バレンタイン。
 それは言うまでもなく女の子にとっては特別な、神聖な日である。
 甘いチョコレートに思いを込めて、ついでにプレゼントなんかも添えたりして愛しい人に告白する日。
 どんなに内気で口べたな娘でも、チョコレート一つで意思表示が可能という、恋する乙女には絶好のプレゼン・デー。
 しかしながら。
 義理も保身もへったくれもない学生と違い、社会人たるもの、本義とは全くかけ離れたところでも、頭を悩ませなくてはならない。
 上司、部下、同僚、先輩、後輩、取引先・・・バレンタインはお歳暮だのお中元だのと同じくらい、「普段」「お世話になっている方々へ」の義理を果たすためのやっかいなイベントと成り果てるのだ。
 ましてや「本義」を尽くすべき相手の存在しない社会人女性にとっては。
 ネリン・シモンズ、24歳。いまだ本命ナシ。
 せめてホワイトデーのお返しを期待しよう。
 そんな思いで、安くて見栄えの良い義理チョコを買い漁る、とある日曜の午後。
 
「というわけで、はい。」
 おつかれさまでした、という一言の後に差し出されたチョコレートは一応、それなりに値の張るものであるらしかった。
 焦茶色の包装紙に金文字で刻印されたロゴマークは、レイオットでも知っている有名チョコレートメーカーのものだ。
 たかが菓子のくせにやたらお高く、トリュフ一個で確か2ドルク半。大きさからすると4個入りだろう。
 名前の通った高級品。値段は安くないが、量は少なめ、しかも見栄え重視のこの包装。
 だからこそ分かる。義理だ。
  
「・・・ああこりゃどうも」
 とありがたみのない返答を返しても、怒る気配もないところから余計にそうと知れた。
 だいたい意味のある贈り物なら、「はい」の一言ですまされるはずもない。
 差し出して受け取られた次の瞬間には、もう当たり前のような顔で仕事の話を続けているし。

「・・・なので、来週までにこれとこの書類にサインを・・・って聞いてますか、スタインバーグさん」
 呆れたことに、早速のように包装を解いて傍らのカペルに1個食べさせている男は、もう既に残りを自分の口にいれたらしく、もぐもぐと咀嚼しながら、
「きいてる」
 と返してきた。
「立ったままなんて行儀の悪い。せめて家に帰ってから開けてくださいよ」
「ちょうど小腹がすいてたんで」
 ケースSAが終わった直後のことだ。
 しかも今回は魔族が2匹だった。アクセラレータを使うまでもなかったものの、それなりに疲労はある。
 疲れたときには甘いものがいちばん、とは、かつてフィリシスから教わったことだった。
 もっともそれが本当に効果があるのかどうか、実のところレイオットにはわからないのだったが。
 

「もうちょっとありがたみを感じてくださいよ。それなりにしたんですからね、そのチョコレート」
「・・・ああ、うまいと思うよ」
 苦笑まじりに応じる男の返答にはわずかな間があった。
 ふと気になってネリンは尋ねる。
「・・・・ひょっとしてお嫌いでしたか、甘いものって」
 職場の同僚の中にもそう言って事前に断っていた者がいたことを思い出し、ネリンはもしそうならもっと違う物にしておけばよかったかなと思う。
 だが、レイオット・スタインバーグは、苦いコーヒーよりは甘めのミルクティーを好む人間だったので、おそらく大丈夫と踏んでいたのだ。
「いや? もしそうなら食べてないよ」
 確かに。
 手渡したチョコレートの箱は既に空。4つ入っていたのをカペルに2個わけて、きれいに半分こ。
 残り2つを一気に口の中にいれてしまった男に、甘いもの嫌いを標榜されても信じられる訳もない。
 しかしながら、どうにもひっかかる苦笑ではあった。

「ああ、レイはね、多分食べてもわからないんだと思うよ」
 その疑問をきれいに解決したのは、フィリシス・ムーグだった。
 後日の飲み会。
 よい酒が入ると必ず自宅に呼ばれてご相伴に預かっているネリンは、バレンタインのその日のことをふとした話題に乗せてみた。
 以前いっしょに住んでいたフィリシスなら何かわかるかと思ったのだ。
 案の定、即答だった。
「わからないって? 味がですか?」
 まさか、と思う。
 彼の唯一の趣味は料理である。作る物もそれなりに美味であることはネリンも認めるところだ。
 「黒騎士事件」の際、管理局に泊まり込んだときなど官舎の食堂で、シチューの味にさんざん愚痴をこぼしていた男である。
「うん、てゆーかね。嗜好品の類いはダメみたい。お酒もそうだけど。菓子とかもね」
「嗜好品・・・ですか」
 今ひとつピンとこない話だった。
 普通の料理の味はよくて、菓子や酒はダメ?

「以前ね、こんなことがあったの」

 と言ってフィリシスが話してくれたのは、レイオットがまだここで暮らしていた頃。
 新入りのメイドが間違えて、茶受けにだしたシュークリームの話だった。
「なんかね、砂糖の分量を間違えたらしくて。中のカスタードクリームが通常の3倍くらい甘かったのよ」
「うわあ・・・」
 通常の3倍甘いカスタードクリーム。聞いただけで胸焼けがしそうな話だ。
「あたしは席を外してて。戻ってきてみたらレイオットが先に4つくらいつまんでたんだけどね。食べてみたらもう甘いのなんのって・・・」
「そうでしょうね」
「でもレイオットはそれを平気な顔で食べてたの」
「・・・・・・」
 なんとなくではあるが、目に見えるようだった。
 ソファに寝っ転がって、雑誌を読みふけりながらカペルがいれた紅茶といっしょに適当に菓子をつまんで。
 もはや見慣れた光景とすら言える彼の日常だ。
 おそらくこの館でも同じような態度だったのだろう。
「それで、レイオットに甘くない?って聞いたら、彼いつもと同じだろって」
「・・・・・・」
 苦笑の意味が、やっと分かった。
 
「つまり、わからないんですか? 甘い、って味が」
「だけじゃなくて、お酒もね。心当たりない?」
 下戸だと言っていたレイオット・スタインバーグ。
 けれど、以前いっしょに酒盛りをしたとき、彼は平気でそれを嚥下していた。
『飲んでもうまいと思ったことがないから』
 そう、言っていた。
  
 生きていく上で。
 嗜好品というのは必ずしも人間に必須のものではない。
 ただ単に生命活動を維持する、という目的のためだけなら毎日の食事を規則正しくとっていればこと足りる。否、極論すれば病院で受ける点滴や栄養剤の類いで十分まかなえる。
 だが、人はパンのみにて生きるにあらずだ。
 生きていくということは、脳や内蔵や各種器官が動いてさえいればいいという単純なものでは決してない。
 たとえば、愛情や憎悪だったり、自身のこだわりだったり、趣味だったり、仕事だったり、それはもう様々に。
 ごくごく簡単なことでいうならば、何が好きで、何が嫌い。食べるものひとつといえども。
 たったそれだけのことが、他人と自分を隔て、人間を個として存在させる意義となる。
 それがなければ皆同じ生き物で、どうとでもとりかえのきく存在で、だから誰が死のうと生きようと同じでーーー。
 死にたがる彼の心は、本能すら蝕むのか。
 
 手にしたグラスの氷塊が、からんと音を立てる。
 なぜだか口にしていないそれが、胸元を滑り降りたような気がした。
 

 そしてまた後日。
 どうにも後味の悪い思いを抱いたまま、ネリン・シモンズはスタインバーグ邸に足を運んでいた。
 サインをもらわなくてはならない書類は山のようにあるというのに、あの男は一向に管理局の方に現われないからだ。
 ローランドさんのところに行くときにでも寄ってくださいなどと甘いことを言ったのがまずかった。
 しかしどんなに気まずかろうと仕事は仕事と言い聞かせて、ネリンは呼び鈴を押す。
  
 幸い・・というべきか、玄関に現われたのはカペルだった。
「こんにちは、カペルちゃん。・・・・あ、シャロン」
 語尾には明らかにハートマークが感じられる。
 猫さえいればあらかたのことはどうでもよくなってしまうのは彼女の長所なのか短所なのか。
 内心はともかく、カペルはきれいにネリンの狂態(?)を無視して、彼女を邸内に迎え入れた。
「あ、ごめんなさいね。カペルちゃん。・・・スタインバーグさんは?」
「キッチンです」
 答えは簡潔だが、いつもと違った。
「キッチン?」
 レイオットの日常は基本的にルーティンワークなので、この時間なら射撃の訓練をしているか、居間で寝ているかのどちらかと踏んだのだが。
「今日はごちそうなの? お祝いかなにか?」
「いえ、レイオットは朝から」
 その時、ネリンの鼻孔を甘い匂いがくすぐった。
 甘い?
「クッキーを焼いています」
 すさまじく似合わない光景だ、と想像してしまったネリンはめまいを覚えた。
 
 
 しかしてレイオット・スタインバーグはクッキーを焼いていた。
 しかも星形、ハート形、ココア入り、オレンジピール付きといろいろ手が込んでいる。
 居間で出された、編み籠いっぱいに盛られたそれを、ネリンはやや呆然と見つめている。
「まあ、あれだ。始めて焼いてみたんでな。味の保証はないんだが」
 それは知っている。ていうかなんで貴方が、クッキー。
「一応、マニュアル通りにやってみた。食べてみてくれ」
「はあ」
 そしてなぜ自分が実験台。 
 カペルはと言えば、紅茶を煎れるのに余念がなく、その作業が終わらぬ限り助けてくれそうもない。
 匂いと見栄えだけは問題なさそうなので、ネリンは思い切ってひとつつまんでみた。
 とたん、口の中に広がる、ほどよい甘さ。
「・・・・・・おいしいです」
 嘘ではない。マニュアル通り、だからだろうか。焼き加減も食感もそして味も。
 申し分のない出来だった。
「そりゃよかった」
 言ってレイオットは自身も手を伸ばす。
 少し息をのむネリンの目の前で、あっさりと口に放り込む。
 カペルが差し出した紅茶を受け取って、嚥下するまで、ネリンは彼の動作をじっと見守っていた。
「・・? どうした、シモンズ監督官」
「あ、いえなんでも」
 レイオットに変わったところはない。何も。
 机に積まれた書類の山を前に、うんざりした顔を見せ、ペンを手に取ってサインを始める。
 その間も機械的に手は籠に伸びて、自身で焼いたそれを口に入れていく。
「・・・おいしいですか」
 ついにたまりかねて、おそるおそるネリンは問うた。
「ん? ああ、まあまあだな。こんなもんだろ」
 自分で作ったものに対する返答としてはごく普通だった。
「・・そう、そうですか」
 カペルは黙ってその様子を見ている。レイオットの嗜好について気付いているのかいないのか、やはりその表情は動かぬままだ。
 救いはどこからもこない。
 ネリンは聞こえぬようにため息をつく。
 つまんだ焼きたてのクッキー。口に入れても胸に落ちた氷塊を溶かしてくれそうになかった。

 ようやくレイオットが書き終わった書類の山を揃えて、ネリンはそれを鞄に入れる。
 帰るべき時間だとわかってはいたが、ソファから立ち上がる気力がなぜかなかった。なんでこんなに体が重いのだろうと思う。
 クッキーの籠はまだ半分近く残ったままだ。
 レイオットがその下に敷いたレースの布ごとそれをくるんで、先を縛る。
「はい」
「え?」
「バレンタインのお返しだよ」
 言われて、今日が3月14日だと気付いた。
「あ」
「ま、こんなもんでかんべんしてくれ」
「いえ、とんでもないです」
 義理で買った値段と見栄えだけのチョコレートに、手作りのお返しなんて。
 むしろ自分の方がごめんなさいとひれ伏すところだろう。
「す、すみません・・・いつも」
 気恥ずかしげに受け取るネリンに、レイオットが珍しく笑みを見せる。
「いろいろ世話になってるからな。あんたには」
「そうですか? そんなことは」
「いや、ほんとにさ」
 珍しく素直(?)なレイオットの発言に、ネリンのみならずカペルの顔にすらやや怪訝そうな、といってよい表情が浮かんでいる。
  
「あんなにうまいもんだとは思わなかったよ」

 何が、とは言わずレイオットは苦笑していた。
 思わず見返したその顔は、別にどうということもない、普段通りの気怠げな顔で。
 その意味が通じているのかどうかも、どうでもよさそうではあったが。
 それでも充分だった。
 ネリンは受け取ったそれを、大事そうに胸に抱えると、「よかったです」とだけ口にした。
 充分すぎるほどの、お返しだと思った。