思うに。
 ソファの上で眠るのは習慣のようなもので、それ以上の意味はないと思っていた。
 わざわざ寝室のベッドの上に引き蘢って寝るほどの睡魔に年がら年中襲われているわけでもないし、誰か来たり、電話が鳴ったり、何か用事を思いついたりしたらふらりと起き上がれるぐらいの場所。そういうところで行うのが昼寝というものだろうと。
 だからこうして彼が昼間から居間のソファで寝転がって瞼を伏せているからといって、夢を見るほどの深淵な眠りに落ちていることはまず滅多にない。
 滅多にはないが・・・・たまにはある。
 しかも、そういうときに見てしまう夢というのはだいたい決まっていた。
 過去の夢。
 
 とりとめもなく繰り返される過去の情景。記憶の端々に残る笑いかける口元や指先の動き。
 なぜだろうか。そんな断片は繰り返し出てくるのに、肝心の表情や全体像は見えて来ない。
 自分の見る夢なのだから当たり前だが、「彼」と会話を交わしているらしいシーンが出てきても、自分や彼の表情はおろか、耳にしているはずの声も頭の中には入ってこなかった。
 
影絵のような想い出の情景。伸ばされる手、かつて住んでいた家、歩いて通り過ぎる景色もどこか薄い膜の向こうにあるような。
 ごく最近の断片もある。フィリシスの館に住んでいた頃の記憶。無気力に怠惰に彼女の後について魔族を狩っていた頃。他愛ない午睡の後の戯れ、逆行を背にした彼女の表情。
 カペルと出会った頃の記憶は特に情景の移り変わりがめまぐるしい。悲嘆も憎悪も置き去りにした静かな表情のカペルがいる―――いるはずだ。なのにやはりその顔ははっきり思い出せない。
 夢だからか。
 そんなふうにぼんやりと思う。
 夢には本来色がないのだという。
 目覚めた時に思い出す、その夢が色鮮やかなのは脳が記憶をたよりに補った結果であるらしい。
 夢は無彩色だ。それで正しい。
 
 ならば現実は?
 
 彼の脳の片隅に置かれた様々な過去の断片。
 眠りの中で見る夢だろうと、目覚めて思い出す記憶だろうと、たとえたった今目の前で起こった出来事だろうと。
 過ぎ去ってしまえばすべて同じだった。終わってしまえば何もかも。
 彼の脳は偉大な、怖るべき力で、彼の全ての記憶から速やかに色と感情を抜き取っていった。
 さながらレテの川の渡し守のように、彼の中に流れ込んできた現実の事象の全てから、感情という夾雑物を排除し、分断し、やがて忘却させる。まるで彼の体験したことではないように。そうすることで彼を何かから守るように。
 たまにほんのわずか、感情の残滓のようなものが残ることはあったが、それを彼が思い出すことは稀だった。
 カペルの時間が、両親の死によって止まったように、彼の時間もやはり「あのとき」から秒針を進めることを止めた。
 それ以降の彼の生は、あの最後の瞬間が永遠に引き延ばされたような、映写に失敗して巻き違えられた古いモノクローム・フィルムのようなものだった。

 ずっとそう、思っていた。
 

『まるで、醒めない悪夢の中にいるみたいだね』
 彼を側に置きながら、フィリシスは一度笑いながらそう言った。
 そういう彼女にとって、現実は何度も上演されて飽きられた三文芝居のようなものらしかった。
 
『レイオット。これが憎悪というものですか』
 彼女の問いに、彼は答える術を持たなかった。
 彼の中で、それらはとうに抜き取られ、どこか彼の知らぬ場所に葬られていたから。
 彼が彼女と共有できるのは、喪失の痛みだけだった。それも諦念の入り交じった、取り戻そうとも足掻けぬ類いの。
 
 だから、現実も、目覚めて見る夢のようなものだと。
 ずっと、そう、思っていた。

「・・・タインバーグさん! スタインバーグさん!!」
 
 ふいに耳を打つ声に瞼をあげれば、ソファの上から覗き込んでいる呆れまじりの怒り顔があった。
「・・・もう! また昼間から。 ほら、起きて下さい!!」
 目覚めを促すその声はまだ遠くから響いているように聞こえている。
 2、3度まばたいて、彼はようやく現実に似た何かを取り戻した。
 それでも体を起こさぬまま、視線だけ動かしてみればもはや見慣れた魔法監督官の、生気に満ちた表情に行き当たる。肩口から落ちる、栗色のつやのある髪と、大きめの藍碧の瞳。
 室内のライトの逆光で影になっているはずなのに、なぜかはっきりとその色が目に映った。
 夢に色はなくて、それは記憶が補うのだ。身近なものほど色鮮やかに。
 
「スタインバーグさん?」
 
 いつまでも反応のない彼に、不審を抱いたか、身を乗り出すようにしてその瞳が彼を凝視する。
 きれいないろだと、ぼんやり思った。
 思わず、触れてみたくなる。