22.現実はすぎてしまえば思い出だもの さっきのことももう今はこころの中にしかない

だから覚えているよ。いつまでも。
[七姫物語//黒姫×遊撃隊長]

 

『なあ。このまま二人で逃げちゃおうか』

 

 冗談ごとのように繰り返す誘いがいつから始まったのか、彼女は覚えていない。
 隠密で動くことを好み、自分の影武者を何人も用意して一人旅に出る彼女の傍には、それでも必ず彼がいた。
 危険だ止めろの一言すらなく、当たり前のようにいつの間にかいっしょについてきている。
 幾度か誰にも告げずに抜け出したこともあるのだが、彼の目を誤魔化せたことは一度もなかった。
 どうして分かるのだろう?
 見張っているのかと問うてみたら『まさかそんなにヒマじゃない』の一言で否定された。
 それならどうして。
『さあな。虫の知らせみたいなもんじゃないか? そろそろアンタ退屈しだしたかな、と』
 その態度に馬鹿にしたようなところはなく、どうやら本気でカンだけを頼りに彼女を追ってきているらしい。
 そこまで分かるならもうちょっと理解とか信頼とかいったものが生まれそうなものだが、生憎のところついぞ彼女には彼のことを理解できた試しがなかった。
 例えば次にどう動く、とか。
 彼女がこうすれば、彼はああするだろう、とか。
 そういった予測はつく。
 そういう意味では彼の動きはむしろ読みやすい。否。
 彼の方が、彼女の意を酌んでいるのだ。
 彼女が動いてほしいところに、彼がいるのだ。
 読まれているのは自分の方か。
 そう思ってすぐ後ろをついてくる影を振り返れば、いつもの余裕綽々の顔に行き当たる。
 ときどきそんな彼が憎たらしくなって、彼女はわざと彼のことを無視する。
 そうすると、彼は言うのだ。
『なあ。このまま逃げちゃおうか』

 

 例えばもっと違うときに言われたら、もっと彼女が気弱になっていて、何もかも投げ打って全てから逃げ出したいと思うような時に言われたら、うっかりその誘いに乗ってしまったかもしれない。
 けれど、彼はそんなときには絶対に何も言わない。
 ただ彼女の閉じこもる部屋の前に立ち、背中を向けて彼女を守るだけ。
 あるいは黙って見ているだけ。

 

 絶対に逃げ出せないタイミングでしか仕掛けられない誘惑。
 彼女が決して取らないことを、わかっていて投げる救いの手。
 例えばもしも、本気で。
 本気で望まれたなら。
 そう考えて彼女は思う。
 それでも自分は首を縦には振らないだろう、と。

 

 

 彼女の心の中はほぼ全て東和のことで占められていて、彼にしろ、他の誰かにしろ、入り込む余地はほとんどない。
 彼もそれは知っているはずで、だからこそその言葉は今まで一度も不意を打ったことはないのだ。
 むしろ彼女の決意を、行く道を後押しするためにこそ、彼のその言葉は有る。

 

『逃げようか』)
( 逃げられないよ )

 

 そんなことは――分かっている。

 

 

 夜陰に紛れてツヅミを出る。
 幼い妹姫と別れ、また彼女のいるべき場所へと。
 七宮への誘いは半ば本気だったが、断られることもやはり分かっていたような気がする。
 彼女も宮姫ならば、象徴であるが故に常に揺るぎなくあらねばならないことは理解しているのだろう。
 そういえば、自分が一姫として立ったのもあの年頃だった。
 ふと昔のことに思いを馳せた時、またしても耳元で声がした。
「なあ、このまま二人で――――」

 

 おかしさを感じて彼女は笑う。
 逃げたりしませんよ。
 知っていながら覚悟を問う彼。
 分かっているから彼女も冗談に応じた。

 

「そのお誘い、いつから始まったのでしたっけ?」
 ふと問うてみれば彼もまた
「さあ? 初めて会ったときにも言ったような気がするけど」
 とあやふやな答えを返してきた。
「まあ実のないお誘いもあったものですね。女として悲しい限りです」
「アンタ、情に流される気なんかないだろ」
「だからといって本気にならないのは卑怯ですよ」
「本気になったらアンタ困るじゃん」
 くだらない会話の続きに、ふと、彼女は考え込んだ。
「困る……でしょうか?」
「いやそこで俺に聞かれてもさ」
 だいたい、そこで考え込む時点でダメだろ。
「ダメですか」
「ダメだな。頭で考えてちゃ。そういうのは勢いで決めないと」
「勢い。なるほど難しそうです」
 それに抗うのがどれほど難しいか、彼女は既に知っている。
 シンセンは既に凋落の流れにあり、どれほどの謀を巡らしてもそれを覆すには足りない力だ。
 それでも彼女の行く道は決まっていた。
「逃げる?」
 そう問われて、笑って首を振った。
 たとえ本気でそう言われたとしても、彼女は同じように返すだろう。
 向かい合うその人とやがて決別の日が来ようとも、彼女は彼女の道を行く。
 一寸先の闇も、一瞬前の涙も、戯れの中の真実さえ、もう彼女を引き止める力はない。
 それでも、もしかしたら、その手を取りたかった自分がいたかもしれないと、心の片隅に思いながらも。

 

 

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