午前6時。目覚しが鳴って目が覚めた。
誰かの夢を見ていた気がするが、目覚めた後にはもう何も覚えていなかった。
儚い、きれいな夢だった。そんな不可逆の余韻だけが残っていた。

寝起きは自慢じゃないが、いい方だ。
軽やかな音を立てるベッドサイドのスイッチを押して寝返りをひとつ。
「………はあ…」
ため息ともつかず、肺の中に残った昨日の残滓をはき出すようにしてえいやっと体を起こした。
寝起きはいい。でも朝が気持ちいいと思うほど爽やかな気分でもない。
カーテンを開けて部屋に光を入れながら、今日も始まる変わりない一日を思った。
不快でもなければ、多分愉快でもない。
刺激のない、でも平穏無事な毎日。
結構なことじゃないか、と自分を納得させて、冷蔵庫からジャムとヨーグルトを取り出し、簡易の湯沸かし器をセットした。
朝は紅茶。
卒業して新しい暮らしを始めてから決めたマイルールだ。
お湯が沸いて茶葉が踊る時間の間に、パンも焼けて、我ながら効率的な時間配分だと思う。
長い間同じことを続けていると、自然と起こる最適な動作適合化。
……そんな大げさなもんじゃないけど。
肩をすくめて横目で時間を確かめて、出勤時間までの残り時間を逆算した。
いつも通り。予定通りのスケジュール。
何の予兆も感じられない、朝の風景だった。
通勤途中の列車の中で、久しぶりにマキノからのメールを受け取った。
『ヤッホー、ナギ元気? 今度の金曜、そっちにセミナーで行くから会わん?たぶん6時には上がれます。』
会わなかった時間を感じさせないメールが彼女らしい。
故郷に帰ってしまった彼女と会うのは大学卒業以来実に2年ぶりだ。
時々メールでやりとりはあるものの、実生活で顔を見る機会はそうそうあるもんじゃないので、すぐに返事を出した。
『久しぶり。金曜なら私もOK。終わったら連絡ください。』
送信完了のシグナルを頭の片隅に感じる。まばたき一つの間ですべてが完了だ。
昔に比べれば私もマキノも情報場の使い方はかなり熟練したと思う。メールもネットももうイデアというデバイスに頼ることもなくなった。もっともこれは二人に限ったことでなく、そこかしこでそういった技能を身につけた人間は存在している。とくに若年層に。
パスカルという特殊な機関が一応の成功を収めたと判断された後、全国のそこかしこに同じような教育機関ができ始めた。最初は大学内の教養課程という形で。その後専門学校的な広がりで。今では普通高校の教育課程にそれを取り入れようという動きもでている。
それがいいのか悪いのか自分にはわからない。ただ人は便利なものに飛びつく。そのうちこれが「普通」のことになるのだろうと朧気ながら想像はついた。
ちょうど今はその過渡期だ。情報場を使える人間、使えない人間、その間の格差を埋めるデバイスやアウトプットの機能はまだ必要とされていて、私が勤めているのもそんなデバイスを製造・販売している会社のひとつだ。
今のところ会社に貢献している、という実感はまだない。開発部の研究員の一人、肩書きもない、実績もあまりない、ただ十数人という決して多くはない部署の一員であるという、そんな立場。
自分がそんな進路を歩むとはまだあの頃は考えもしていなかった。
以前と比べれば遙かに考えることは増え、責任を負うことも多い立場だというのに。
今一つ充実感や達成感といったものを感じられないのは何故だろう。
仕事に対する熱意が薄いのかな? と反省してもみたが、結局のところパスカルで学んでいた頃と比べてもその状態は変化していないと思われた。
もともと私は何かに情熱を傾けて熱中するような性質ではない。
自身の、人生に対する熱の薄さは自覚があった。
それ以上に。
あの、彼と過ごした不確かで非現実的な刹那の時間が、唐突に断ち切られたあの時から。朝倉渚という人間には、生きている、という現実感が、あまり、ない。
(……でもだからって、悪いことじゃないよね、たぶん)
思い直し、現在の時間軸に思考を戻す。
狂奔する熱は触れれば触れるほど、自分には違和感しか感じられない。俯瞰の渚は常に存在している。自分の中に。
もしも、自分が何かに無我夢中になって我を忘れるような時があるとして。
それでも多分、どこかでそれを遠くに見ている自分がいるのだろう。その視点を持つ自分がいるかぎり。
(あの人を見失わずにすむ)
そんな気が、している。
***
日阪道理という人間が、渚の目の前から姿を消したのは、パスカルで10グレードと呼ばれる学年の夏のこと。
夏休み前までは確かに在籍していた彼が、9月の始業日の朝にはもういなくなっていた。そこにいたという軌跡すら残さず。そんな人間は最初からいなかったのだというような顔でパスカルは彼の消失を正統化した。
パスカルはもともと人の出入りの激しい教育機関だ。中途入学者も多く、留学生も多く、その分やめていく人間も多い。情報場という理論と実践が途上段階にある学問に対し、ついていけなくなる者、ここで学ぶべきことはなくなったと思う者、理由は様々。
人間関係も希薄で普通の学校のように部活動や文化祭・運動祭といった行事ごとも、クラス同士での共同イベントのようなこともない。そんな意味で誰が増え誰が姿を消そうがあまり気にされない場所であることも確かだった。
だから彼が消えたことに対してもまた。
渚以外でショックを受けた人間も、いなかっただろう。
マキノはさすがに気にしていたけど、それはどちらかといえば自分に対する心配だったと思う。
渚になにも言わずにパスカルをやめたという、その一点で。
何度、何を思い出したところで、彼に別れの予兆は見えなかった。
夏休み前、どこかに行く予定はあるかと聞いた。彼は特に何もと答えた。
だからといって、じゃあどこか一緒に、という話はお互いから持ち出されることはなく、新学期にまたね、という挨拶をして別れた。
実のところ、ほんの少し、期待はしていたけれど。
長い休みの間、連絡を取ってみようかと思ったこともあったけれど。
結局のところ、何もせず、何もできずに、一月あけた後のパスカルに、彼の姿はなかったのだ。
自分でも意外なほどの喪失感。
その一方で、俯瞰の渚がどこか納得したような諦念をもってそれを受け入れていた。
いずれは去っていく人だった。そんな予感は、確かにあったのだと。
スナフキンみたいな人やったねぇ。
マキノの言った一言に、不覚にも笑ってしまった。
笑ってしまえる程度には、予感があったのだと。
今となっては、そう、思う。
戻ってきたデバッグの報告書を確認し、修正個所の優先順位を決めてスケジュールを組み直す。商品開発の試作モデルを作るのが今の部署での主な仕事だ。たまに開発会議などに出席しても、概ね企画案は主任クラス以上の人間や外部の開発会社から持ち込まれた提案物件の精査なので、「開発部」という言葉の響きから連想されるような仕事は、今のところしていない。
いずれはそんなことをするようにもなるのかな、とぼんやり思うが、それほどの野心がないのも事実だった。不良社員としかいいようがない。
事務案件のように作業をこなして、本日の仕事は終わり。時計を見ればちょうど5時半で、マキノとの約束にも十分間に合いそうだった。
「ようナギサ、今上がりか?」
タイミング悪く降りていったエレベータを待っていると同じ開発部の先輩に声をかけられた。
実を言えばパスカル時代の先輩でもある。
矢野・宏さん。開発部におけるエース的存在。……と自分で言ってしまっても周囲から苦笑とともに受け入れられてしまう、そんなところはパスカル時代から変わらない。
「はい。約束があって……マキノと会うんです。久しぶりに」
マキノの名を出したのは、彼が彼女の想い人だったことを思い出したからだ。
パスカルを先に卒業していった彼に、マキノが想いを告げたのかどうかは知らない。
何の相談もなかったのでおそらく何も言わなかったのだろう。行動派に見えて実は臆病なマキノ。
「そうか。久しぶりに聞く名前だな。元気そうか?」
矢野さんの返事は屈託なく、常と変わりなく、つまりはそれが彼の中でのマキノの存在だ。常態で流してしまえる程度の。
「さあ……これから会うんで」
少し冷たく聞こえたかもしれない私の返事も、矢野さんは気にした素振りもなく。
「じゃあな。よろしく伝えといてくれ」
ちょうど戻ってきたエレベータに乗り込むとそう言って手を振られた。
ここで無理矢理でも彼を誘ってひっぱっていくのが友情というものだろうか。それともよけいなお世話だろうか。
多分後者だろうな、と私は思い、職場を後にした。
さっきの伝言もマキノには言うまい、と決心しながら。
「ナギー元気ー!?」
相変わらずのテンションで、マキノは待ち合わせのビルの前で盛大に手を振っていた。周囲の目も気にしない。マキノのこういうところは嫌いじゃない。
「うん、久しぶり……ちょっと太った?」
冗談のつもりで言った言葉に、すばやいボディブローが飛んでくる。
「おお怖い。冗談冗談」
「冗談でも言うてええことと悪いことがあるですよ、ナギさん」
間一髪、手のひらで拳を受け止め、にこにこと、表面上は笑顔で攻防線。こんなやりとりはほんとに久しぶりで、つい心が浮き立つのを感じた。
懐かしい。再会を喜びとともに受け入れることができる人は得難い友人だと思う。
「忙しい?ナギ」
「ううん、、といったらいけないんだろうけどね。それなりに。マキノは?」
食事にはマキノが行きたいと言ったオイスター・バーを選んだ。牡蠣がメインのレストランバーというのは、日本では珍しい形態だ。アメリカやフランスでは
珍しくないと聞くけど、あいにく日本のマーケットで一種類の食材でやっていける店というのはそう多くない。あえていえばウナギくらいか。しかしこの店は開店して間もなく、もの珍しさも手伝ってかそこそこ人も入っていた。
「牡蠣、苦手やなかった?」
「ううん。おいしいよ。パスタもあるし」
「そやね。オイスター・バーやから牡蠣だけかなと思ったけどなんかメニュー見る限りイタリアンって感じやね」
「やっぱ牡蠣だけって難しいんじゃない? 苦手な人もいるだろうし」
「うちは好きなんよ。この冬に広島で食べて以来、カキフライ食べたい病」
「それは治療が難しそうだね」
あはは、と二人して近況を話し合えばその後の会話は自然、パスカル時代のことに落ち着く。
「いろいろあったよねぇ……あんま行事とか少ない学校やったけど、卒業した今はなんとなくそう思う」
「そうだね……今と比べると毎日なにかしらあった感じ」
「矢野さん、元気しとる?」
突然ふられた話題に、やっぱり知ってたか、と軽くため息をつく。
「元気よ。マキノと同じ。相変わらずのテンション」
「そうなん。……彼女とかは?」
わずかの逡巡が彼女の微妙な気持ちを代弁していた。
正直に言うことに躊躇わずにすむのはラッキーだろう。
「いないみたいよ。ていうかデートの相手は毎回替わってる。こないだも新しく入った後輩と食事に行ってたけど、彼女の話じゃ単なる食事会で終わったってさ。話とかおもしろいけど色っぽい感じにならないんで彼氏にはできそうもないって言ってた。きっかけも相手から誘われたからとか、その場のノリでそうなったとかそんなのばっかりみたい。翌日にはデートした相手の名前も忘れてるし」
「モテるんやねぇ。さすがうちの矢野さん」
「そのフレーズ、久々に聞いた」
うちの、と矢野さんの間には多分彼女なりの乙女心がカッコ付きで入るんだろう。
「捕まえがたい人に恋すると苦労が多いよね」
冗談めかして言ってみると、マキノがふいに真顔になって黙った。
「どしたの、マキノ」
「ごめんナギ。うち浮かれすぎた」
神妙な顔で謝られ、私は瞬きを二度。
「え」
「ナギこそ、そんなに簡単に会えへんのにね」
「……何を」
「あれから、連絡あった?」
誰から、と言わずマキノはこちらの視線を逸らして聞いてきた。
「……ううん」
問い返す必要も感じなかったので、私は事実だけを簡潔に伝えた。
「ていうか、忘れてたよ。もう5年も前のことだもん」
半分嘘だが、声に動揺は感じさせていない、そんな自信があった。何度も自分に言い聞かせてきたから。
「そうやね。もう5年になるんやね……」
マキノの声はなぜか歯切れが悪い。
視線はテーブルの上に落ちたままだ。
せっかくのカキフライが、冷めたらおいしくなくなるんじゃないだろうか、と余計な心配をしてしまう。
きまり悪い雰囲気に、白ワインのグラスを手に取った。一口、二口、流し込む間、マキノはまだ考え込んでいる。
「どしたの、マキノ」
「うん。……あのね、……ナギ。今聞いても大丈夫?」
「だから何が」
「うち、さっき見たん」
「何を」
と、聞き返しながら、頭の片隅でシグナルが点滅した気がした。情報場からの干渉ではない。もっと原初の、もっと不可侵の場のどこかから。
「うち、さっきまで東都大学のセミナーに出とったんやけどね、セミナーの後懇親会があるはずで、でもうちはそれを欠席してナギとごはん食べようと思って」
聞くな、とそのシグナルは警告していた。
お前の人生に、狂奔は必要ない。人生を狂わせるような熱は、必要ないのではなかったか? そういう自分の声と重なって、マキノの声がやけにはっきり聞こえる。周囲の喧騒を置き去りにしたまま。
「懇親会は、そのセミナーがあったホテルでそのまま続けて開催されることになっとって。参加者は全員、いったん外に出て待つことになったんやけど。そのせいでロビーに大勢人が出とって」
マキノの話はなかなか核心にたどり着かない。
それは彼女自身の迷いを示していた。聞かせていいのかどうか、まだ判断できないでいる、そんな彼女の。
わかっていて渚は黙っていた。
マキノが止めてほしそうにしているのをわざと無視して、表情を消して、それを聞いていた。
「入口のちょっと脇あたりに立っとった。あんまり目立たんようにしとったけど」
相変わらず、青いコート着とるんよね。
目立たんわけないのにねぇ。
冗談めかそうとして、失敗した、そんな笑顔でマキノは笑った。
私の反応を伺うように、その熱のない笑顔はだんだんフェードアウトした。
心配そうな顔のマキノに笑顔で手を振って、けれど駅までの道の途中で私の足は自然と、マキノに教えられたホテルに向かっていた。
道の左手に煌々とライトアップされた白亜のホテル。再開発の進んだこの地域のランドタワーとして作られたまだ真新しいその建物は、迂闊に入り込めない威相を放っている。
( 今さら、いるとは思わないけどさ…… )
しばらく立ち止まって不夜城のようなその入り口を見つめていると、守衛らしき人がこちらを見ているのに気がついた。
これ以上いたら怪しまれそうだ。
そう思って鞄を背負い直し歩き出す。
( 何やってんだか。 )
諦めの悪い自分を叱咤して、駅に向かおうとした、その矢先。
見覚えのある横顔が不意打ちで目に飛び込んできた。
「……ヒサカ」
つぶやいた一言が耳に入ったとは思えない。
けれどヒサカはこちらを見た。
夜に濡れたような漆黒の双眸。虚ろな空集合。かつてそう呼ばれたあの眼差しのままに。すべての可視光線が反射することなく吸い込まれてしまいそうなその瞳に。
いったい、私はどう映っているのだろう?
***
「……君か」
ヒサカの一言で我に返る。
私が驚くほどに、彼は驚いていない。それがなんだか癪に障った。もっともヒサカが驚きを表に出すことの方が珍しいからこれが常態といえばそうなのかもだが。
それにしたって。
「5年ぶりに出会って、最初の言葉がそれ?」
驚いていないならそれでもうちょっと言いようがありそうなものだ。
久しぶり、とか偶然だね、とか。
「そうだな」
ヒサカはちょっと考え込んで、それから言った。
「久しぶりだ。朝倉・渚さん」
確かめるように私の名を呼んで、そして言葉は断ち切れた。会話を続けようという努力はしてくれているようだが、うまく話題を見つけられないらしい。
……まあそりゃそうか。ヒサカらしいといえばヒサカらしかった。
「うん、久しぶり。今まで、どうしてたの?」
「……その答えは一言で返すのが難しい。あまり話したい話題でもない」
感情の感じられない声だが、断固とした拒否を感じた。以前、彼の右目について聞いたときと同じ。
お前には関係ないと、そう言われている気がする。
それは確かにそうだと自分を納得させていたけど、あの頃のように簡単に受け入れられないのは、ここで終わらせてしまったらもう次がないことがわかっていたから。
「どうして、突然いなくなっちゃったの?」
返ってこない答えを問うことは虚しく、だからこそ今まで考えないようにしてきた問いをぶつけてみる。
「その答えも」
ヒサカの表情は揺らがない。視線と同じように。
「一言ではいえない」
だから私は歩きだした。
距離を詰めて、対峙する。
「じゃあ」
ぐっ、と睨みつけるようにして視線を合わせた。
虚無と隣り合わせでも、境界の狭間に立っていても、ヒサカは私の友達だ。友達だと思っていたのだ。なのに。
「一言でなくていいから、説明して」
眦に力を入れていないと余計なものがこぼれ落ちそうだった。だから私は視線を強くした。
ヒサカは一瞬、ひるんだような顔をしたけど、しばらく考え込んだ後——
「遅くなっても大丈夫なら」
と答えた。
***
幸いなことに週末で、週休二日の会社だった。おまけに一人暮らしだから多少遅くなろうが外泊しようが咎め立てる人間は一人もいない。
だからといって。
この状況はありだろうか。
「紅茶でいいかな」
「……なんでも」
ヒサカが姿を消したのはおそらくキッチンなんだろう。
給湯室、というほど狭そうには見えないからここはやっぱり居住空間として設計されているんだろうと思う。
つまりここはヒサカの、個人的な、住居、ということになる。
ええい何度も確認しなくてももう分かっているだろう。 つまり私は今、ヒサカの部屋にいる。
決して狭くはない、けれど広すぎもしない、八畳程度の空間に、モニタが一つ。それにつながったデバイス(たぶんCPU)が一つ。それらを乗せた机と椅子がひとつずつ。そして意外なことに紙の書籍で埋まった本棚が一つ。後は自分が座っているソファセット。
壁は白く、机も白。ソファセットだけがやわらかな色調のアイボリーだが見ようによってはこれも白。限りなく白い空間にヒサカの青のコートがインクを流したように無造作に投げ出されている。
まさか扉をくぐるまで、ここが彼の住居だと気づかなかったのはいかにも迂闊だ。
しかし長い話になる、と言われてつれてこられたのはどうみてもマンションやアパートには見えない雑居型の高層建築で、まだ真新しいハイセンスなビルのフロアインフォメーションには、私でも名を知っているような有名なIT企業や外資系のインフラ会社が名を連ねていた。
なのに、セキュリティを解除してエレベータで最上階まで上って案内されたのは、頑丈そうな扉に隠されるように作られた階段をさらに上りきった先の、この部屋だったのだ。
反則だ。
ヒサカに限ってまさかと思うけれど、未婚の若い女を自分の部屋に連れ込むということに関して世間一般の常識がないとは言わせない。
がちがちに身を固めて、膝の上にのせた拳はさっきから震えっぱなし。
なのにヒサカは意に介した風もなく、目の前のテーブルに白磁のティーカップを置いた。
ふんわりと、柔らかな芳香に、少し緊張が解ける。
一口、味わって、
「美味しいね」
と口にした。
真向かいに、ではなく少し距離をとった対角線の位置に腰を下ろしたヒサカは黙ってうなずいてみせる。
ヒサカが紅茶党なのは昔からだ。
以前よく連れていってもらったあのティールームを思い出す。
ヒサカがいなくなってからも何度か彼の姿を探して行ったけれど、オーナーの青年も何も知らないと首をふるだけだった。結局、卒業してからは足も遠のいたままだ。
「あのお店、覚えてる?」
私の問いに、ヒサカは首を縦に一つ。
「戻ってきたら、顔を出そうとは思っていた」
「じゃあまだ行ってないの?」
その問いに明確な返答はなかったけれど、その沈黙は二度同じことを聞くなという風に見えたので、同時に二つのことを理解した。
ヒサカは、あの喫茶店にまだ行っていない。つまりそれは、まだ彼がここに戻ってきて間もないということ。
そしてここからかなり距離のある場所にいたのだということ。
「……今までどこにいたの」
その問いに対する答えは、しばらくの沈黙の後にあった。
珍しく彼は答えを探しあぐねているように見えた。というより何かまだ整理のついていないような思案顔だった。
「まず一つ言っておこう……朝倉さん。君に対する危機は去った」
「え」
最初に告げられた一言は、問いに対する答えではなかった。
「危機?」
「定理のことだよ」
その名を聞いた途端、脳裏に広がったのは、あの鮮やかな色彩の赤。
夕闇前の一瞬、世界を染めあげた爛熟しきった陽の色を、すべて集めて凝縮させたような一点。
なのに眼差しはどこまでも怜悧に私を見ていたあの人。
「彼女はもういない。だから君が危険にさらされることはない」
「もういないって……」
「定理は死んだ」
思わず顔を上げたその先に映るヒサカの声にも、表情にも、何も変わったところはない。
ただこちらと視線を合わせない、その瞳の奥に何があるのかまではわからなかった。
「だから僕は戻ってきたんだ」
静かな声色には喜びも悲しみも浮かんでいなかった。
空集合のヒサカ。己の存在も否定してきた彼。
「姿を消したのって、そのせい?」
手にしたカップが熱を失っているのに気づくまで、結構時間があったと思う。
それだけの間、ヒサカも何も言わず、私も混乱した頭を落ち着かせるのに精一杯だった。
日阪定理はヒサカの姉で、その存在を自ら消し去った人だ。おそらくは日阪定理でいること以上の何かになるために。そんな彼女が何を思い、何の理由で実の弟であるヒサカにアプローチをかけていたのかはわからない。
『Alle Menschen werden Bruder.
(すべての人は兄弟となる)』
生まれ落ちたとき、日阪定理の兄弟は、日阪道理だけ。日阪定理でいることを否定した彼女にとって、日阪道理はもう兄弟ではないはずだ。なのになぜ。
答えは彼女の中だけにある。
そしてそんな彼女はもういないのだ。
ヒサカに答えは示されたのだろうか?
それともヒサカにも分からないまま?
「ヒサカは……彼女が死んだとき、そばにいたの?」
ふいに口をついて出た問いは、むしろ聞くな、と俯瞰の渚が止めた問いだった。
聞かなくていい。言わせなくていい。
けれどその声を振り切って、私は口にしていた。
「ヒサカは……悲しんだ?」
答えがあるまで、また長い沈黙があった。
ヒサカは、ヒサカの答えは、まるで何度も反復した答えをさらっているだけのようだった。たぶん、彼自身に問い、彼自身が答えてきた答えの。
「彼女が死んだとき、僕はそばにはいなかった。ただ死んだと、そう聞かされて、証拠も見せられた。それを聞いた僕が悲しかったかどうかは……わからない。
ただ中途半端に放り出されたような気がした。提出し損ねたまま卒業したレポートのようなもので。ただ後味の悪さと、解けない謎が残っただけだ。悲しいという感情は……たぶんなかった」
そうだろうか、と思い、ヒサカの視線を必死で追う。捕らえることのできない場所に、わざといるのだと唐突に気づく。
集合から外れているのは私のほう。
ヒサカの中に入っていけない。
だから私は立ち上がった。
ふいをつかれたようにこちらを見るヒサカのそばに膝を突く。
手を伸ばし、その頬にふれた。
我ながらなんて大胆な、と後になって千回も後悔したが、そのときはただヒサカを捕らえるのに必死だったのだ。
その空集合に、その虚無の深淵の端に立って、覗き込む。怖ろしくは、ないと自分に言い聞かせ。
「ヒサカは悲しんでるよ。たぶん……だけど。だってまだヒサカの虚無は消えていないもの」
「僕の虚無?」
「ヒサカの中はまだ空っぽだもの。たぶんお姉さんが持っていっちゃったまんまで。ヒサカの悲しみも多分そう。悲しくないように心を空っぽにしちゃったんだよ。それくらい、悲しかったんだよ」
「……」
「わかるもの。私もそうだった。ずっと昔、人が、私の目の前で死んでしまったとき。私の世界が揺らいで私の中から何かが欠けていったような気持ちだった」
「……」
「大して親しいはずの人じゃなかったのにね。それでもそうだったんだもん。ヒサカは……きっともっと……」
そこからの言葉は出てこなかった。
アクセスできるすべての情報場をどれだけ検索してもうまい言葉が見つからない。
誰の言葉を借りても、結局は無意味で。
「空っぽ、か……」
ヒサカの呟きは、熱のない乾いた響き。
「そうだろうね。僕は……それを埋めることから逃げてきたから」
否定されるのは、僕だって怖い。
それはヒサカの敗北宣言だったろう。
だって以前、彼は私に逆のことをいったのだ。
自分を否定していい、と。
私はそうしたくなかった。彼と友人でいることを選んだ。今だってそうだ。ならば。
「私は……ヒサカの一部だよ」
否定しないで。
その言葉とともに、私はヒサカを抱きしめた。
彼を満たすことはできなくても、彼の一部になることはきっとできる。
ヒサカの腕が、ゆるゆると、けれど確かに私を抱きしめ返してくれたとき、私はそれを確信した。
翌朝。
目が覚めたとき、私はベッドの上にいた。
といっても、そんな生々しい話じゃない。
いくらなんでも再会してすぐそういう関係になるには、私もヒサカも、理性が勝ちすぎた。ありていにいえば人生に熱を求めない性質なのは二人とも同じで。
深夜、終電も出てしまっている時刻、タクシーで帰るにはちょっぴり痛い出費のこの場所で、ヒサカは自身のベッドを私に提供し、ベッドルームのドアキーの変更権限を渡して自身はソファで寝ると言ってくれたのだ。私としては逆でも全然かまわなかったのだけれど、バスルームがベッドルームに直結していると聞いてそれを受け入れた。
かくして朝。
何の問題も……なくはないが外泊して、身支度を整えそっと扉を開けると、部屋の主は既に起きて朝食の支度中だった。
エプロン姿のヒサカに思わず目を丸くしていると、パンと紅茶、ベーコンと目玉焼き、というごくオーソドックスな食事が用意される。
「すごいね。いつも自分で料理してるの」
「いや。自分だけだったらパンと紅茶だけですませてる。客がいれば作る。もっとも客は君が初めてだけど」
「それ、つまり初めてってことじゃん」
あはは、と笑ったその瞬間、軽やかなチャイムの音が響いた。
唐突な音にもヒサカは驚いた風もなく、「ちょっと待っていてくれ」と言って席を立つ。
待つことしばし、おそらく来客だろうと食事を続けていたら、なんとその相手が部屋まで入ってきた。
まずい、と思ったがもう遅い。
というか向こうの方がよほど驚いているのがよく分かる。
決まり悪げに頭を下げて、ヒサカの方に視線を泳がせている。
対するヒサカは相手の動揺などどこ吹く風だ。
机の上に置かれたデバイスに、メディアを挿入し、何かコピーした上で相手に手渡す。
未だにメディアで手渡し、なんて手段がまかり通っていることに驚く。しかもよりによって日坂道理がそれを許すとは。
「いや、助かったよ。さすがに処理が早いな」
そう言って受け取った相手はヒサカの返事も待たず、そそくさと部屋を出ていった。おそらくは私に遠慮しての故だろう。否定するのも変なので黙ったままひたすら紅茶に集中して興味深そうな視線をシャットアウトした。
相手が出ていった後、恨みがましい目で見ていることに気づいたが、ヒサカが弁解する。
「仕方ないんだ。情報場に展開できないようロックされた情報は未だに存在していてね。古い時代の著作権とかなんとか……既に法が改正されて情報場開示の認可が降りていても既得権益を守りたい連中はどこにでもいるから」
「そういうことじゃなくって」
「……」
視線を逸らした沈黙が、わざと話題をはずしていると分かる。分かっていて下手な誤魔化しをしているわけだ。
「逃げられると思ってるの?」
「別に何も逃げてはいないが」
「きっと誤解したよ、あの人」
なにせ一人暮らしの男の部屋で、同年代の女が朝食を食べているのだ。誤解するなという方がおかしい。
「君が困るというなら、彼には口止めしておく」
「や、私は別にあの人とは面識ないから大丈夫だと思うけどさ」
ヒサカが誤解されるんじゃないの、と付け加え残った紅茶を飲み干した。そのタイミングを見計らうように、
「……僕は別に困らない」
ヒサカの答えに、思い切り噎せそうになって呼吸を止める。
冷静な横顔にどういう意味かと問いかけ直そうとして……止めた。
まだもう少し。
ようやく居場所を見つけた空集合の、小さな点のままでいたかったから。