(300と)28歳のお誕生日おめでとう! 聞太師』

 大きく張られた垂れ幕の後ろでぽんぽんと煙りが上がる。
昨夜北の戦線から帰還したばかりで、遅めの登庁だった聞仲は、めまいを覚えて頭を押さえた。
重い足取りをひきずるように扉をあけると、柱という柱に巻き付いたネオンと欄干を覆う花の大群。
一種けばけばしい色遣いに変えられた足下の絨緞を踏み締め、謁見の間に入ればやはりというべきか、ここにも。

『はっぴーばーすでー聞仲ちゃん! そろそろ引退どき?!』

 後半はあきらかな嫌味である。
きゃあきゃあと華やかな声を上げて意味もなく並べられた女官たちとは裏腹に、(まだ)マトモな政庁諸官のオジサンたちはおろおろと入ってきた聞仲と、玉座の方を見比べていた。
「あーーら、お帰りなさい、聞仲ちゃん」
声をかけた主がこの悪ふざけの首謀者だということは火を見るよりあきらかだった。
だって、似ているのだ。
この奇妙に浮かれた雰囲気の飾り付けと、この怪し気な美女の服のセンスが。

「……ただいま帰りましてございます。陛下」
いつ禁鞭がとぶかと狼狽しきりだった紂王は、聞仲の丁重な挨拶に少し、ほっとしながら声をかけた。
「いやなに、御苦労だったな、聞仲」
「聞仲ちゃんのために妾が一晩かかって飾り付けしたのよん。今日は盛大なパーティも用意してあるからぜひ楽しんでいってねん」
「……北の国境付近にたむろしていた蛮族どもはとりあえず撤退いたしました。また来年の秋まで領土侵犯はないかと思われます」
「そ、そうか。それは何よりだ」
「聞太師は何がお好きかしらん。妾が腕をふるって御馳走を用意するからなんでもお好みのものを申しつけてねん」
「ところで、私が北方に立つ前に奏上申し上げました件はいかが相成っておりましょうか。冬がくる前に朝歌の民の食料不足をなんとかいたしませぬと昨年にあい続き餓死する者が出ますことは必定かと。陛下におかれましてはその栄光とご厚情を持ちまして南方諸国への要請をお願い申し上げたく、、、、」
「あ、ああ、そうだな。うん。わかった。善処しておく」
「聞太師も今年で328歳なのですものん。そろそろ腰を落ち着けて余生のことを御考えになったほうがよろしいと妾、思いますのよん」
「それでは御前失礼させていただきます。執務に戻らなければなりませんので」
はらはらしながら冷や汗をかく周囲と妲己を完璧に無視して、聞仲は長衣を翻し、謁見の場を出た。
(相手にしてたまるか。)
いつもなら妲己と怒鳴りあいになるところだが、毎度毎度いいようにあしらわれれば猿だって学習する。
ぽやぽやと脳天気に咲き誇る花々を踏みしめつつ、聞仲は己の執務室に戻っていった。


遠く大広間から楽の音が聞こえてくる。
彼のための宴のはずなのに、彼抜きで始めてしまったようだ。
どうせあの女はなにかを口実に騒ぎたいだけなのだろうから放っておけばいい。
深夜も更けた執務室で聞仲は一人書簡に目を通していた。
彼のいない間に妲己が勝手に決めた法令がないか。部下達の仕事に手抜かりはなかったか。
それをすべて今日中にチェックしておこうというのだから頭が下がる。
どこかの怠け者の軍師に見せてやりたい働きっぷりだ。融通がきかなすぎるともいうが。
「む……?」
端正な額に、すっかり馴染みになった皺が寄せられた。どうやら書類上に不備を見つけたらしい。
丁寧に擦られた朱色の墨で、赤線を2本。そしてこのデカい男にしては意外な程細かい字で訂正を書き添える。
誰が見ているわけでもないのに、うむ、とうなずいて筆をおく。
満足げにすっかり冷えた茶腕をとった時。

 ばたーーーーーん!!!!!

 派手な音をたてて扉が開け放たれた。

「聞仲ちゃーーーんvvv」

 災厄の種のご登場だった。
「……何しに来た」
ため息とともに押さえられた額には青筋が数本。
それは質問というより『用がないなら来るな』という意思表示だった。
「あらん」
聞仲のテンションがいつもよりも低いので妲己は不満だった。
不満と言えばせっかく彼のためにいつもよりオシャレにも化粧にも気を遣っているというのにこの朴念仁は全く気付きもしない。
聞仲の名誉のために言っておくと、これは必ずしも、彼に美意識がないとか、気がきかないとかいうわけではないのだ。妲己本人はとびきり着飾ったつもりでも、人間界のセンスだと道化にしか見えないので仕方がない。妲己に関わらず仙道に生きる者のセンスというのは崑崙山、金鰲島問わずどこか規格外れだ。長く生きているとマトモな感覚が麻痺してくるのかもしれなかった。
「聞太師ったら冷たいわん。妾が『せっかく』用意した宴にも出てくれないし」
「お前が『勝手に』用意した宴に出る気などない」
しっしっと、ネコの子でも追い払うように手をふって、聞仲は書簡を手にとった。
その態度に、むー、と頬を膨らませた妲己はふと、聞仲の態度が常と違うことをいぶかしく思った。普段ならそろそろ嵐の前のなんとやらも終わらせ、ためにためた怒りのパワーを一気に禁鞭にぶつけて破壊行動に出てくるところなのだが、今回はそれがない。どうも呆れてはいるが、怒ってはいないようなのだ。
どうしてだろう?
よくよく観察してみると、一部の隙もなく整えられた彼の姿にも2、3の綻びがあるのに気がついた。
髪の毛につやがない。彼のヘアスタイルは普段から伸びぎみなのだが、その跳ねに今一つ張りがない。
近寄ってみれば顎にそり残した鬚の後が何本か。目立たないようだが几帳面の彼にしては十分に異常だ。
服も、少し着崩れしている。
これはひょっとして、、、
「疲れているのん? 聞仲ちゃん」
かたく結ばれた唇。頑固そうな口元。彼女には決してそれがほころんだところなど見せたことがない。
口をひらけば出てくるのは罵りの言葉ばかりで。
だからだろうか。
自分が今、意外な程優しい声をかけたことに、妲己は自分でも驚いていた。
聞仲も訝し気に彼女を見る。
妲己が心底不思議そうに訊ねたからだ。いつものからかうような口調でなく。
お前には関係ない。
そう言おうとして、しばしためらった。
そしてためらったこと自体が、彼が疲れている証拠でもあった。
「……私は昨晩北から戻ったばかりだ」
しかも、昨日の夕刻、黒麒麟を遣わず、馬を乗り継いで。
黒麒麟は今、西域の偵察に出しているのだった。そのことは妲己も知っていた。知っていたはずなのに、聞仲が帰ってくるのに黒麒麟を使ったものだと当然のように思い込んでいた。なんて迂闊な。
まったく恋は盲目とはよくいったものだ。
「それじゃあ、、、さぞかしお疲れなのでしょうねん」
甘えるような声を出したのは無意識の自分だ。
いけない。引きずられている。
そのことに気がついて妲己は自分を取り戻そうとした。
聞仲はもう彼女に興味を失ったように、また政務に戻っている。
ずるい人。
するり、と2本の腕を背後から回す。彼の背中。その広い背中の匂いと体温が、妲己は好きだった。
紂王の痩身にはない、大きな、強い背中だ。妲己がもたれてもびくともしない。
「いい加減にしろ」
それでも聞仲は怒らなかった。普段なら即座に振払われている。
その気力さえないのか。
妲己は悲しくなった。いつだって、彼は強くて、頑強に、堅固に、彼女の前に立ちはだかっていたのに。
嫌がらせにもならないのならこの行為には意味がない。
それでも妲己はその背中から起き上がることができなかった。
「怒らないのん?」
とうとう駆け引きを放棄して妲己は尋ねる。
怒ってほしい。でもしばらくこのままでもいてほしい。
「今は休戦中ではなかったのか」
「馴れ合いはしないのではなかったのん?」
「いつ馴れ合った」
「今、こうしていることは?」
「害のない悪ふざけなら、無視する方がよいと分かっただけだ」
「悪ふざけなんかじゃないわよん」
「では何だ」

その問いとともに彼が振り返った。
片方の目が、彼女を射る。
片方の目は仮面に隠されて真意を見せない。
わかりやすそうで、わからない、彼の心のうち。

彼には唯一にして絶対の意志があり、それに従って生きている。けれどそこから外れたことに関しては一切が謎だ。
以前、彼が趣味はなにかと問われて園芸と答えた時、紂王はあの男に趣味なんかあったのかと驚いたという。
それほど『私生活』という言葉と縁遠い男だった。公も私も全て殷という国家に捧げた男。でも本当に?
「聞仲ちゃんには欲しいものはないのん?」
見つめられていることに耐えられなくて妲己は彼から離れた。気を取り直すように話題を変える。
「欲しいもの?」
「お誕生日ですもの。プレゼントをあげなくちゃ」
「誕生日か、、、誰に聞いた?」
「紂王様に」
「それは嘘だ」
「え?」
「以前聞かれた時適当に答えただけだ。私は自分の生まれた日など知らん」
適当に。
そんな芸当ができる男だったのか。
「知らないってどうして?」
「捨て子だったからな」
「そう……なの」
これまた意外な言葉だった。
名門の生まれだとばかり思っていた。ただの人間だったころ、16で将軍の座についていて……。
ああ、そうか。
そのころ、まだ殷は小さな国だった。軍人は貧しい人間が手っ取り早く食っていける道だ。聞仲は実力でその階梯を昇った。
それはつまりそれだけ長く軍歴を重ねていたということで。
いったいいくつのころからその手に剣を握ってきたのだろうか。
生きることに精一杯だった男はいつしか仙道を極めて、目的を得て、その全てをそれに捧げて、、、、。
「欲しいものはないのん?」
その手に残るものはなんだろう?
「特にない。必要なものは間に合っている」
必要なものなんてあるの?
「嘘つきねん」
「嘘?」
「何にも欲しがらない人なんていないわん。みんな何かを欲しがっているのよ。妾はそれをよく知ってるわん」
だからこの国は彼女の手に落ちたのだ。
男達は快楽を欲して。女達は安逸を欲して。紂王は自らの賛美者を欲して、黄飛虎は一族の平和を欲して、太公望は理想の地を欲して。 民の為? いいえそれは民の苦しむ声を聞きたくないから。力あるがゆえに、力なきものの呪詛を聞きたくないから。欲望ゆえに人は弱くもなり、強くもなる。
けれどこの男の、捨て身のような揺るがなさはなんだろう?
「あなたも何かを欲しがっているはずよ」
それはなんだろう?
覗き込むように瞳を捕らえる。仮面に手をのばし、はぎとろうとしてみた。
その手を聞仲の手が押さえる。
「やめろ」
「あなたは何が欲しいのん?」
近付けた唇が、唇を捕らえた。
それはどちらが先だったのか。しかけたはずの妲己にも解らなかった。

遠く宴の喧噪が聞こえる。
驚いていた。ないはずの心音が、血流が聞こえる程に。聞仲が、逆らわない。なぜ。

「なぜ?」
そういえば以前、一度口づけた時も怒らなかった。
妲己が彼にしかける悪ふざけは、真剣ぎりぎりのところではかわされはしても怒りを誘発しない。
「害がなければ無視すると言っただろう。それに」
穏やかなほど静かに聞仲は言った。立ち上がり、書簡をまとめ、妲己の傍らを通り過ぎる。
「誕生日など忘れていたからな」
そうして部屋を出ていった。

彼なりの感謝の意だったのだと気がついたのはしばらくたってからである。
気付かれているのかもしれない。