[七姫物語 ヒカゲ×カラ]
長いようで短い冬が終わって、雪祭の日を過ぎればもうそこかしこに春の先触れが来ている。
それをいちばんに感じるのは、朝、手洗いのために用意された水の柔らかさだ。
陶製の器を覗き込めば、揺れている水面に光がきらめいて、そこに映る私の顔も眩しさにかき消える。
なぜだろうか。少し淋しかった。
今年の冬はいろんなことがあったから、いろんな人とお別れもしたから、そのせいかもしれない。
春は人が出逢って、別れる季節だといつかトエ様が言っていたけれど、私にとっての大事な出会いはいつも季節の始まりで、お別れも次の季節に移り変わる前に訪れているような気がする。
四季世の移り変わりは、ここのところいつも慌ただしい。
顔を上げて、窓に目を向けたとき、遠く稜線に残る白さが目に入った。
あれも日ごとに、薄くなっていく。
衣装役さんに頼んで、こっそりとカラの衣装を用意してもらった。
朝の空気はまだほんの少し冷たくて、完全に行ってしまったわけではない冬の静けさの中、空に誘われてお城を出る。
別に暇してるわけではなくて、今日は、姫殿下はご不浄あって朝儀には出られない。そういう言い訳。
ずる休みではないけれど、月に何日かはそういう日を作ってもいい。トエ様とはそういう約束になっていた。
『絶対にいてもらわないと困る時はダメだけどね、基本的に姫殿下にはお休みがないわけだから』
だからたまには自分でお休みを作らないと、無理が出てしまう。
『戦でも遊びでもな、四六時中気ばかりはってられねぇってことだよ。ゆとりってもんがないとな。オレなんか見ろ。いつだって余裕があって強そうだろ』
豪快に笑うテン様に、トエ様は、やかましい君はゆとりがありすぎるから隙だらけなんだと渋い顔。
思わず笑ってしまった私にとっては、あのお二人の掛け合いこそがいちばんの息抜きになるのだけれど。
ふふ、と思い出し笑いして、後ろを振り返ったらいつものように気配を感じさせない人がいっしょに来ていた。
ヒカゲさんは私の護衛役で、基本的に私がいるところにはどこにでもついてきている人だ。
いつも黙って音を立てずに居るから、人に言われて初めてそこにいると知る時もある。
「もうすぐ春だね」
返事がないことは気にならない。ちゃんと聞いてくれていることは知っているから。
けれど珍しく、このときはすぐに言葉がかえってきた。
「こわいのか。冬が終わるのが」
さっきの言葉に残念そうな響きが混じったのは自分でもわかっていたけれど、怖いのかと言われたらそのとおりかもしれないと今気づいた。この人はいちばん私の近くにいるから、知らず伝わっているのだろうか。
「・・・もうじき常磐姫に逢うんだよ」
常緑の名を抱いた姫君は、春の姫君としての柔らかさよりも、伸びゆく新緑の猛々しさを感じさせる人だと言う。雪が溶ければ、カセンに攻めてくるだろうともっぱらの噂だ。
「また戦になるのかな」
口にするまでもなく、多分それは避けられない未来のひとつ。テン様は待ち遠しくて仕方ない様子だし、トエ様はただ行くべき道の必然として受け入れ、準備に余念がない。
私はといえば、窓の外から眺めているだけだった世界に、おそるおそる踏み出した一歩に、まだとまどっている。そんなふうだ。
世界って、なんなのか、見てみたかった。
そんな私が、もう充分、見たいものはみんな見た。そう思う日がくるのだろうか。
でも少なくとも、私は春に出会うべき人と出会っていないし、夏に訪れてくる人を迎え入れてもいない。それを思えば立ち止まることは躊躇われた。とても勝手だけど、とてもひどいことをしようとしているのだけれど、でもまだ終われない。
それでも――――。
「もしかしたら、来年にはここにいないのかも」
巡る四季世の中でもっともめまぐるしい一節がやってくる。
それを予感しているから、過ぎ去ってしまったときが怖かった。いつもは感じることのない怖れを、ふとつぶやいてしまったのは目に映る草原があまりにも果てしがなかったから。
山の彼方の空の向こう。どこまで私は歩いて行くのだろう。
「オレがいる」
強い声に、思わず振り返る。今日のヒカゲさんはなんだかおかしい。いつもははかったように一定の距離を取っているその人の声が、とても強く、近くに響いている。振り向いても同じ場所から少しも動いていないのに。視線が、声が、その距離を縮めている、そんな気がした。
「オレがいる。アンタがいる。何も変わらない。どこに行っても」
「・・・・・・うん」
うなづいて、笑った瞬間、涙がこぼれそうになった。
慌てて空を見て、それを止める。大丈夫。泣くことなんかなんにもない。
日毎、青さを増す空は、人の営みと同じように、どこまでも続いている。
だから私の旅も、まだ、終わらない。