あの女は狂っている。
夜半、あらかたの部下が帰ってしまった時刻に、珍しく深刻な顔でやってきた黄飛虎は、開口一番そう告げた。
話題に上るあの女とは言うまでもなく、現在の彼らの王の后のことである。
「狂っている?」
執務机の上に積まれたおびただしい量の書類から目を上げて、彼は黄飛虎を見る。
国政に関わる全ての書簡に目を通すのは今や唯一の太師となった彼の役目だ。
他の高官は全て妲己の術によって傀儡化していた。
「笑ってくれていいぜ」
どっかりと座卓に腰を下ろした黄飛虎は、彼にしては珍しく深刻な表情だった。
「オレぁ、見たんだ。あの女が死体を掘り起こして、食ってるところを」
ああ、なるほど。
と、聞仲は驚きもせず友の告白を受け入れた。
そういえばこの男は彼女の正体を知らなかったのだ。仙女だということは薄々気づいていてもそれが齢千年を越えた狐だということまでは知らなかったのだろう。
言っていなかった私も悪いか。
苦笑しつつ聞仲はそのことを明かした。
「だから、アレはそれで正しいのだ。元々は獣なのだからな。死骸の肉を食うことくらいするだろう。あの女は別に狂っているわけではない。そういう習性なのだ」
聞仲のあっさりした答えに、だが飛虎の表情は硬いままだった。
「そうかもしれん。だが聞仲。オレは正直言って怖いんだ。そうだとしても、やはりあの女は狂ってる」
友の取り越し苦労を揶揄するように、聞仲はため息をついて軽い笑みを浮かべた。
「飛虎。見かけにだまされるな。人の姿を取ってはいても所詮、アレは獣のなれの果てだ。我らの基準ではかれるようにできていない」
「それでも」
どこまでも飛虎はこだわった。
「それでもやっぱり思ったんだよ、聞仲。あの女は狂ってると」

友のこだわりがおかしくもあり、意外でもあった。普段はこれほどまで曖昧な直感などに拘泥する男ではないはずなのだが。黙り込んで視線を逸らした彼の横顔には、なおも納得しかねる表情が浮かんでいる。唐突に彼は気づいた。おそらく彼は、彼女のその習性を当然のことと受け止める自分の方をこそ理解できないでいるのだろう。人間である彼と、仙人である自分と妲己。そう、むしろ自分と妲己こそが同類項なのだ。
人としての習性から遠ざかって数百年。自分と友との間の埋められぬ陥穽を、聞仲は長い沈黙とともに受け入れた。

夜半、禁城から門まで続く長い木立の間を抜けて帰途につこうとしていた聞仲はふと冷たい臭気を感じて視線を上げた。
木立に間に見え隠れする長い影。青く光る月に黒々と浮かび上がったその姿に足を止める。
妲己。
この夜更けに何を、と一歩踏み出した足が、月の光に縫い止められたように止まった。
不思議に青白くほの明るい光。月に照らされた世界は風も音もなく、まるで死者の国のようだ。
「何をしている。狐」
振り返った彼女の、その口元も、手も。血まみれだった。紅の色に染まった指先が頬をかく。否、赤ではない。血の色は赤ではない。月光の下に浮かび上がる真実の色は、黒。全てを塗りつぶす深淵の闇の色。白い肌につけられた血の染みは罪の証のように黒く、けれど瞳だけは狂気の色を宿して青く。
「聞仲ちゃん」
一瞬、目の前にいるのが誰なのかも忘れてしまっていたかのように、惚けたような声が彼の名を呼んだ。
「何をしている。こんな夜更けに」
「何って?」
ごとり、とその指先から血まみれの肉塊が落ちた。
そしてはじめて、失った重みに気づいたように指先を見やる。
あどけないくらい不思議そうに、自身の血にまみれた指先を見つめ、二度、まばたきを繰り返した。
「お前は、、、、」

狂っている。
聞仲、あの女は狂っている。
飛虎の真剣な瞳が訴えかける。
オレは———あの女が怖い。

気弱とも思える友の言葉は、人としてある限り当然の真実だった。理解できないものを人は恐れる。拒否する。
友は怖れた。彼は怖れなかった。なぜなら彼には理解できるからだ。
「どうした? 何を迷っている」
「迷う?」
軽く目を見開いたその表情は、幼女のように純粋な驚きを表していた。
「仙道の身で、何を迷っているのかと聞いているのだ」

仙であるために必要なのは一般には仙人骨があることだと言われている。しかし、もう少し正確を記すならば、それは絶対条件ではあっても、唯一の条件ではないと聞仲は知っている。仙人骨がありながら仙でないものは大勢いるし、現に黄飛虎などがいい例だ。では仙とは何かと言われれば、聞仲はこう答えることにしている。それは「迷いのない」ものだと。

「妾が、迷っている?」
妲己の顔にゆっくりと笑みが返ってきた。
「何を言うの聞仲。妾は迷ってなどいないわ。妾はこれが当たり前なのよん?」
「ではなぜ今更そんな真似をしている? こんな夜更けにこそこそと死骸を漁るとは」
「聞仲ちゃんは知っていたはずではなかったのん? だって妾は狐なのですもの。死骸を食べることがおかしくて?」
「おかしくはない。死骸を漁ることに関してはな。私が言いたいのはなぜそれを隠すのかということだ」
虚をつかれたように妲己の顔から薄笑いが消える。
「………だって」
わずかな沈黙の後、視線を落とし、齢千年を越える仙女は駄々をこねるようにぽつりとつぶやいた。
また、迷っている。
「お前は仙だ。それも千年を経た狐の変化だ。死骸を食らうこと自体は別に珍しくもなんともない。ならば誰の目をはばかる必要がある? 陛下か? 朝歌の民か? どちらもお前の宝貝の力でなんとでもできよう。私や黄飛虎はもはやこの禁城では少数派だ。何を怖れる? お前はやりたいようにやればよい」
半分は本気であり、もう半分は挑発であったが、妲己は黙っていた。
その表情に、もはや笑みはない。余裕を失ったような上目遣いの瞳の中には、なぜか奇妙な後ろめたさが浮かんでいた。

「………は、何なの?」
わだかまった沈黙の後に、ようやく妲己は口を開いた。
「何?」
「仙道とは、何なの?」
妲己の問いに、聞仲は軽く眉をひそめる。
「今更、お前がそれを問うのか」
「妾は自分を仙だと思ったことはないのよ。聞仲ちゃんはどうなの? 人間? それとも仙道?」
問いかけるその姿は月光に照らし出されて細く、頼りなげにすら映る。その足下に死骸の山を築いていてもなお。
「私は仙道だ。それは変えられぬ」
人でありたいと願っても。
「人間でいたかった?」
「いや」
答える声に迷いはなかった。
仙人骨のない自分が仙道となったのは自暴自棄な修行の成果、あるいは報いであったが、結果としてそれを受け入れたのは自分自身の意志によってであったと聞仲はそれなりに納得していた。その日から迷ったことはない。一度として。
「じゃあ妾はやっぱり仙道ではないのよ」
聞仲の答えに、何事かを悟ったかのように妲己はつぶやいた。
「そうかな?」
彼の答えもまた彼女に理解を示すかのように寛大だった。

だって解り合えるのだ。こんなにも。
迷いを捨て、生まれ落ちた際に得た業を捨て、肉体を変成させて、新たに得たもの。
それは力であり、意志であり、果てのない生であった。けれどそれは望んで得たものであっただろうか? 人も仙道も何かを選び取りながら生きてゆく。そのことに変わりはないけれど。
限りある生の中でその手に抱えきれないものを捨てていくのが人の生ならば、死ねない仙道になってなお、捨ててきたものも取り戻せず、また捨てていかねばならないものが増えるのならば、その生に何の意味がある?
たとえば道標とか、進化とか。そんなものに捧げるための生ではなかったはずだ。

帰りたい。
唐突にわき上がった感情はどこからきたものだろう。
仙道である自分でも、獣の性である自分でもない。仙道に迷いなく、獣に想いなく、ならば今この胸のうちにつかえる塊をどうすればよいのか。
「妾は………ナニ?」
本当に問いたいのはそれだった。

自分は「道標」によってここに遣わされ、その意志に従って動いている。
傀儡であるつもりはなかったが、望んだものを得るには今は従うより他なかった。そのために全てを犠牲にすると決めていたが、そう決めたのは自分の中の何なのか、彼女自身にもわかっていなかった。それを考えるとき、いつも彼女はかつて捨ててきた緑深い森を思い出す。そこに自分の源があると朧気に考えており、それがある限りどんな変化を繰り返そうとも大丈夫だと信じていた。
足下に転がる今の自分と同じ姿をしたモノたちを見る。同じ光景を前にも見た。もちろんその時の彼女の姿は今の自分とはかなり違っていたけれど。
妾は結局、同じことを繰り返しているの?
捨てて得たものは結局同じものだったなんて、そんなことが。
いや違う。違う、、、、はずだ。
「聞仲ちゃん」
違うよね? 仙道である貴方にもわかるはず。私たちは同じモノを捨ててきたのだから。
返事のない彼の姿を瞳に映せば、かつて自分を追いやった時と寸分違わぬ硬質の瞳に行き当たる。
その中に映る自分の姿もあの時と変わらぬはずだ。そう望んだのだから。それが望みだったのだから。失ったモノを取り戻せないのならば、時よ止まれと、そう願ったのだから。
「聞仲ちゃん」
自分の中で脈打たぬ心臓が、響かぬ心音が、血流が。生きていることを伝えぬこの体の全てが厭わしかった。答えてはくれぬ彼の姿もまるで止まった時の流れのように静寂の中で遠ざかっていく。
確かにそこにいるのに。
「聞仲ちゃん」
三度目に呼んだ彼の名前に、声がかすれた。
確かにいるのに。

「助けて………」

のばした指先は血にまみれて、赤く、赤く。

それでも彼はその手をとった。

抱いた肌にぬくもりなどなく、生あるものの匂いも汗すらなかった。
男にとっては腕の中のその女はまるで幻のようなもので、それも当然だと心の片隅で納得してはいたけれども。
欄干の向こうから射す月の光を避け、闇の中で蠢く二つの肢体は、確かに同じ生き物だった。
「聞仲ちゃん……」
声だけが。その声だけが、熱を帯びている。不自然なほどに熱く。
その体には相応の快楽があり、既に性を捨てた彼ですら溺れる魔があった。
「聞仲…………」
胸元に埋められた顔。泣いているのだと気づいたのはその髪を抱いた瞬間で、白い腕が彼の背に回った時だ。
「何を迷う?」
何が悲しいわけではない、ただ何かに迷っているのだと彼は理解していた。仙である身にあってはならないものが彼女を不安にさせているのだと。憎悪や悲哀に泣く生き物ではなくなっているのだ。自分も。この女も。
「貴方は……迷うことはないの?」
粗く、切なげな息の下からかすれた声が問うた。
「ない」
答えは簡潔で、それだけに彼女の胸に響いた。
男の胸に埋めていた顔を上げれば、闇の中で光る彼の3つの瞳。
『だからお前も迷うな』
声は唇からではなく、額の目から聞こえたようだった。
この朝歌の中で、普段は決して見せることのない仙道としての彼の顔。
仙道として人とともに生きることを望んだ彼が、普段は隠し続けている豎眼は真実を映すと言われている。今のこの男の瞳に自分はどう映っているのだろう。それを思うと恐ろしかった。
「見ないで」
至近の距離から射貫くその瞳から目をそらすことができず、代わりに彼女は乞うた。
「お願い、見ないで」
闇の中、自分を見つめる豎眼の下の、ふたつの眼差しはなぜか和らいでいて、それが妲己には信じられなかった。こんなふうに見つめられたことはなかった。今まで誰も彼女をこんなふうに見つめたものはいない。
そして彼にこんなふうに見つめられた女もまた自分だけだろうと、彼女は確信する。この憐れむような笑みの中に籠められた合わせ鏡のような理解と同情の全て。これは自分だけのものだと。
———あなたと私は、同じ。同じイキモノ。
そうしてやっと彼女は自分の中にある怖れを安堵とともに受け入れる。その瞬間、彼女の迷いは姿を消した。
原始の海に抱かれるように彼女は彼の腕に崩折れていく。
古き殻を捨て、彼女はまた新たな生を得る。

もう二度と、朝など来なくてもかまわない。
彼で満たしたこの躯だけがあれば。彼の腕、彼の声、彼の眼差し。その全てに包まれていれば。
そう願いながらも、目覚めれば補完された自分がいることを彼女は確信していた。