『ねえ君僕と結婚したら、すばらしく語呂のいい名前になりやしないかい?』
 それがプロポーズの言葉だったと聞いている。

 自分が結婚したら、どんな名前になるだろう。
 生まれた時から名乗っている、パイロープ・プフトよりも語呂がよくって呼びやすい名前ってどんなんかしら。

 長い長いジールの冬も終わりに近づいて、晴天と呼んでさしつかえない日がここのところ続いている。雪解けはまだまだだけど、空の青さは確実に期待に満ちた季節を知らせる色。
 そんな日の午後、ふとパイロープは遠い故郷に思いを馳せていた。
 家族のこと、友人のこと、学校のこと、そして王宮で学んだ日々のこと。
 諸々の事情で半ば意識して遠ざけてきた想い出だったが、すべての事件が一応の収束を見せたいく中で、パイロープ自身も少し落ち着きを取り戻し始めていた。
 そんな中で思い出した他愛もない恩師とのおしゃべり。

 パイロープは自分の名字があんまり好きではない。名前と会わせて三つも「パ」行があってなんだか道化師じみているし、発音しづらいし。だからもし自分が結婚して姓が変わるとしたら、もっと語呂がよくて呼びやすくてしかもなんかこーセンスいいーって感じの名字がいい。

 パイロープには上に姉が二人いて、それぞれもう結婚している。
 いちばん上の姉はペネローペという名で、嫁に行った先の名前はアトワイトだった。ペネローペ・アトワイト。いい感じだ。でも組み合わせという点ではいまいちかもしれない。ペネローペと、アトワイト、ではいかにもとってつけたげな気がする。も少し韻を踏んだ感じがいい。
 2番目の姉はプリネーラという名前で、今の姓はオールズ。プリネーラ・オールズ。まあまあいい感じ? けどちょっと地味? どうせならも少し長めの姓でもいいんじゃない?
 ・・・などと姉と義理の兄が聞いたら怒るか呆れるかしそうな埒もないことをぐるぐると考えていると、自分の馬鹿さ加減がいいかげん嫌になってきた。
 いけないいけない、学者たるものこんなことでは。
 えいやっと背伸びをして、弾みを付け、思考を切り替える。
 こんなどうでもいいことを延々と考えてしまうのは、多分きっと、

( 考えても、しようがないことなのよねぇ…… )

 それでもふと考えてはなんとかならないかと焦ってしまう自分がいるからだろう、とパイロープは思う。
 だからこういうくだらないことに思考を無駄遣いして、少しでも諦めようとしているのだ。

( こぼれたミルクは元にはもどらない、か・・・)

 ダイヤモンドやジオラルドや、リオ・アースやスマート・ゴルディオンや・・・・あの時世界中でもっとも優秀な魔法使いたちと魔術の宰2人がかりでも、彼を元の姿に戻すことはできなかったのだ。
 ダイヤモンドから手紙で知らされたところによれば、ジオラルドはそれで納得して、新しい「彼」ともう一度友人としてつきあうことにしたらしい。
 けれど、パイロープにとっては。
 トードリアの春の美しさを教えてくれたあの人が、もうどこにもいないのだと。
 そう納得することは未だにできないでいる。

「考え込んでいるところをすまないが、図書館はとうに閉館の時刻なのだがね、お嬢さん」
 背後から聞こえてきた耳あたりのよい美声に、けれどパイロープは振り返りもせず
「ああそう」
 とつっけんどんに返しただけだった。
 どうせ時刻を過ぎたからって追い出されたりしないことはわかっている。
 第一、そんな権限はこの男にはない。

 クラスタ−の帰国後始った一連の内部クーデターとでもいうべき王権交代は、至極穏便に行われたとはいえ、諸処のごたごたが全くなかったわけではない。
 抵抗が激しかったのは政庁・軍部などの表側ではなくむしろ内向きの方で、後宮とそれに関わる外戚関係は隙あらば後継争いを蒸し返そうと狙っている。それに対するクラスターもまた負けず劣らず陰謀世術には長けたもので、そのため現在王宮では粛正と暗殺の小嵐に緊張感が漂っていた。
 そんな中で書庫の管理などという閑職を気にかける者もおらず、前任者の栄転をきっかけにちゃっかりとこの男が居座った。ちなみに前任者とは誰あろう現在の王宮付魔法使い、エデア・タロットワークである。王宮の隅の隅、その膨大にして貴重な資料とは裏腹に、訪れるのは王子であるクラスターとその家庭教師だけという境涯に長年置かれていたこの書庫は、禁断の魔法研究を行うエデア・タロットワークのいわば隠れ処になっていた。
 常から怪しげな場所であったためにエデアが見放した今、誰も管理を言い出す者がおらず打ち捨てられていたのだ。
皮肉ながら、王宮内に居場所のないパイロープも自身の研究のために資料を漁るうち、入り浸る時間が多くなった。この書庫同様、現在の彼女の立場も打ち捨てられたも同様だからだ。
 王宮内に監禁されていた理由を考えればもはやその用はない。けれどだからこそ今更自由の身にするには対面が悪すぎる。国内ならともかくパイロープはれっきとしたラボトロームの国費留学生なのだから。
 もちろんパイロープ自身は「いまさらそんなこと密告ったりしねーわよ」というのが正直な心境だが、それを額面どおりに受け取ってくれるわけはない。クラスターはともかく、ジールの政庁関係者が。
 そんなわけで帰国どころか、学業復帰のめどすら未だにたたない。
 よーするに。

( ・・・・・ヒッマだわ・・・・・・・・・)

 それが今の彼女の、最大の悩みなのである。
 済んだことを、どうにもならないとわかっていてもぐちぐちと考え込んでしまうのも。
 素晴しくよく晴れた晴天の、ジールにとっては貴重な冬晴れの日の午後を、ただ窓の外を眺めてぼーっとしてるだけ、などという若い娘らしからぬ過ごし方をしてしまうのも。

「戻らないのかね?」
 どこに、とは言わず傍らの男が声をかける。
「国に? それとも部屋に?」
「どちらも気になるところではあるが、今の質問については後者だね」
「・・・・・・」
「遅くならないうちに帰った方がいいだろう。今夜当たりまた何か来そうだ」
「何かって?」
「人か、呪詛か、その両方か」
 どうして分かる、とは問わなかった。実のところ何度か目撃し、その度に救われている。
静かな王宮内を密やかに動く影に怯えて立ちすくんだ夜。何も見ていないようで全てを見通しているかのように、この男はいつも静かに彼女の傍に現れた。
 それでも素直に礼を言う気になれないのは何故なのだろう。
 そしてそれでもこの男は気を悪くすることがない。
 いやむしろだからこそ恩義を感じないのかもしれない、と彼女は思う。どんな場面に出くわしても、この男はすべての処理を片手間にやっているだけ、というそんな平坦さが全体に漂っていて、パイロープの恐怖などどこ吹く風なのだ。守られてはいるが気遣われてはいない。そんな気がする。

「貴方は戻らないの?」
 どこに、とは言わずやはりパイロープも問うてみた。むろん国に帰れば虜囚の身であることは知っている。だがこの男がそれを厭うているような気はしていなかった。
 エデアに解放を申し出られた時も最初は断ったと聞いている。
 もうどうでもいいから、と。
「何もすることがないからね」
 どうとでもとれる返事をこの男は返した。部屋に戻っても、国に戻っても。なにもかもがどうでもいいのだからね。
 ああそうでしょーとも。
 パイロープは乱暴に思考を投げ出した。
 だからこの男と話すのは嫌いだ。きっとパイロープの謝意なんてこの男にはどうでもいいもののひとつだ。どうでもいいことならどうにでもなれと思う。
 バッカらしくって、バッカみたいで、やってられなくなる。
 どうしようもない倦怠感に脱力し、悩んでいた自分に軽く自己嫌悪した。馬鹿みたいな男に馬鹿にされてる自分がどうしようもなく馬鹿らしい。ああ。
 もう笑うしかなかった。

 大好きだったあの人は、もうどこにもいない。雲を通ってきた明るさは、もはや空へは帰ってゆかない。どんなに美しくても。どんなに澄み渡っていても。どんなに愛しくても。悲しくても。
 どうにもならない。

 

 笑いながら急に泣き出したパイロープに、ユーナーンは久しくなかった驚きを感じていた。
 逆境に置かれれば泣き出すよりまず怒りだすのが彼女だ。
 こんな不安定な感情の起伏はらしくないと言える。
 どうしてよいかわからなかったので、結局放っておくことにした。
 なんだかわからないが直接の原因は自分ではないことだけは確信がある。ならば彼に出来ることは何もない。落ち着いた頃合いを見計らって理由を聞いてみようと思うに止め、彼は中断していた片付けを再開した。
つまり彼なりに心遣いはしているわけだが、いかんせん判断も行動も合理的に過ぎるのだ。
 そんな割り切りのはっきりした性格が仇になって、彼女の誤解を生んでいることに彼は気づいていない。

 パイロープにとっては今更かよ、と思うような頃になって男が尋ねてきた。
「どうしたのかね?」
「・・・なんでもないわよ」
 ひとしきり泣いたらいくらかはすっきりしていた。
 涙には自浄作用があるという。しかしなぜか目の前の男への反感だけは洗い流されてくれないようだ。
 去って行くのは悲しみばかりなのだろうか。
 ふっとため息をついて、机の上に散らばる本に視線をやる。
 午後一杯かけて考えていたことと言ったら埒もないことばかり。

「・・・そーいや何考えてたんだっけ」
 乱雑に並んだ本のタイトルを追っていると、なぜか研究とは関係のない書物ばかりが多い。
「紋章学と貴族系譜の在り処を聞かれた覚えがあるが」
「紋章学・・・・」
「いつから家系学までやるようになったのかね?」
「んなわけないでしょーが」
 だが、結構熱心に調べた記憶はあった。なんだっけ。何考えてたんだ自分。
 うーっと意味なく唸って3秒後に、あっと解答に思い当たった。
「そうだった、プロポーズ」
「誰に?」
 思っていたよりも素早く反応が返ってくる。
「じゃなくて、名前よ名前。結婚して姓が変わったらってそういう話」
「誰が」
「あたしが」
「いつ?」
「予定なんかないけど。そういう話があったらって・・・あーもう、いいわよ。笑ってくれて。説明すんのめんどくさい」
 午後いっぱいかけて貴重な資料を漁ってやってたことが、6歳の子供が考えそうな「結婚したら話」なんて口にしたら急に恥ずかしくなってきた。

(  パイロープなんて変な名前じゃなきゃよかったのよぅ・・・  )

 挙句に言い訳すら6歳児並みだ。
 気がつけば、座り込んだまま頭を抱えるパイロープのことはどこ吹く風で、ユーナーンは机の上に散らかった本を集めている。
 自分の悩みなど、結局この男にはどうでもよいことなのだ。それが生死に関わるものだろうと幼稚なタラレバ話だろうと。
 もやもやした何かに捕われそうになり、ふっと力を抜いてその背をしばらく見つめていた。 半分以上を片付け終わったところで、ふと思いついて尋ねてみる。

「ねぇ、あなた下の名前は?」
 彼女と彼は正式には名乗り合っていない。それで今日まで知らなかった。
 対する答えは簡潔だった。
「ああ、姓はない」
「ない?」
「必要なかったからね」

 それが? とでも言いたげな声だった。
 実際大したことでもないらしい。少なくとも彼の中では。
 何か言いかけて口をつぐんだパイロープに、ああ、と気づいたように付け足す。
「珍しいことでもないのだよ。私の育ったところは全員がそうでね。閉鎖的な場所で、一族全体でひとつの家族のような集団だったし・・・放逐された王家への処遇として家名は捨てさせられていたらしい。旗印に担ぎだされることを防ぐ意味もあったのだろうな。だが、なくても別に困らなかった」
 声は淡々としていて他人事のように響く。
 なくても別に困らなかった。
 どんなつながりも、この男には。

「・・・アンタみたいのが魔王だったらよかったのに」
 思わずつぶやいた言葉に、姓なき男が振り返った。
「それはどういう・・・」
「アンタみたいのが魔王だったら、きっと誰も悲しまなかったのに」

 ひどい言葉だと、自分でも分かっていた。
 わかってる。私は間違っている。それがわかっていてやつあたりしている。
 ひどい、ひどい、ひどい、女だ。最低だ。
 胸の中に鉛を飲んだみたいな気分だ。ぶん殴りたい。自分を。

「私が魔王か」
 パイロープの自己嫌悪はどこ吹く風で、男は腕を組んでやや思案する。
「・・・そうだな。他になり手がいなければ、それもよかったな。だが挙手したところで替われるものでもない。支柱の条件付けが何なのか知りたいな。それがわかればなんとか・・・」
 興味を引かれたのか本気で研究を始めそうな男に、パイロープは弾かれたように立ち上がっていた。
「う、うそよう! 本気で言ったんじゃないから!! やめてよ、そーゆーのにマジになんの!」
めぼしい資料を漁り始めた腕を慌てて引き止めると、男は心底不思議そうに尋ねてきた。
「しかし、それが分かればなんらかの解決策は引き出せるだろう。琥珀楡もそのひとつだが、それ以外に対処策を用意しておくのは別に悪いことでは」
「そりゃそうだけど、アンタの場合やれるとなったら躊躇わなさそうでヤなの! きっと誰にも相談せずに決めちゃうでしょうそういうことを」
「・・・そうかね」
 眼を泳がせて、はぐらかした答えが、その通りだと告げている。
「アンタもう、魔法使いやめなさいよ! もっとこう、害のないような学問とか、工芸とか、料理とかそういうのやっててよ! ああもう・・・なんでそんなに物騒なんだかなぁ・・・」
 そう、物騒なのだ実際。
 この男の場合、善悪の基準とか、判断の振幅とかが激しく常軌を逸脱している。
 自分一人の範囲で被害が収まるならともかく、周囲を巻き込んでも平然としている神経の図太さはヌホの一件で証明済みだ。というか巻き込んでいるという自覚すらない。
 確かに魔法使いとしては一流なのかもしれないが、その前に人間としてどうなのだと思う。
 医者にもよくこんなのがいる。患部が治れば患者は死んでも構わないというタイプ。

 思わず滑らせた言葉に一瞬黙り込んだ男は、パイロープが顔を上げたとき意外そうな顔で彼女を見つめていた。
「・・・・驚いたな。私にそれを言ったのは君が二人目だよ」
「二人目?」
「ああ。彼もそう言っていた。私に向いているのはパン屋か建築家だと。そのときは何を馬鹿なと思ったが・・・君もそう言うのなら、案外そうなのかもしれないな」
「・・・どこの誰だか知らないけど、達見だと思うわ・・・」
 とりあえず魔王の一件からは興味が逸れたようなので、パイロープは安心して脱力した。疲れ果てたように壁に背を持たせかけると大きくため息をつく。
「そうだな」
 ふと笑ったその顔は意外にも潔かった。魔法使いである自分に些かのこだわりもないような顔。
 珍しくすっきりした笑い方だったのでふとまじまじと見返してしまった。
「・・・ホントにやめるの?」
「さてね。まだ決めかねてはいるが。やめるのは易いことだがそれでどうするかが問題だろう」
 だから専門外の本を相手に図書室なんかで時間をつぶしている、と。
 どうやらそういうことらしい。
「・・・いいんじゃない? そういうことならあたしも手伝うわよ。あたしんち結構手広く商売やってるし。手始めに大工なんかどう?」
 冗談半分に言ったセリフに、相手がまともに返してきた。
「君の家に就職か? それも悪くはないな」
「でしょう?」
 知らず顔が緩んでくるのがわかる。
 どこまで本気かわからないが、この男の中で何かが変わりつつある。それがうれしかった。

「そうなるとやっぱりちゃんとした名字をつけないとね。下の名前がないと何かと不便だし」
 ふざけてテーブルの上に広げたままだった「家系大全」を取り上げてみせる。
「ぴったりの選んであげる。どんなのがいい?」
「まあ、任せるよ。午後いっぱいそれに時間を費やした君の努力に期待しよう」
「?」
「そのうち君の名字にもなるかもしれないだろう?」
 言われた一言を反芻し、目の前の男を凝視する。
 男の表情は、普段と何も変わりない。
 倦怠と好奇心が半分ずつ同居した淡い表情と、気まぐれな猫のような眼。
「あくまで可能性の話だよ?」
 他人事みたいに付け加えたその口調がとても愉しげなのはいったい何故なのか。

( 馬鹿みたいなこと考えてたから、馬鹿にされてるんだわきっと。)

 そんな風に結論づけて、無理矢理頬笑み返した、とある雪解け間近の日の夕暮れ。