終 幕

「本当によろしいのですか?」
「お気遣いなく。すでに決めたことですので」
常に冷静で表情の変わらぬ男の、何度目かの問いに邑姜は思わず笑みをもらした。
同じ問答をもう何度も繰り返している。
夫の死から15年が経っていた。

我が子の即位式を見届けた後、彼女は摂政皇后としての立場を捨て引退することを宣言した。
王宮から遠く離れたかつての姫家の城に居を移してはや3ヶ月。
早すぎる隠居を惜しむ声は未だ多い。
特に宰相である周公旦は何度か訪れては復位を薦めてきている。
しかし彼女の返事は常に同じだった。
「あの子のためになりませんから」
聡明な息子である。早からず自立するだろう。そのためには私は邪魔になる。
それはそれで賢明な判断ではあった。
「私が養父の元を離れたのも同じ歳でした」
「しかしあなたはまだお若い。国も子供も、まだあなたを必要としていますよ」
「私の仕事は終わりました。あとはお任せします」
私の、役目は。
新しい世界を造ること。
「もう、終わりました」
後は続けていくだけ。維持し、育てていくことは。
「後はあの子の仕事です。」

もう、いいでしょう?

ほほえみを保ちながら、叫びだしたい衝動を抑えていた。
早すぎるというのなら手遅れになる前に私を解放して。
姫家3代に渡るこの革命。夫の父が戦を始め、夫が戦を終わらせて。そして我が子が国を造る。私はその中継ぎにすぎない。それはそれでやりがいのある仕事だったけれど。しょせん歴史の歯車のひとつなのだから、そのためにここに来たのだから、何の見返りがあったわけでもない、ただ必要だからそうしただけで。
でもそれは私の本意だった?

15歳の頃。疑いもせずただ自分の出番を待っていた。
幕間のカーテンの裾で歴史を演じる役者の一人として。
さあお前の出番だよと、背中を押したのは誰だった?
もうその姿さえ朧な彼女の庇護者を、彼女はまだ探している。
最後に会ったのは・・・夫が亡くなったときだった。

「・・・わかりました。私個人としては非常に惜しいと思います。ですが貴方がそう決心なさったのであれば私がどうこういう資格もありません」
もの思いにふけっていたのはそれほど長い時間ではなかったと思う。
見た目以上に歳をとって見える夫の弟は、彼より歳下の義姉に敬意を込めて一礼した。
「最後に一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「貴方は・・・小兄さまを愛しておられましたか」
予想外の質問にも彼女はたじろがなかった。
「もちろんです」
用意された答えにためらいはなかった。

夫のことを思い出すとき一番に浮かぶのは、その強い意志の瞳。
常に前を見つめていた。その瞳に移る未来はいつも白紙だったから、彼は広がる大地に自由な世界を描き、その顕現を疑わなかった。
理想と現実、責務と意志。それらを矛盾なく昇華させた見事な人生。
どこも似ていない。
なのに惹かれたのが不思議なくらいだった。
彼女の養父にとって未来は既に限定された現実であり、一抹の夢だった。
儚くも消え去る泡沫の夢。
過去も未来も現在もすべてが同列に進行する時に生きる彼には一瞬も千年も同じことで。
その瞳は未来に向かっていても、遠い過去を懐かしむ光を浮かべていた。
「いつか、帰ってきてもいいですか?」
下界に降りる最後の日に、別れの挨拶とともに告げた言葉に、軽く目を見張った彼。
「もちろん。いつでも帰っておいで」
そう言ってくれたけれど。
「でもね、たぶん君は帰ってこないよ」
予感というより確信している口調で彼は微笑んでいた。
「あそこには君を必要としている人達がいるのだから」
この完全なる人のうちにある不完全な部分が、かつて彼女を助けた。
必要とされていないなどと傷つくことすら許されない。
時に置き去りにされた孤高の人には、自分自身ですら必要ではないのだ。
まして未来など共有できるはずもなかった。

帰りたくて帰れない。
過去の想い出の全てに別れを告げて、彼女は時を渡る旅を始めた。
未来を、諦観ではなく希望として見つめる夫の視線を受け止めたとき、彼女は幼い子供であった自分に別れを告げた。
戴冠の日、嵐のような歓声を聞いたとき、優しい子守歌を歌ってくれたその声に別れを告げた。
両の腕に幼い我が子を抱いたとき、嵐の夜抱きしめてくれていた彼の腕に別れを告げた。
夫の死んだ夜、悲しみとともに流れる涙の熱さを頬に感じたとき、死を超越したその人の生をもその涙にとかした。
似ていない二人の想い出をことあるごとに重ねては、信頼と依存を取り違えていたかつての自分に別れを告げた。
周到に計画された事業のように、想い出の全てを自らの生の犠牲にして、そうして彼女は自分の恋を骨抜きにしたのだ。
自分の歩んできた道を逆にたどってみれば、そこにはあらかじめ失われた恋のひとつひとつが今もあるはずだ。
誰にも語られなかった、旅の軌跡を描く、凍結された永遠に変わることのない恋のひとつひとつが。
一幕の役目を終えて退場する自分の人生を見つめながら、彼女はただカーテンコールを待っている。
讃えられるべきはこの恋。

 

 

『−−−−喝采せよ、諸君。喜劇は終わった』

 <了>
【引 用】

■アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』(白水社、1999 年)
(どの部分が引用かなんて、突っ込みが入るのがおそろしくていえない。)

■初出 :  VIP. 様