も知らなかったことだし」
「教団部外者と勝手に接触を持ったこと自体、禁止規定です」
「その点については僕らにも責任があるでしょ」
知ってて放置してたのは確かなんだから、と視線を落とした先にはミランダ・ロットーとかの怪しげなる男の密会現場と思しき写真がある。
ミランダがどこをどう見ても下層民らしきあやしげなフーテンと付合いがあることを監視の目は捉えていた。にも関わらず放置していたのは教団自体の組織的な改変のあれやこれやがあまりにも目まぐるしく、そのために監視機構のあちこちにもほころびや隙ができていたという事情による。
ありていにいえば忙しすぎて他人の色恋にまで口出す暇なんかない、という状態で。
というか、こんな忙しい隙をぬって色恋に現を抜かす暇のあったミランダ・ロットーの方が驚きなのだ。
自身の色恋を棚に上げて目前の仕事に忙殺されていたブリジットにとっては苛立たしい以外の何者でもない。
誰が同情なんかしてやるものかというのが多少やっかみまじりながら正直な彼女の心情だ。コムイが彼女に対し同情的な態度であることもその一因を担っているが、その点彼女は無自覚である。
「何にせよ、ただですまないことは確かなんですから」
ここで悩んでたってしょうがないでしょう、とまでは口に出さないのがせめても彼女なりの上司に対する思いやりであった。

さてそれから数日後、中央庁の使者より早くやってきたのはノア一族の方だった。
苦虫をまとめて数百匹噛み殺したような女が一人。
先だって教団内で好き勝手暴れた挙句、甚大な被害を出してくれたあの女である。
教団全員が生々しい惨劇の記憶を脳裏に映し、こわばった顔で凝視する中、AKUMAの一人も連れず丸腰でやってきた(とはいえ個体そのものが危険極まりない存在ではあるのだが)女は、淡々と、けれど隠しようの無い苛立ちを滲ませながら教団代表であるコムイ・リーにノア一族の総意を告げた。
おそらくは彼女の本意とは遠くかけ離れているのだろう驚愕の意思決定を。

 

「責任は取るから、嫁に寄越せだそうです」
「は?」
「持参金はこの際目をつぶると」
「持参金?」
「それとイノセンスは持ってこられても困るのでそちらでお引取りを」
「いやそれははなから渡すつもりはないけど」
「挙式は略式で、証明書やらなにやらは裏からバチカンに掛け合うそうです」

なにやら後ろ暗い裏事情を聞いたような気もするが、それはこの際流そう。
コムイ・リーは優秀な男だが、未婚の若い男の常としてこういった世事には疎い。
結婚という世間一般では最大級の人生の大事に際し、どのような手続きが行なわれどのような準備が必要なのか、そんなことにまで通じてはいない。
そういうことは普通女性の、それも結婚する当人ではなくその周辺の——主に親や親族、及び後見人と呼ばれる——いわゆる”世話焼きのおばさんたち”が万事取り計らってくれるものなのだ。
たった一人の妹のために教団に入って十数年、コムイ・リーはそういった類の人々と接触を絶って久しい。
ましてもし万が一そのたった一人の妹が結婚などという事態になったら準備や用意どころか全力で阻止しにかかることは疑いない人間だ。そのくせ自身の結婚はといえば「妹が幸せになるまでは」などという矛盾極まりない言い訳で逃げの一手を打っている。
故に相手の申し出に対し、彼は反撃の糸口をつかみ損ねた。
自身にとって全く未知の分野であるというその一点が決定的に不利に働いた。
とっとと早く仕事を終わらせて帰りたいルル・ベルの、事務的にして一方的な口上がまたそれを助長させた。

 

「…というわけですので、連れて帰ります。当人はどこですか」
という締めくくりを聞いたとき、大半の内容を右から左へ聞き逃してしまった彼は慌ててそれだけは阻止する姿勢を見せた。
「え、今?」
「ええ。どうせまとめる荷物などないに等しいだろうからとっとと連れて来いと当人が言うものですから」
「それはちょっと。ボクの一存では…」
「ダメなら実力行使ということになりますが」
「…………本気?」
馬鹿げた質問だ、と当事者ながらコムイは思う。だがもっと馬鹿げているのはこの状況そのものだろう。
それまで冷静と見えた相手の顔に激高寸前の苛立ちが浮かんだからには。
「ええ、ええ。分かってますよ。私だってこんなくだらない、こんなふざけたことでここに来るのは嫌でしたよ。でも仕方ないでしょう。主がうんと言ったからには」
「千年公がねえ……」
どんな思惑があって彼が許可を出したのかは知らないが、それを問うても無駄なのだろう。
多分使者役たるルル・ベルも知らないのだろうから。
「どうせここに置いていたって拷問されて殺されて解剖されて灰になるだけなんでしょう。だったらこちらに渡したほうがまだしもじゃありませんか。なにしろ」
本気で嫁にとる気らしいですから、あの男は。
最後の一言を吐き捨てるように言い、ルル・ベルは口を閉じる。こんな話につきあっていられるか、との態度がありありと出ていて、どうにも話を本筋に戻すのが難しそうだった。

 

そもそも敵なのだ、という認識はこの際横に置くしかない。
というかそこから始めるともう交渉は不可能だ。組織の長としての責任感やら仲間に対する罪悪感やら社会悪という存在への敵対心やらそういったことを考え出すと、ここにこうして相対して座ってしまったことそのものが致命的な誤りなのだ。ために、コムイ・リーは理性と忍耐を総動員して事態の収拾にかかるしかなかった。
そう、問題なのは、肝心なのは、ミランダ・ロットーのことだ。
彼女をどうするかがこの場合最大のポイントなのだ。
明白な裏切り行為だというのにコムイ・リーには彼女を処断する気分が薄い。
教団の後ろ暗い事情にうすうすの疑念を持つ彼は、教団の掲げる社会正義を心の底から奉じてはいない。そもそも妹を救うためだけにここに来た彼にとって、勝手に妹にとりついたイノセンスもそれを理由に彼女に過酷な戦闘を強いる教団も、当初は憎悪の対象ですらあった。教団の理不尽な仕打ちから可能な限り盾となって守ってやりたい。それは仲間として迎え入れた他のメンバーも同様である。地位と責任に伴う義務感と彼らへの同胞意識、秤にかければどちらに傾くかは自明の理だ。
だが当の同胞たち、その大方のメンバーにとって、教団に属することは崇高な正義に殉じる栄誉と信じられている。ことに末端のファインダーや新参のメンバーにはその傾向が強い。
ミランダの件は今のところ士気に関わるとして、教団上層部と中央庁にしか知らされていないが、彼女が監禁されていることでなんらかの裏切り行為があったのだろうとはもう皆、感づいている。
このまま彼女をここに置いておくことはできない。
他の構成員への心理的影響、ミランダ本人の身の安全、そのどちらを考えても。
自分に対する責任追及や懲罰に関しては彼ははなから頓着していなかった。
よくて査問会への出頭、悪くても勧告の上、減俸・降格その程度だろう。
けれどおそらく減俸はともかく降格はないだろうなと楽観するまでもなく彼は現状を計算している。
実働部隊の指揮官である彼の更迭は、組織の士気を著しく低下させるからだ。ルベリエという人間を監視役に送り込みながら組織運用の実権までも要求してこないのは、戦局がかなり不利である今の状態で彼以外の人間にその職務を代替させるのは困難だとの認識が中央庁にもあるからだ。
例えば今、目の前に座る女がもたらしてくれた本部破壊事件など、本来ならば組織再編とともにトップ層の責任追及がなされてもおかしくはない大事件だった。
けれど結果として監視役は増えたがそれだけ。人員も補強されたがトップ層の入れ替えは無し。それが中央庁の結論だった。

「……仕方ないね」

とつぶやいた彼にぎょっとした顔を向けたのは傍らに控えていたブリジット・フェイだった。
「局長! 正気ですか! 貴重なエクソシストをノアに渡すなんて……」
「だけどもうエクソシストじゃないでしょう、彼女」
言われてブリジットは言葉に詰まる。
そう、ミランダ・ロットーは既にしてエクソシストではない。イノセンスが発動しなくなったからだ。
彼女の妊娠が発覚したのも、実はそれが原因である。ノアの子を身ごもった、そのせいでイノセンスが彼女を見放したのかもしれないが、それでなぜ咎落ちしないのかが謎だ。ノアと通じていた間は全く問題なく発動していたし、妊娠した後でも彼女を苛むことをしない。神の意はいったいどこにあるのかと不信がる面々も科学班には大勢いる。
ともあれイノセンスのない人間は、文字通り「ただの人間」だ。冷酷な言い方になるがいてもらったところで役に立たない。
「なら出て行ってもらっても問題はないかな。むしろその方が普通は幸せだと思うし」
来たくて来たわけじゃない人間の方が多いもんね、と彼は続け、それは本人も、そして彼の大事な妹もそうなのだとブリジットに匂わせた。
「……中央庁にはなんと申し開きなさるおつもりですか」
最大限譲歩した、それがブリジットの返答だった。
エクソシストとして以外のミランダ・ロットーがここに存在する価値がないことは自明の理としても、その裏切り行為に対しなんの懲罰もなく無罪放免というのは納得いかねる話だ。その程度の帰属意識はブリジットにもある。
「…まあなんとでも言い訳は考えるよ。病死したとか逃亡したとか咎落ちしたとか」
「物的証拠を求められたら?」
「そこもなんとかする」
つまりはねつ造する、ということになるのだろうが、そんな造反行為を堂々とやってのけるつもりなのだろうか。
ブリジットが思わず絶句している間に、コムイがポケットから純銀の鍵を取り出し、目の前に座るノアの女に差し出した。
「最下層の牢獄。A-1…といっても彼女しかいないからすぐわかるだろうけど」
「承知。」
一言言い捨てて相手の姿がかき消えた。液体となって床下に消えていくのを数瞬遅れてブリジットは気づき、改めて相手の力の底知れなさに戦慄する。
だが今はそれどころではないと思い直し、もう一度上司の方に視線をやれば、組んだ両手に顎を乗せて考え込む彼の姿が映る。

 

「…これは本部に対する明白な裏切りですよ。おわかりですね?」
ブリジットは彼の部下としてというより中央庁からの出向としてここにいる。つまり彼の監視役もかねてだ。
彼女には今回の件について中央への報告義務がある。
今の一幕についても当然、知らせないわけにはいかない。知れれば今度こそ、コムイの断罪は免れないだろう。
そうすべきかどうか、念を押しておきながら彼女は迷っていた。それを見透かすように、教団本部で最高位のローズクロスを身につけた男は視線だけをわずかに転じた。彼女の方に。

 

「ねぇ、ブリジット」
いきなりファーストネームで呼ばれて心臓がはねる。
意識してのことなのかどうか、不明のまま男は再度彼女を絶句させる言葉を吐いた。
「今さら責任の所在を云々しても始まらないんじゃないかな」
「ご、誤魔化さないでください! 仮にも組織のトップに立つ方の口にして良い言葉ではありません!」
「仮に彼女の行為に罪を問うとして」
言いつのる彼女を無視してコムイは言葉を続ける。
「公にできると思う? こんな事実」
「彼女の造反行為について気づいている人間はもう大勢いるはずです」
「ノアの子を宿したことについても?」
「そこまではさすがに…」
「でもそれが事の発端でしょう。妊娠したって事実はもうみんなきっと知ってるよ」
「…………」
「言えないよねぇ」
ノアと、人間の間に、なんて。
「ノア一族は、AKUMAの頭目。そう喧伝しているのは僕らと中央庁なんだし。人間との間で生殖可能だなんてことが知られたらさすがにまずいでしょ」
ただでさえ士気が落ちてるこの時にさ、と真意の見えぬ顔で男は続けた。
「それでも彼女を黙って逃がしたことについて黙っているわけにはいきません」
彼女としても職業倫理というものがあるのだ。黙っていろと言われてはいわかりましたと答えられるくらいなら先ほどからこんなに悩んだりはしていない。
「うん、そっちは僕の責任。それは分かってる。だから終わったらいくらでも罪は償うよ」
「終わったら?」
「この戦いが終わったらね」
あっさりと男は言ってブリジットの口を封じた。
「……そのとき、彼女も自分の罪と向き合うことになるよ」
それはどちらに転んでも、幸せになどなれないと。
そう断じたも同然だった。
残酷な現実を改めてつきつけられて、ブリジットはようやくミランダ・ロットーの行く末について思い至る。
ノアの元に赴く彼女を待ち受けているのは結局のところ茨の道だ。
どちらが勝ったとしても、彼女には深い傷が残るだろう。こちらの勝利に終われば彼女はわが子の父親を失う。そして今度こそ仲間もかばいきれない。
あるいはその逆があったとしても。次に目の当たりにするのは仲間の死だ。ミランダがどれほどこの教団のメンバーを愛していたか、その程度のことはブリジットも知っている。
それなのに、どうして。理不尽にも分からないのはそこだった。

 

「……どうしてノアの男なんかと」
思わず零れた言葉に、何を誤解したかコムイがふと笑みを浮かべてこちらを見た。
「やさしいね、ミス・フェイ」
先にファーストネームで呼んだことなど忘れたように、けれどそれは先とはうってかわった優しい口調だった。
「……っ、違います! そんな意味じゃありません!」
言い返す彼女に、うん、と曖昧な返事をしてコムイは話題を現実に引き戻す。
「もう連れていったかな」
「……騒ぎは聞こえてきませんが」
「あれからどのくらい経ってる?」
「まだ15分とは」
「でも多分そろそろだろうね」
その瞬間、遠くで派手な爆音が響く。
「……始まったみたいだ」
立ち上がるコムイの背を追いながら、ブリジットも覚悟を決めた。
誰が何をどうしようと、もはや断罪の権利は人の手を離れたのだ。あとは最後の審判に委ねるしかない。
地獄の業火に焼かれても、かまわないというなら。
( 行きなさい、ミランダ・ロットー。その覚悟があるのなら、認めてあげます )
同じ罪を背負う者として。
決して流されるままに生きているわけではないと、証明してみせるなら。
視線をあげれば、穢れなき白さに身を包んだ男の背中が映る。
背教の罪を犯したことなど忘れたように、彼はその白さの中にいる。
共犯に落としたこちらのことなど顧みもせずに。