
「手伝って頂戴」
いつかどこかで聞いたような口調で、ナレア・シモンズ嬢は彼の鼻先に指を突きつけたり・・・はしていなかった。
なごやかな初春の昼下がり。
申し分もなく昼寝日和なその日に、前触れもアポもなく訪れた彼女は、レイオットの定位置である居間のソファの対面に姿勢良く腰掛けている。
その表情はごくごく当然、といった自信のようなものに満ちており、しかしながらその自信がいったいどこからくるのやらレイオットには今ひとつ意味不明だった。
「・・・・・・」
寝っ転がっていたソファから身を起こしただけの彼の姿勢は、彼女とは対照的に端的に言って「だらしがない」。
ずり落ちかけたサングラスをそのままに、幾分寝ぼけ気味の目を(もっとも彼の表情は年がら年中茫洋としていて事情を知らぬ者には寝起きと間違われやすいのだが)、3度まばたいた。
傍らで香茶を煎れていたカペルテータも、その表情は動かぬまでも、戸惑いを隠せない証拠にカップを差し出しかけた姿勢のまま動作を止めて、彼女を凝視している。
「あー・・・・何を?」
いつまでも黙ったままでいたらまた何かしら怒られそうな(というほど会っている時間が多いはずはないのだが印象として)気がして、レイオットはようやくそれだけ言った。
途端、やはりというべきか彼女は苛立ったように眉を寄せる。
「いったい今まで何聞いてたのよ?」
当然ながら、ナレアは冒頭の台詞を以前のように開口一番で宣告したわけではない。
いくら人生直球勝負のような彼女でも、事情も語らず手を貸せなどと無理を通すような躾は受けていない。たとえ相手がいかに社会的にはヤクザ同然の無資格魔法士とはいえ、そんな無遠慮かつ無分別な振る舞いをすれば、まず間違いなく姉の鉄拳が落ちる。
従って、彼女は彼の家を訪れるにあたってきちんと手みやげを用意し、アポをとらず押し掛けた無礼を詫び、久々の再会に対する喜びと以前の礼を述べた上で―――前後の事情を説明し、冒頭の依頼につなげたわけである。
―――なのに、この無気力無資格魔法士ときたら!
昼間っからソファで寝っ転がったままという怠惰っぷりだけでも許せないのに、人が延々と説明したことを無視して「何を?」ときたものだ。
「いや・・・今までの話は幾分理解はできてるつもりなんだが」
「じゃあ何がわからないのよ?」
「君が、トリスタンの大学に無事合格できたことはわかった」
「そうよ」
「その点については素直に祝いを述べさせてもらおう。おめでとう。君の人生に幸あれ」
台詞とは裏腹になんとなく馬鹿にされているような気がしたので、ナレアはやはり半目で返した。
「どうもありがとう」
「ま、今後も頑張ってくれ」
「ええ。無事魔法監督官になったあかつきにはどうぞ宜しくね」
この切り返しには多少の効果があったらしく、レイオット・スタインバーグはわずかにうめくような顔をした。
いずれ姉妹揃って書類片手に追いかけ回される日々が来るかもしれないと想像してしまったせいだろう。
「で、こっちに引っ越してくると」
「そうよ。姉さんといっしょに住むの」
「シモンズ監督官の食生活が少しは豊かになるってことだな」
以前、料理が不得意な彼女が、「もっぱら家事は妹がやってくれていた」と漏らしたことを、彼は覚えていた。余談ながらフィリシスの家に半年近く居候しながら、彼女の実家の商売が何かすら覚えていないレイオットにしてみれば、こんなどうでもいい「他人様んちの家庭の事情」を記憶域に置いていたというだけでも異例のことである。
「だから、手伝えって言ってるのよ」
・・・と、ここでまたしても冒頭の話に戻ったわけだが・・・。
やはり、見えない。彼女の言わんとすることが全然。
「・・・ええと、家事を?」
話の流れを類推した結果、よもやの結論を口にしてみたが、その途端今度はナレアの方が思いっきり馬鹿にしたような顔になった。・・というより、ひょっとしてほんとに馬鹿じゃないだろうか、という心配と疑念の顔になった。
「誰が家事の手なんか借りたいって言ったのよ。貴方の手を借りるくらいならシャロンに借りるわ。悪いけど」
猫の手以下、と断言されたが、それで怒りを覚えるような自尊心は彼にはなかったので、もう一度、
「じゃあ何を?」と問うた。
返ってきた返事はやはり単刀直入。
「だから引っ越しよ」
***
ネリン・シモンズ監督官は、いわゆるところのエリートである。それにふさわしく世間一般の同年代の女性よりは高額と言っていい月収を得ている。
しかしながら彼女はその努力の結果としての僥倖に預かると同じくらい、苦労多き身だった。母子家庭の上に、父親の残した借金もあり妹や自身の学費の返済もありで、かなりの額を実家の仕送りに当てている。
従って、自分の身の回りの贅沢ということには一切縁がなく、今まで住んでいたのも公職員用の官舎の中でも最も安い1LDKの、しかもトイレ、バス共用という独身寮だった。
だが、ナレアが上京することで事情が変わった。母親も実家の祖父母とともに同居することになったため、今まで住んでいた田舎の借家を引き払い、その家賃の仕送り分が減ったため、ナレアとともに2人で住める3LDKのアパートに引っ越すことになったのである。
「そういうわけで、来週の日曜日に引っ越しなのよ」
「いやまあそれは分かったが」
「なら何よ。デートの予定でもあるの?」
「あるかそんなもん」
脱力したように切り返したが、それはデートの一言よりは目の前に座る彼女の、ごく当然、と言った態度が主な原因である。
「俺の職業は戦術魔法士であって、引っ越し業者じゃないんだが」
「無資格のくせになにえらそうなこと言ってるのよ。世間的にはね、あなたは「無職」の、つまり昼間っからだらだら寝っ転がってるだけの、ヒマ人よ。」
「・・・・・・」
それは確かにその通りだったのでレイオットは沈黙する。
だが了承したわけではない証拠に、その表情は気乗りしないままである。
「普段、姉さんにあんなに世話になってるくせに」
だめ押しのようにナレアが言った。
「こんなときくらい役に立ちなさいよ」
だから、手伝え、と。
それが彼女のこの半ば強制的な依頼ごとの根拠であるらしかった。
レイオットがシモンズ姉妹の引っ越しに借り出された(というよりナレアが一方的に決めた)理由は、車である。
ナレアは上京するにあたって、荷物をすべて船便で送っていた。
やや時間はかかるが、夜に出て朝イチで着く便が利用するのにちょうどよかったし、陸路よりは安くつくから、というのが主な理由。ただし引っ越し業者に依頼していないので、積み降ろしてアパートまで運ぶには別の手が必要になる。家具など大きなものは処分したが、それでも人間一人の荷物となるとかなり大きめの車でないと一度に運べない。
それで目を付けられたのが、レイオットのモールド搬送用の蒸気トラックだった。
『モールドキャリアで引っ越しなんかしたら周囲の目を引きまくりだぞ』
というレイオットに、ナレアはしたり顔で笑ってみせた。
『ふふふ。それも効果のうちよ』
『はあ?』
『若い女ばかりの二人暮らしは何かと物騒ですからね。しかも姉さんは残業超過で夜遅く帰ることも多いし。戦術魔法士に知り合いがいるってことをアピールしとくと何かと都合がいいのよ』
それが無資格でもか。とレイオットは呆れたが、この場合はむしろその物騒さ加減がちょうどよいのだろう。毒を制するにより強力な毒を、というわけでまあそれがどの程度効果があるのかはさておき、そういう思考を有するあたり、確かに姉とは違う個性である。
彼の知るネリン・シモンズという魔法監督官はよくもわるくも、立場を利用するような真似はしないし、やり方ひとつも正攻法にこだわる生真面目なところがある。ナレアがレイオットを強制的に手伝わせた前後の事情を知ったらきっと怒るだろうし、そもそも彼女だったら絶対に手伝えなどとは言いださないだろう。基本的に自分のことは自分で対処しようとする人間だ。甘え下手とも言える。
他人の善意を信頼はしても、気持ちだけで充分、と押し返すようなタイプだ。
一方でナレアは、善意の貸し借りに躊躇はしない。善意で借りたものは善意で返せばOK、というある意味わりきりのよいタイプであるらしい。
よく似た姉妹だと思っていたが、よく見れば違いがあって、
( おもしろいな )
と思ってしまった自分に、レイオットは苦笑した。
人間が、おもしろい、などと。
確かに今までそう言った感慨を抱いた人間は幾種類か存在はしたが、それはその種の人間が隠しようもなく派手な個性を振りまいているからで、それは「人間」そのものに対する興味ではなく、人間の中に紛れ込んだ珍獣を見るような、そんな意味での「おもしろい」だった。
ひどい言い方をすれば「見せ物」としての退屈しのぎ的なおもしろさだ。
ところがシモンズ姉妹に関するそれは、どうやら「人間」そのものに対する興味からくる「おもしろさ」であるらしい。
似たように見えていて、でも決定的に違っているところがあって。
気がつけば見比べてどっちがどう、とか考えていたりする。ネリンは眼鏡を手放せないが、ナレアは逆に視力がいいのが自慢らしい、とか。ネリンの髪は母親譲りの自慢だが、ナレアの方はくせっ毛が強くて伸ばせないのがくやしいらしい、とか。なのに二人してオレンジを食べる時は薄皮まで剥かないと食べられないらしい、とか。
そんなどうでもいいことをたった数時間の引っ越しの手伝いで見つけてしまってそれをおもしろがる自分がいたりする。
それがどうしようもなくおかしい。
***
「すみません、スタインバーグさん」
ナレアの荷物を降ろしながら、ネリンがわずかに頭を下げる。
「いや・・・まあヒマだからな」
ネリンが引っ越した先は、市内から3駅ほどのやや郊外にあるマンションで、職場からは少し遠くなったが、列車の便はかなり遅くまであり、残業しても困るようなことにはならないらしかった。逆にレイオットの家やナレアの大学にはやや近くなっている。ちなみにナレアの大学は市の郊外にあって、レイオットの家と、ネリンのアパートのちょうど中間地点。むろん偶然の結果なのだがなにかしら図られているような気がしないでもない。
男手が必要ということで借り出されたレイオットだが、部屋に入ってみると先客がいた。
「おや」
「「お久しぶりです」」
揃って頭を下げたのはエリック・サリヴァンとフレッド・クラプトン。確か二人ともナレアと同い年で魔法士を目指していたはずだ。
「久しぶりだな・・・合格したのか?」
「はい。おかげさまで」
答えるエリックが、フレッドの方を見ながら苦笑したところを見るとどうやらフレッド・クラプトン少年の方はぎりぎりの及第であるらしい。
「そうか。まあ・・・がんばれ」
他に言いようもなかったのでレイオットはやはり苦笑気味に返した。
「はい。・・・あの、スタインバーグさん」
ふと表情を改めて、フレッドが彼を見上げた。自分に憧れて戦術魔法士になろうとしていた少年に、レイオットは必ずしもいい返事をしてやっていない。むしろやめておけと忠告していた。
「俺・・・やっぱり戦術魔法士になろうと思います。いろいろご忠告いただいたのにすみませんけど・・・でもやっぱり、俺がなりたいのは、あのとき当たり前みたいに俺たちをかばって魔族の前に立った、スタインバーグさんのような戦術魔法士なので」
「・・・・・・」
「これからも宜しくお願いします」
「いやまあ・・・俺のような無資格の魔法士に宜しくされない方がきみのためだとは思うけどな・・だが、別に謝ることじゃない。それならそれでいいさ」
どうにも居心地が悪い気分で、レイオットは彼を見る。以前のーーー自分もこんな目でかつての師を見つめていた。そのことをふと思い出してしまう。
「スタインバーグさん、いいですか?」
ネリンに声をかけられたのを幸いに、レイオットは踵を返した。
「ねえ、カペル。どうなの?」
二人並んで本棚に本を片付けていきながら、ナレアは傍らのCSAの少女にひそひそ声で囁いた。
「どう、とは?」
唐突に話題をふられても、このCSAの少女は慌てたりしない。
冷静な切り返しに、ナレアは話題を続ける。
「あの二人。私がいない間に何もなかった?」
「レイオットとシモンズ監督官ですか?」
ナレアのいう二人がどの二人なのか、彼女のさりげなく注がれた視線の先を一瞬で見極めてカペルは確認した。
「そうよそう。まさかとは思うけど」
あの姉に限って、とは思うのだが。しかし男女の仲というのは何がきっかけでどうなるかわからないのでナレアとしては心配で仕方がなかったのだ。引っ越しと称して呼び出しているのはそのあたりの「進展ぶり」を確認するためでもあった。二人一緒にいるところを見ていればなんとなく雰囲気で分かるような気がしたのだ。たとえ他人のように振る舞っていても、その種の「何か」があれば、親密度とか空気感のようなものは自ずと異なってくる。だがやはり確信が持てない。以前より親密度は増したようだが、「そういう関係」にまで発展したのかどうか・・・。
ネリンが聞いたら、「また思い込みの激しいことを・・・」と呆れるだろうが、ナレアから見れば「姉さんはそういう面では世間知らずなところがあるから・・・」とお互いがお互いな感想を抱いている。
「別に取り立てて問題になるようなことはないと思いますが・・・」
カペルの声にわずかに困惑が混じるのは、ナレアの言うところの「何か」がどのラインを越えたあたりのことを差しているのか、判断の基準が不明確だったからである。
例えば、会いに来る回数が週に何回を越えたとか、いっしょに夕食をとる回数が増えたとか、以前はきっちり3ドルク15センテ払っていった夕食代が最近では半ば材料持ち込みによる現物支給に変わっているとか、ついこないだはネリンの職場の同僚のおすそわけでもらったカニを同じ鍋で食べたとか、そのとき不器用な彼女の代わりにレイオットが殻剥いてあげたとか、こうやっていっしょに食事してるとまるで家族みたいだとカペルなりに思ったとか、そういうことをあげていけばキリがないような気もする。
休日前にやってきた彼女が豪雨と疲労のために帰り損ねて泊まっていったこともある、などという事態は特にナレアに報告するにはデリケートな問題だろう。
「ならいいんだけど・・・姉さんもどっか無防備っていうか無警戒っていうか信頼しすぎっていうか男は基本的に欲望に負けやすい生き物だってこと、よくわかってないとこがあるんだから・・・」
「・・・レイオットに関していえば、そういうことはあまりないと思います」
カペルが断言したのは、一緒に暮らし始めてこの方1日たりともかかさず彼の寝室でその就寝から寝起きまでを観察している故だったが、そんな事情を知らないナレアはとたんに柳眉を逆立てる。
「甘いのよ! そういうタイプが意外と暴走するとやばかったりするのよ! 普段おとなしそうに見える人間ほど箍が外れたときの行動は常軌を逸して獣になりやすいっていうのが通説・・・」
「誰が常軌を逸して獣なんだって?」
うんざりしたような声が背後からかかったのはその瞬間だった。
うっ、と振り返れば大きめの段ボール箱を抱えたレイオットと、左手を握り拳に固めた姉がぎこちない笑みを浮かべて立っている。
「ナレア」
静かな響きが余計に不気味な余波を伝えてきている姉の声だった。
「ね、姉さん」
「スタインバーグさんに失礼をお詫びしなさい」
「えっと、でも」
でも、に続く言葉は当然出てくるはずも無かった。何をどう考えてもこの場合は自分が悪い。それはわかっているが、この男に頭を下げるのはなんとなくいやだ。そんな理由が通らないことは百も承知の上だとしてもだ。
「お詫びしなさい」
今度こそ真顔で、姉はだめ押しした。本気で怒っているのが分かる。分かるだけにナレアとしては余計に言葉が出てこなくなる。
いつまでも黙っているナレアに業を煮やしたのか、ネリンがふ、とため息をついて言った。
「あなたが謝らないのなら、私から言います。スタインバーグさん、妹が失礼なことを言ってすみませんでした。私から後でよく言って聞かせますので許してやってください」
後半の言葉はレイオットの方に向いてで、深々と頭を下げながら、である。
「いや、まあ・・・別に俺は構わんがね。・・・おもしろい人だな、あんたの妹は」
「申し訳ありません」
「いいよ」
姉が真摯に謝って、この男は気安くそれを許した。
そんな光景が、どうしようもなくナレアを情けない気持ちにさせる。
なんとなく過去の風景がよぎったからだ。
ごめんなさいと身を縮こまらせて謝罪を繰り返す母と、面倒くさそうにそれを無視する父。
何も悪くないのに、なぜ謝るのか。なぜそれを許すのか。許すような何があるというのか。
「止めてよ!」
不意に大声を上げたナレアに、驚いたように視線が集まる。
「姉さんが謝ることじゃないわよ! あたしが悪かったんだから・・・」
「ナレア」
「ええ、あたしが悪かったわよ! レイオット・スタインバーグ! この卑怯者!」
「は?」
「姉さんに頭下げさせて何が楽しいのよ!」
まるで筋の通らぬ言いがかりをつけられて、レイオットはあっけにとられたような顔になった。
「姉さんよりまずあたしを責めなさいよ! 姉さんに謝らせていい気になってんじゃないわよ!」
もうこれは完全にやつあたりだ。わかっているが自分でも止めようがない。なんにせよ、この無資格魔法士に姉が頭を下げるところなど、見たくもなかった。ましてそれが自分のせいでだなどと。
「ナレア!」
姉の鋭い声とともに、頬に熱い痛みを感じた。
ひっぱたかれたのだと気付いたのは、姉の泣きそうな顔をみた瞬間だった。
沈黙が、落ちる。
「やめなさい。―――もういいから」
押し殺したような声が、悲しい。
以前もよく聞いた声。
(大丈夫よ。もうすぐ終わるから)
両親の喧嘩(といっても父が一方的に母を怒鳴っているだけだったが)の際、寝室で震えるナレアによく姉が言って聞かせた言葉だった。
「・・・・・・・・・ごめんなさい」
ようやく言えた言葉は、それだけだった。
***
「申し訳ありません・・・とんだところをお見せして」
泣き出したナレアに、もういいから、と片付け半ばの自室に下がらせた後、ネリンは無理矢理とりつくろうような笑顔をレイオットに向けた。
「いいさ。気にしてない。・・・あんたこそ大丈夫か?」
「え?」
「あんたのほうが泣きそうな顔してる」
レイオットの言葉に、ネリンはふ、と力ない笑みを見せる。
「こういう場合、やっぱり叩いちゃった方が、後悔するんです。他に止めようがなかったとしても」
「そういうもんか・・・。大変だな」
「ええ。いつまでも子供で」
溜息とともに、でも愛おしげに、ネリンは妹の閉じこもった部屋のドアを見つめる。
「どうしてあんなに怒ったのでしょうか」
不意のカペルの問いかけはやはり淡々としている。筋の通らない真似はナレアらしくない。彼女にとってはそれが不思議だった。
「そうだな。途中から変だったな」
レイオットもようやく思い出したように同意する。
自分が責められるような何かを言っただろうか? やはり覚えがない。
苦笑で答えたのはやはりネリンだった。
「多分・・・両親のことを思い出したからじゃないかと」
「ご両親?」
「母がよく・・・父に頭を下げていたから。男の人に謝ってる女の人って、ナレアにとっては鬼門なんです。それがどんな理由にせよ、女の人の方は悪くないって、思ってしまうらしいんですね。ご近所の夫婦喧嘩とか、かならず奥さんの味方して相手を言い負かしてましたから」
「ああ・・・なるほど」
過去のトラウマ、という理由ならレイオットにはとても理解しやすかった。彼自身がトラウマだけを固めて生きてきたような人間だからだ。
「後でよく言って聞かせておきます。ご不快な想いをさせてしまってすみませんでした」
「いや、あんたは悪くないよ。確かに」
「ありがとうございます」
「いや俺が悪い。この場合はそういうことにしとこう」
「え?でも」
「その方がナレア嬢のためだろ。俺は今さら悪事の種がひとつふたつ増えたところでかまわん身だしな」
ふざけて言うとネリンの笑顔が少し和らいだ・・・のだが。
「・・・ではレイオットは欲望に負けやすくて、暴走するとやばくて、箍が外れると常軌を逸した獣になるタイプなのですか」
その瞬間、二人の間にいやあな沈黙が落ちた。
「えっと・・・・・・」
「カペル・・・そのあたりのことは忘れろ」
「ですがレイオットが悪いとなると、ナレア嬢の言ったことはすべて真実だということに」
「そのあたりは証拠不十分で不起訴だ。俺が悪かったのはシモンズ監督官に謝らせたことだけだ」
「ですがそれはシモンズ監督官の自発的な行為です」
「そうするように俺が仕向けた。そう理解しろ」
明らかな事実誤認だったが、なるべく穏便な方向に事態を導こうとするレイオットに、ネリンは黙秘を貫くことにした。
「・・・・・・分かりました」
で、そういうことになった。
しかしながら、この後、階下のモールドキャリアから新たな荷物を運び上げてきたエリックとフレッドに、ナレアが自室に閉じこもって泣いている原因を尋ねられたカペルが、
『レイオットがシモンズ監督官に些細なことで謝罪を強要して泣かせた』という見事に枝葉を切り落とした回答をしたため、事態はさらに混迷を極めることになる。
主に、レイオットがいったいなんのために彼女にそんなことを強いたのかということについて、青少年二人が、男なりの理由というものを邪推した結果により。
女心はとてつもなく図りがたいが、男心は同じ男ならよく分かる、というのはたいていの人間が抱える幻想である。