一つ息を吸って、吐いた。
息苦しいほどの緊張に、気のせいか心臓が痛む。
言われる言葉は、多分解っていた。
何を言ったらいいのかが、どうしても解らないままだった。
意を決して扉を開くと、真っ白な病室に、あまりにも似合わない男がベッドを占領していた。
押し込められているのが本当のところなのに、なぜかそんな印象を受ける。
それはきっと、相手がそう見せようと思っているからだ。
平気そうに笑うのも、痛ましさを感じさせない軽さも。
「あー、お嬢。来てくれたんか」
「……っ……お元気そうですこと!」
腹立たしくて、似合いもしない嫌味を言った。
そんな筈はないのにと、そう思う。
この笑顔は、あの時と同じだ。まだ彼も自分も幼かった、中学生のときの。――あの時と違うのは、目に痛い白がまとわりついているのが、腕ではなく足だということ。
彼にとって二度目のワールドカップの、目前だった。
ベッドの脇にパイプイスを引っ張って、そこに腰掛けるまでに必死に頭を働かせる。慰められるのは嫌いだと知っている、だけど何を言えばいいのかわからない。
「佐藤、あの……」
「しょーもないわ、ドジってもうて。……ま、今から焦っても間に合わんのやし、かえって気ぃ楽になったわ」
嘘だ。
泣きそうになって、腹立たしさと悔しさがない交ぜになって、身勝手な感情に唇を噛んだ。
先手を打って平然を装う。
作った笑顔で相手を誤魔化す。
それと気付いているから、何も言う事ができなくなる。
頑張ったのに。残念だった、でも次がある?
――そんな陳腐な言葉を吐けば、彼は苦笑して頷くだけだろう。
肚の下で嘲りながら。まるで自分を守るために、そんなことは大したことではないと、言い聞かせるように。
「……お嬢?」
「……何よ」
「頼むわ、笑ってくれへん?」
「っ……こんな状況で、笑えるはずがないでしょ……!?」
必死に声を絞り出した。
泣き出しそうな、みっともない顔をしているのだろうと思う。
シゲは苦く笑んだ。
無理を言っているという自覚はあるらしい。せやな、と小さく呟いて、起こしたベッドに身を預けた。
笑えたらいいのにと思う。
それは、彼にとっての甘えだったのだろうから。
だけど感情がぐるぐると渦巻いているようなこんな状況で、笑うことなどとてもできなかった。
嘘でも無理でも、笑えたらいいのにと、自分に嫌気がした。
何て無力なのだろうかと、また泣きたくなる。
代わりに泣くなんて考えは幻想だと知っていたから、膝の上できつく両手を握り締めて俯いた。
「……馬鹿よ」
「きっついわあ。お嬢ー……俺傷ついとるんやから、もうちょっと優しゅうしたってや」
「……どうして平気な振りなんてするのよ!」
叫ぶように言ったはずなのに、声が掠れた。糾弾というにはあまりにも弱々しく響く。
ひどい言葉だと解っていた。
言うべきか、言わざるべきか解らなかった。
彼は傷ついた顔も、怒った顔も見せなかった。
ただ感情を押し殺した苦笑のまま、呟くように言った。
「……ごめんな、お嬢」
「あ、謝れ、なんてっ……私、言ってな……!」
駄目だ。
泣くな。
爪を立てて手を握り締めると、シゲの手がそれを止めた。
「……ごめん」
「……馬鹿……!」
「ごめんな」
どうして謝るんだと怒りたかったけれど、口を開いたら涙が落ちそうだった。
どうしてだか解らない。悔しくて悲しくてたまらずに、謝らせることしかできない自分に吐き気がした。
「心配かけたわ。ごめんな。……俺は大丈夫やから、泣きたいなら泣いてええで」
違う。
わざと違うことを言っているのだと解って、引っ叩きそうになった。
何一つ変わっていない。変われていない。
踏み込めない自分と、踏み込ませない相手。痛みは確かにそこにあるのに、どうすることもできない。力になりたいと思っているのに、手を伸ばすことさえ許してくれない。
どうしたらいいのかと、力になりたいのだと、口にした時点でこの男は拒むだろう。
彼は、昔のように弱くはない。多分放っておいても、苦しんだ挙句に這い上がることはできる。その支えになりたいのだと言ったところで、拒まれるだけだと解っているのに。
黙りこくって俯く麻衣子に、シゲはゆっくりと言った。
「……おおきに。顔見れて嬉しかったわ」
帰れという言葉だと、そう感じた。
こくりと頷いて、腰を上げる。どうにか泣かないままに、彼の顔を見た。
「……また、来るわ」
「あー、すまん、堪忍してや。かっこ悪いとこ見せとうないし」
笑っていたけれど、冗談でも希望でもないと思った。
来るなと言っているのだ。オブラートに包んだ言葉は、けれど確実に、泣きそうなほどに傷を抉った。
傍にいられると駄目なのだと。
戦うのは一人がいいのだと。
そこにあるのは笑顔で覆いをした態のいい拒絶。
支えになりたいと願う足枷に、気を使えるだけの余裕はないのだと。
そんな本当のこと、気付かなければよかった。
「……佐藤」
あとどれだけの間、彼をこう呼ぶのだろう。
何か。
何か言わなければ。
「……私にできることは?」
その言葉の身勝手さに、泣きそうになったけれど、せめて視線は轟然と上げたままで。
一度俯いてしまったら、そのまま逸らされてしまう気がした。
シゲは、困ったように笑った。
「……ちょっとの間、抱きしめたって」
三階の窓から、遠ざかっていく後ろ姿を見送った。
意地のようにぴんと伸びた背筋は、泣いているようにも見えた。
――どうしようもないと、そう思う。
誰かに頼るということが、本質的にできないのだと思って、思い込みだと自嘲を浮かべた。
(しょうもない奴っちゃ……)
裏切られるとでも思っているのか。彼女を傷つけると自覚してまで、自分から切り離した。
多分、弱みを見せることが、自分にとっては苦痛なのだと知っているからだ。
やることは山ほどある。精神的な戦いも、その後に来るリハビリも、落ちた体力を取り戻すためのトレーニングも。
誰かに頼りながらそれを戦えるほど、今の自分に余裕がない。
胸中に呟いて、なんて可笑しな話だと皮肉に思う。
余裕がなければ誰かに頼れないなどと、本末転倒もいいところだ。
彼女のことを、大切だと思う。
傷つけたくない。守りたい。幸せになって欲しい。そんな風に、誰よりも願っている。それでも、まだどこか、多分崩せていない何かがあるのだろう。
それは、弱さなのだろうか。
もう随分昔に、かわすことをやめようと決意した。
ひたすらに、けれど計算高く努力することを初めて、追いかけていた未来をようやく形にした。
夢という名前では決して表せない、現実がこの手の中にある。今このときに一度途切れてしまったとしても、選手生命を断たれたわけでもない。必ずあの場所に戻ることができると、強がりでもなく確信している。
だけど、どうだろう。
その対象が人間になるだけで、このざまだ。
「……しょうのない奴やで、ホンマ」
いつか、向き合えるのだろうか。
この苦痛を感じることなく、彼女を笑わせてやれるようになるのか。
僅かに顔をしかめる。
あまりにも、自分が弱気な人間に思えた。
ぼんやりしているうちに夕日はもう沈みきって、宵闇が青く深く空気を染めていく。
ため息を吐き出して、それを自分らしくもないと思いながら、彼はそこから動かなかった。