趙公明と黄飛虎、という彼の交友関係内ではほぼ対極に位置すると思われる二人が、なぜか連れだってやってきたのは、よく晴れた春の日の午後のことだった。
目の前にどん、と据え付けられた円形水晶板。次々と若い女の姿が現れては消えていく。
そして常ならず深刻そうな顔をした黄飛虎の腕に抱えられた数々の書簡。
「……なんだ、これは」
彼の執務室に入ってきてから二人はまだ一言も口をきいていない。
ちらり、と黄飛虎がきまり悪げな視線を趙公明に送ったが、この男に任せるよりはと諦めたのか、手にした書簡を聞仲の机にぶちまけ、とんでもない暴言を吐いた。
「結婚しろ。聞仲」
咄嗟に言われた意味がわからず、彼は親友の顔をたっぷり10秒見つめ−−−その後、懐から禁鞭を取り出した。
「あらん? また聞仲ちゃんのところがたいへんなことになってるみたいねん?」
後宮の奥に居座る妲己の耳にもその派手な爆音はよく聞こえた。
「趙公明でしょうか?」
王貴人の言葉はおそらく正しいだろう、と妲己は踏んだ。彼が禁鞭を使うのは仙道に対してだけだ。しかもあれほどの威力をぶつけるとなればそれ相応の相手のはずだった。
「非道いわねん。妾抜きで聞仲ちゃんを苛めるなんてん」
くすくすと笑いながら妲己はかの男の激昂した顔を思い浮かべる。
あとで公明ちゃんをシメて原因を聞き出さなくては。
執務室はほぼ全壊していたが、騒ぎの原因は−−ヒト、モノ含めてすべて無事だった。
もちろん趙公明のバリアのおかげ−−あるいはせいである。
肩でぜいぜいと息をしながら、険のある視線が二人を射た。
「……いったい、この忙しい最中に二人揃って、何を考えているんだお前達は!!」
「……いけなかったかね?」
入ってきたときから得体のしれない笑顔を崩さない趙公明がのどかに言った。
「いけなかったか、だと?」
ぎりり、と再び禁鞭を握りしめる聞仲に黄飛虎は早くも趙公明とつるんだことを後悔しはじめていた。
「まあ待ちたまえ、聞仲くん。僕たちは何も冗談や酔狂や暇つぶしにこんな話をしているわけではないんだよ」
暇つぶしだったんかい。黄飛虎は正確に趙公明の意図を見抜いた。やはりこの男に相談したのは間違いだった。
「忙しい最中だからこそ、キミには暖かく安らげる家庭が必要だと思ったんだよ。ねえ黄飛虎クン?」
横目でうながされて黄飛虎はしかたなく言葉を継いだ。
「……まあそうだ。なあ、聞仲。お前いいかげん独り身でいるのはよくないぞ。やっぱり早く嫁さんもらって落ち着けよ」
「飛虎。お前まで何を言い出すのだ」
心底驚いた、という表情で聞仲は親友のちょっと困ったげな顔を直視した。
「お前とは長いつきあいだが、今までそのようなことを言ったことはなかったではないか」
「……まあそれはそうなんだがよ」
咄嗟に言い訳を探して、視線をさまよわせると、扉の外からおそるおそる中を覗き込んでいる張奎が目に止まった。
ごほん、と軽く咳払いしてなんとか説得を試みる。
「お前もういい加減いい年だし」
「そうそうもう300歳過ぎてるしね」
「部下も結婚したことだし」
「感無量だったね、あの結婚式は。やはりお色直しは5回はやっておくべきだったかな。進行上どうしても4回までにしてくれと頼まれたのだがああいう晴れがましい席に出し惜しみというのもどうかと思うんだよやっぱり僕は」
「子供の一人ももって老後に備えても……」
「聞家子々孫々の繁栄のためにもやはり子供は3人以上、広い庭と大きな犬は必須だね。できれば男の子は小さいうちからしっかりと美学というものを躾るべきだと僕は思うんだよほら三つ子の魂百までとかいう教訓もあることだし」
「……あんたちょっと黙っててくれないか。話がややこしくなる」
「おやなぜ」
掛け合い漫才のような二人の会話を聞いているうちに聞仲は頭を抱えたくなった。
趙公明はともかく黄飛虎は悪い人間ではないのだが………。
「とにかくだな。お前も一度くらい結婚して、家庭の味ってやつを味わってみろ。そしたらそのよさがわかる」
余計な世話と知りつつも、黄飛虎は聞仲にははやく結婚してほしかった。多少強引でもなんでもこの際かまわない。
「だからなぜ今さらそんなことを言い出すのだ」
「………」
理由を彼に解らせるのは難しかった。趙公明などはこちらが明確に言い出さなくても勝手に誤解して協力してくれたりしたのだが。
先日の休みの日、あの『ろんぐばけーしょん』とやらを妲己が決行したあの日のあの件がなければ自分がこんな余計な心配はしなくてもすんだだろう。あああのとき聞仲の家になんか遊びに行くんじゃなかった。家でおとなしく妻といちゃいちゃしていれば何も知らずにいられたのに。
目の前の親友は不要領顔で眉をしかめて彼を凝視している。その真面目一徹の顔を見るにつけ、黄飛虎の憂慮はますます深まった。
早めにガード置いとかないとつけこまれるからだよ、とはとても言えなかった。
「へえ。それで黄飛虎ちゃんは一旦は引き下がったのん?」
軽くシメてやるつもりで呼び出した趙公明は、拍子抜けするくらいあっさりと真相をしゃべった。
「そう。まあ彼にしてみれば、たった1回で聞仲クンが言うことを聞くはずがないと思っているのだろうね。とりあえず釣書だけ置いて引き下がったようだよ」
「聞仲ちゃんが結婚ねぇ……」
妲己はくすくすと謎めいた笑い方をした。
「? 何か知っているのかい? 妲己。もしや彼には意中の女性でも?」
「いいえ。でも聞仲ちゃんは絶対耳を貸さないと思うわよん」
結婚だなんて。できるわけがない。あの男が。
「どうしてかな? 彼は仙道ではあるけれど、人間として生きることの方を望んでいる。元は人間だったのだし、問題はないと思うんだがね」
ひょっとして女性に対してアレルギーでもあるのかな? 彼は潔癖なところがあるしありえないことでもないねぇ。
勝手な憶測をしゃべりたおす趙公明を適当に受け流し、妲己は最後にこう締めくくった。
「聞仲ちゃんはね、絶対に結婚なんかしないわ。できるはずないのよん」
「お気に召す女性はいなかったようねん? 聞仲ちゃん」
黄飛虎のもってきた見合いの釣書を読みもせずゴミ箱に放り込んだ聞仲の背後から嫣然とした声が響いた。
深夜も更けた時刻である。中空には相変わらず不均衡なほど大きな月が居座っている。
この女はいつも満月の夜に現れるなと聞仲は忌々しげに振り返った。
「何の用だ」
「久しぶりに顔を見にきてあげたのよん」
艶やかな笑みは饐えたような夜の匂いがした。同じ女で、どうしてこうも違うのだろう。
他の女と、この女は。
「ふざけるな。帰れ」
月並みな言葉しか出てこない自分を意識して、聞仲は視線を合わせないよう背を向けた。
平凡なただの男に戻っていく自分が怖ろしかった。
仙道となった日から−−否、それ以上に失うべからざるものを失ってしまった日から捨てようとしてきた感情たち。
自らに課した戒律を、自制を、たやすく食い破る己の激情。
今更になって黄飛虎が持ち出した「結婚」という単語は、彼にとっては鬼門、あるいは禁忌だった。
触れられたくない過去に抵触する。
ひとたび思い出せば次々と、芋蔓式にたぐり寄せられてくる過去。
「心配しなくてもいいのよん」
見透かしたような妲己の言葉に聞仲ははっと、苦い思いをふりきった。
「あのことは誰も知らない。妾と聞仲ちゃん以外には」
「お前の義妹たちはどうした」
ああ、と妲己は長い髪を掬い上げながら忘れていたように笑った。
「あの二人はね、覚えていないわ」
「覚えていない?」
「記憶を消したの」
「何故そんなことをする」
意外だった。目的が何であるにせよ結束だけは固い姉妹だ。
「だって秘密だもの」
欄干の上、膝を抱えた女の露出の多い衣装は、白い肌を月に冴えさせて、この女を幻想のように見せる。
「二人だけの秘密だもの。そうよね? 聞仲」
ふわり、と降り立つその姿に、聞仲は彼女と初めて出逢ったあの夜を思い出す。
あの夜は−−確か朱氏の何十回目かの命日で。
森の奥深く、ひっそりと建てられた彼だけのための墓標に花を添えた帰路のことで。
静寂につつまれた高い木立の隙間から漏れてくる月光の帯を、生まれたままの姿に纏って。
この世のモノでないことはすぐに知れた。一夜の夢のようなものだから、明け方には残らず消え失せてしまうだろうと思ったから、声もかけず立ち去ったあの夜。
その翌朝に旧知の将軍から引き合わされた時には同一人物とはとても思えなかった。
私の姪なのですが、早くに二親を亡くしたせいかどうにも引きこもりがちでと告げる知人の声に、萎縮したように縮こまり、冴えない顔色に張り付けたような笑みを浮かべ。
『はじめまして、聞仲様。王氏の娘、玉環と申します』
今とは違う名を名乗った。
「王玉環」
禁忌の名を口にしたその瞬間に後悔していたが、顔には出さなかった。
「あの娘もお前が喰らったのか?」
「いいえ」
簡潔な答えに嘘は感じられなかった。それで問いを続けた。
「私の正体を知っていたか?」
「ええ」
「あの森に私が来ると知っていたのか?」
「いいえ」
「王将軍の愛人だったのか?」
「いいえ」
「王丁陛下を誑かすために私に近づいたのか?」
「いいえ」
「……なぜ私の元へ来た」
泥沼だ。分かっていながら聞いてしまった。
分かっているから彼女は答えない。
「なぜ私を裏切った」
放った問いは空に浮き、答えをつかみ損なった彼はまた一つ沈んでいく。薄暗い室内に澱んだ過去が彼の足を引きずり込んでも、彼女は変わらず、そこにいた。
「なぜ」
「なぜ」
二度目の問いは彼女の口から密やかなつぶやきとなって漏れた。
「何故何故何故何故何故何故何故何故………」
抑揚なく繰り返された言葉は暗い室内に波紋のようにざわざわと広がり、やがて静まった。
揺り返す余韻が微笑みとなって目の前の女の顔に残る。
「なぜの答えを探してばかりで、人はいつも大切なモノを失っていくのね。形ばかりの約束や、ほんの少しの距離に拘って、目の前にあるモノを信じようとしない。現実と夢にどれほどの違いがあるのかしら。夢は夢のまま、目に見えるモノは目に見えるまま受け入れられないから、この世の事象は歪んでいくのよ。現実に責め立てられてそれを誰かのせいにして」
ひたり、と熱のない視線が彼の頬に張り付くのを感じた。
「あなたも同じよ。聞仲ちゃん」
「……私が何を誰のせいにしたと?」
「妾のせいだと思っているの? 本当に?」
何を、の答えは必要ないだろうといわんばかりに。
「いいや」
闇の中でわずかに首をふる気配。
「お前のせいではない。お前はただの傀儡だ。何を奪おうと何を裏切ろうと、それを望んだ者は他にいる。お前は破壊者にも簒奪者にもなれない、ただの傀儡だ」
「そう、思っているの?」
「お前はそういうモノになりたかったのだろうな。だがそれは無理だ」
「なぜ?」
「なぜの答えは必要ないのではなかったのか?」
女を射抜く視線に嘲笑はなかった。
「だが、その答えを探さぬ限りお前は何者にもなれない。あるがままに受け入れよと言ったな? ではあるがままのお前とはいったいなんだ」
「妾は妾。あなたの目の前にいるのが妾よ」
「所詮は夢だ」
月を背後にたつその姿は美しい。一歩一歩彼に近づいてくる、それは夢だからこそ美しい月の化身だ。
「今私の前にいる、お前はただの夢だ」
「勝手なことばかり。妾は今ここにいる。どうしてそれを否定できるの? 聞仲」
「消えろ」
「妾に触れて。妾を抱いてごらん。そうしたらわかるから。妾はここにいる。いつだって聞仲ちゃんの傍にいるのよ」
「私ではないだろう。それを確かめたいのは」
「触れて」
今どんな顔をしているのか、この女は気づいているのだろうか?
「お前は……」
凄絶な決意が一瞬彼をひるませた。
「それほど、自分を見失っているのか?」
「妾はここにいるわ。そうでしょう?聞仲」
ともすればぼやけてしまいそうな自身の輪郭を言葉だけで支えているその姿は、どうしようもなく哀れだった。
かつて王玉環と名乗っていた頃の面差しと蘇妲己と呼ばれていた少女の肉体と。全てを奪い尽くしてもまだこの女は何にもなれないでいる。
いっそ仙になどならなければよかったのだ。ただの獣で生を終えていればよかったものを。ここまで歪んでしまった己自身をもてあますくらいなら。
「居場所が欲しければ自分で探せ」
憐れみでは満たせない器だから。
いっそ仙になどならなければよかった。ただの男で、得た女であればよかった。人としての短い生涯の中でなら、生ある間だけならば十分に与えてやれただろう。だが長く生きれば生きるだけ変容していく世界の中で、この女もまた歪んでいく己に耐えきれなくなっていく。その姿を−−人としての自分だったなら知らずにすんだ。
限界だった。
明け方の光にぼんやりと溶けていくその姿を見つめながら、聞仲は後悔など無意味だと己に言い聞かせていた
その記録を見つけたのは、たまたまと偶然が重なった結果で、きまぐれに古い記録の整理などしようと思いついたことを張奎は後で死ぬほど後悔した。
しかもそれをよりにもよって趙公明に知られてしまうなんて。
聞仲様に顔向けできない。
いっそあの書簡蔵こと灰にしてしまおうかなどと妻と本気で相談しあったほどだ。
それを黄飛虎にたまたま見られて、おうあいかわらず仲がいいな。夫婦仲円満なのはいいことだよな。聞仲のやつ、一度結婚してみればそのよさがわかんのになぁ。などと話しかけられてひきつった笑顔で答えるのが精一杯だった。
言えない。趙公明とは別の意味でこの人にだけは絶対。
あの古い竹簡。色褪せてほとんど読めなくなった、虫食いだらけのままに放り出されていたあの記録はおそらく故意にあのうち捨てられた蔵に放り込まれたものだったのだろう。
誰によってとは言うまでもない。
ああ知らなければよかった。よりにもよってなんで今なんだろう。
聞仲様に見合い話が進んでいる(というより一方的に押しつけられようとしている)今、それに最も熱心な黄飛虎に知られることだけは避けなくては。僕だって本当のところは聞仲様に幸せな結婚をしてもらいたい。そうしたら妻といちゃいちゃするために早めに帰っても不機嫌そうな顔でにらまれることはないだろう。
そう。結婚はしてもらいたいのだ。結婚は。ただそれは相手が誰かということによる。
冗談じゃない。今更復縁などはしないだろうが、あんな女を上司の妻に持つのだけは願い下げだ。
最終的に利己的な理由が背中を押したものの、それは賢明な判断だったと張奎は信じて疑わない。
見つけた竹簡はとりあえず火にくべた。
趙公明の問題は棚上げにした。
上司に問いつめられたら白を切り通してやる。
あの女が出張ってきたら・・・・それは上司に任せよう。
「? 何燃やしてんだ? 張奎」
タイミング悪く通りかかった黄飛虎が横からのぞき込む。
一瞬あせったが、既に燃え尽きて墨になった竹簡からはもはや何も読みとることなど不可能だ。
「古い、記録です。倉庫がいっぱいになってきたので」
それでも用心して視線をそれから反らせることなく、張奎は答えた。
「記録?」
「ええ。古い戸籍です。もう300年も前の」
「そりゃまた古いな。まあ300年もたちゃあ生き残ってる人間なんかいやしないだろうな」
「そうですね。いやしませんよね」
ははは、と乾いた笑いを浮かべた張奎に黄飛虎も鷹揚に笑って立ち去った。
「・・・でもいるんですよ・・・両方とも生きてる人たちも・・・」
『戸主: 聞仲
妻:王氏 玉環』
古い、記録である。
それでも関係者が存命である以上・・・
もしかしたらこれって今でも立派に有効なんじゃないんだろうか。
心に浮かんだ怖い想像を、張奎は必死でうち消した。
たとえそうでも関わり合いにはなるまい。
夫婦喧嘩は犬も食わない。まして相手が彼らでは。