[鏡のお城のミミ//ポール&ナタリー]
その笑顔の中に嘘があると知っている人間は少ない。
どもりがちな声やつつましやかな態度や誠実を装った言葉や気遣いも、初対面の人間ならば、なるほどたやすく信じさせてしまうだろう。
だからミミやセヴランが彼女を信頼するのは無理からぬ話だ、とポールは思う。
彼女の本性を知っているのは自分と公爵(もしかしたらその息子のジャン・バティストも)ぐらいだ。
彼女の母を数に入れることはすまい。
幽閉され自暴自棄に陥った挙句、またしても叛乱に加担した女男爵が日のあたる場所に出て来れることは二度とないだろうから。
そして公爵は彼女が従順に忠誠を誓う限りはよきにはからえを貫くだろうし、ジャン・バティストははなから政治だの社交界だのの表舞台には興味がない。
そして彼女は自分の敵ではない人間には寛容で、利用価値のある(と彼女が判断する)相手にはさらに厚意を惜しまなかった。
彼女がミミに親切ぶってみせるのは最終的にはエリックの好感を得るためだろうとポールはふんでいる。
彼女が直接的な手段(この場合、直接的、というのは可及的速やかな深謀遠慮のことであって、誰の目から見てもわかりやすい色仕掛けなんて単純な手段では絶対にあり得ない)を取らないのは今のところ彼女の人生に置いてエリック・セヴランの出番がないからだ。
将来的に彼が必要だと思ったら、おそらく詰め将棋のように的確に、逃げ場を与えず、彼をものにするだろう。
それを思えば、ポールが彼女に対して純粋な好意を抱けないのは無理からぬことといえた。
彼が身を引いているのはミミを泣かせたくないからで、ナタリーがおとなしく第三者の立場に甘んじているのは今が時期ではないからだ。
立場は同じでも意図するところは180度違う。
怖い女だ、と彼は思う。
そして気がつけばいつの間にか、ナタリーが2人の傍にいるときには自然と神経を尖らせるようになっていた。
自分はここにいるぞと。
そう誇示するかのように。
油断するなよと、もの言わぬ態度で2人には気づかれぬように彼女にだけわかる角度で。
信号を送り続けた。
「ポール様はいつも怖い顔をなさっていますわね」
ふとしたはずみで庭先で遭遇したある日の午後。
そのタイミングさえ計ったのではないかと思える場所で、彼女は彼に声をかけてきた。
気弱そうな微笑はどこまでも平凡で控えめで、緑と赤の斑の瞳だけが独特の色。
「軍人ですからね。警戒は怠らぬようにしています」
「警戒? このお館に危険なことなどありませんわ」
「我々が守っているからですよ。お忘れなく」
「そうね、あなたが守ってくださっているわ」
さりげなく主格をすりかえて、彼女は一瞬意味ありげな視線を彼に投げる。
「これからも、よく守ってくださいましね」
おそらく目的語も変わっている。
その響きにはなぜか沈んだものがあった。
何から、何を、守るのか。
「・・・・・・よろしいのですか」
我知らず固い声になった。それで通じていると相手に知れる。
「他に頼める方がおりませんもの」
ふせられた視線が表情を隠す。
けれど声色だけははっきりと悲しみを伝えていた。
「敵などいないと、信じたいですけれど」
悪意ではなくただ立場の違いが、仇なすものを作り出す。
善も悪も誰が見てもわかりやすい形で存在しているわけではないから。
「でも、誰かの不幸が、誰かの幸福につながるのは世の常ですものね」
――それでも裏切りたくは、ないのです。
胸元で固く、結ばれた掌。
それが彼女の精一杯のシグナル。
「大丈夫ですとも」
強く握られた指に、そっと左手を添えて彼は騎士の礼をした。
もちろん今の彼は王宮の近衛ではなく、一介の貴族の私兵にすぎないが。
「守り抜きますよ。ご安心を」
だから安心して、貴方は貴方の道をゆかれるがよい。
貴方の人生は、おそらく決して安穏なものではありえないのだろう。
貴方のその物腰と同じように、平和に慎ましやかに見せかけながら、虚飾と陰謀に満ちた未来図を描いていくのだろう。
心の聖域に、置いておきたい気持ちはよくわかる。
いずれは裏切ると知っていながら、それでも貴方にだって守りたいものはあるのだろうに。
いつかは、それも失うのだね。
「・・・ありがとうございます」
ふわりと笑った彼女の笑顔に、嘘はなかった。
「信じられますわ。ポール様の言葉なら」
「そうですか」
「ええ」
多分、彼女がいちばん信じていないのは自分の言葉と心なのだ。
その彼女が信じられるのがおそらくは将来彼女の敵となる彼だという。パラドクスを感じて、彼は笑った。
「6年前、初めてお会いしたときにも助けて頂きましたもの」
「違いますよ。あれはあなたが自分を救ったのです。あなたの勇気と知恵が」
あるいは打算と謀略が。本質としてはそういう言い回しの方が正しいが、ものは言いようだ。
「とんでもない。勇気がおありなのはポール様です」
本来の彼女の優しげな笑みだった。そしてそれがもっとも油断がならないときの彼女だ。
無謀と勇気と言い換えて人をいい気にさせておいて。
そんな言葉にだまされるほど単純ではないよと、呆れながらも少し安心する。
「お願いしますわね」
何をとは最後まで言わぬままだったが、彼には十分に通じていた。
「お任せ下さい」
彼の言葉に、ひとつうなずいて、彼女は常緑の庭に姿を消す。
森の暗がりで誰に会うつもりなのか、彼はわざと気づかぬふりをしてその背を見送った。