ゆっくりと瞼を持ち上げればもはや見慣れてしまった天井があった。
  
「…………………はぁ」
 溜息をひとつついて起き上がると、はかったようなタイミングで扉がノックされる。
「おはようございます、シモンズ監督官」
「……おはよう、カペルちゃん」
 単調な声に、軽い自己嫌悪でやや重めの挨拶を返す。
 またしても押し掛け外泊。その上寝坊。
 日頃この家の主をだらしない、たるみ過ぎだと口には出さないまでも態度で訴えている身としてはなんとも面目の立たない所行である。
 家主に借りた寝間着代わりのトレーナーを脱いで、着てきた制服のブラウスを手に取る。
 袖を通してボタンを留めるまでを何が面白いのか、ずっと傍らで見守っていたCSAの少女がようやく、
「朝ご飯です。今日は天気がいいのでテラスへどうぞ」
 と一言告げてきびすを返した。
「あ、はい。ありがとう」
 カペルが告げる間にスカートも身につけたネリンは慌てて後を追う。
「ごめんなさいね。部屋まで借りて――」
 部屋の扉を閉めながら毎度の謝罪を繰り返すと、やはりいつもと同じ、
「お気遣いなく」
 という返事。先ほどまで彼女が寝ていた部屋はカペルの部屋なのだ――ただ今まで使われたことがない、というだけで。
 そういう事情について既に精通しているネリンだったが、やはり年端もいかぬ少女の部屋を占領してしまった、という罪悪感は拭えない。
「どうして、いつも寝ちゃうのかしら……そんなに飲んではいないつもりなのになぁ……」
 カペルの後について階段を降りながら、溜息とともにつぶやくネリンの言葉は自己嫌悪まじりではあるが、心底腑に落ちなさそうだ。
 その言葉にカペルは何も返さなかったが、何か思い当たることがあるかのように、背後でため息をつく善良な新米監督官の方に目線だけを送る。一瞬のことだったので彼女が気付くことはなかったが。

  
 ネリンを先にテラスへ送り出しておいて、カペルはキッチンに向かう。
 家主は既に起きていて、朝ご飯の準備に余念がない。
 切り分けられたパンと、ガラスの器に盛られたサラダ。そして現在はフライパンを軽く揺すりながら ベーコンエッグに取りかかっている。
 肉厚のベーコンの焼けるいい匂いが漂う。
 ふと手元を見ると普段はスタインバーグ邸の食卓にのぼることのない、ヨーグルトまであった。ちなみにものはトリスタン郊外にある牧場から朝イチで牛乳といっしょに届けられる産直品で、全国的にも名の通った高級品だ。近場であるのを幸いに、いつも牛乳だけ置いていってもらっているのだが、昨日は確かに冷蔵庫にはなかったこれが、今朝ここにあるということはわざわざ昨日の晩に電話で注文したのだろうか。
「……レイオット」
「ああ、カペル。ちょうどよかった。皿出してくれ3枚」
 振り返りもせずに家主が言うのに従って、大きめの皿を取り出しながら、カペルは言葉を継ぐ。
「そろそろシモンズ監督官にお酒を振る舞うのは止めた方が」
「ん?」
 カペルの忠告に、家主が初めて彼女を見た。
 手元のフライパンからほどよく焼き上がったベーコンエッグをとりわけながら小首をかしげる。
「やっぱ、まずいか?」
「外泊回数はこの2週間で4回にのぼっています。先月は5回でした。このままいくと今月は2桁の大台にのってしまうかと。」
「と言ってもなあ……飲まないのに置いとけないだろあんなもん」
 レイオットの言う、あんなもん、とはフィリシスが最近しょっちゅう送りつけてくるようになったブランデー、バーボンその他の酒類のことである。
 飲まないレイオットと未成年のカペルの家に、どういう意図があってかどかどかと送りつけてよこすので、おざなりにあったはずの居間のキャビネットにももはや入りきらず、邸内にあふれる一方だ。一応シェリング夫人に持って帰ってもらったりもしているが、夫人の夫もそう酒に強い方ではないらしいので、近頃は苦笑気味に断られることも多い。
 そしてスタインバーグ邸に客が訪れることは滅多になく、来たとしても酒を振る舞うような時刻まで居座る人間となればさらに皆無に近い。―――たった一人を除いて。
「素直に瓶ごと差し上げればよいのでは」
「それだと賄賂になるから、だとさ」
 饗応はともかく、賄賂はまずい。どういう基準だか知らないがそれがいい意味でも悪い意味でも朱に毒されてやや融通の利くようになったネリンの、最後の線引きらしい。
 だからといって、外泊という事態にまで至ってしまっていることについては彼女なりに反省のしどころなのだが、ただでさえ疲労気味の体にアルコール。
 ましてフィリシスの送りつけてくる酒ときたら………。
「レイオット。あれがムーグ魔法士からの贈り物だということは言ってあるのですか」
 以前、彼女の酒につきあってえらい目にあったという話を聞かされているカペルは試しに聞いてみた。
「いや? 言う必要あるか?」
 それを最後に、レイオットは朝食の盆を片手に歩き出した。
 それで話はうちきり、ということらしい。
 つまりは、誰の酒なのか言うつもりはないし、酒を振る舞うことも止めない、と。
「まあ、シモンズ監督官も疲れてるだろうしな。たまには楽させてやってもいいだろ」
 だから、直帰の許可が出ているのをいいことに、訪問時の香茶は言うに及ばず、夕食に食後のデザートに酒、あげくは宿泊に朝食、帰りの送迎までする、と。
 至れり尽くせりなサービスぶりに、カペルはレイオットは魔法士をやめたらヒモで食べていけるのではないか、と年相応の少女らしからぬことを考えていた。
 あながち、似合わないこともない。
  
 居間のガラス戸の向こう、テラスに広げられた白い食卓に肘をついて、ネリンはいまだうとうと気味に朝食を待っている。
 天気がいいから外で食事、なんて発想がレイオットの口から出てくる日が来ようとはカペルは想像だにしなかったし、多分口にした彼自身も驚いているだろう。
 ついでにいえばこんな早い時間に朝食をとることすら、彼らの間ではごく少ない事例だった。
 朝目が覚めて、おはようと挨拶をして、階下に降りて窓を開けて。
『いい天気だな…………こんな日はテラスで摂るか』
 と、思わずつぶやいたレイオットが、直後にしばし絶句した気配にカペルは気付いていた。
 晴れだろうと雨だろうと曇りだろうと、そんなことは全くおかまいなしに過ぎていくはずだった日常なのに。
 何が変わったのか、なぜ変わったのか。
 そんなことが知りたくて、カペルは日記をつけている。
 自分に限らず、レイオットのことも周囲のことも同様に。

「5月15日。快晴。
 シモンズ監督官が宿泊。天気がよかったので、朝食をテラスでとった。」
  
 たった一行に込められたささやかな変化の意味を、カペルはじっと考えてみる。