思い出すのはいつも、笑っている顔と、澄み切った瞳。

金魚

 玄関先に置かれた金魚鉢の中で、あって当然のものが泳いでいる。澄み切った水の中を赤い金魚がひらひらと。
 吐き出す息から小さな気泡が3つ。浮かび上がると同時に小さな波紋ができて消えた。
「美蘭。いつまでも見ていないで、食事をとりなさい」
「はぁい。お父様」
 本当は父ではないその人を、美蘭は相変わらず父と呼んでいる。結婚したその日に、この人が今日から君のお父さんになるんだよと木島に紹介された。
 結婚したら、お父様と旦那様がいっぺんにできた。
 そして美蘭は未だ父と呼ぶその人といっしょに暮らしている。
 結婚したのに、お父様と暮らしているのはへん?
 いつかそう、あの人に尋ねたら、いいんだよと彼は笑っていた。
 笑顔とともに細められた瞳は透明なガラス玉のような光彩をしていた。

「まったく一橋君も勝手なものだね」

 向かい合って座って食事をとりながら、父となった人がため息をつく。
「ひさしぶりに帰ってきたと思ったら、あんなものだけ置いてすぐ帰ってしまって」

 あんなもの、とは美蘭が先ほどまで見ていた、玄関先の金魚鉢だ。
 金魚といっしょに彼が手ずから運んできた。
 やあ、美蘭。久しぶりだねいい子にしていたかい、と笑って手渡した。
 まあ可愛い。そう言って受け取ったときには既に美蘭の関心は金魚にしか向かっていない。
 そのことを見透かしたかのように、彼はそれ以上美蘭に声をかけず、玄関口で父に何事か挨拶してすぐ退去した。
 父の話ではまたすぐに内地に戻ったそうだ。
 だが、今、父に「憑いて」いる美蘭にはそのことについて何ほどの感慨もない。
 彼女の存在意義は、今目の前にいるその人の「役に立つ」ことだけしかない。
 そういう意味で考えるならば、本来もっとも寄り添わなければならないはずのその人に、美蘭は一度も「憑けた」ことがなかった。

 以前。
 それまでと同じように、彼女は彼に憑こうとしたことがある。
 けれど彼は笑ってそれを拒絶した。
 頭をなでる彼の瞳は、光を通す澄んだ色をしていた。
 何もかもを通してしまう、何も留まらない澄んだ色。
 その時なんとなくだけれど、彼が結婚したときに彼女に「父親」を用意した理由がわかったような気がした。

「いいのです。美蘭にはお父様がいれば」

 全く、夫のくせにけしからんと未だ憤慨する折口に、美蘭は笑って箸を進めた。

 玄関口では赤い金魚が揺れている。
 澄み切った水の中で生きていける金魚が、美蘭にはうらやましくて仕方がない。