どこからともなく聞こえる音楽
けれどそれはかすかに過ぎて
どこかにきっと在る天国
けれど月はあんなにもはるかで
私があなたを愛するほどに あなたが愛してくれるまでは
恋はあまりに遠すぎて 空には月さえも見えない……
How High the Moon
間断なく繰り返される電子音を右から左へと聞き流しながら、レイオットは手に持っていたペンをくるりと回した。鈍く光る万年筆は銀の弧を描いて、男の指に危なげなく収まる。
レイオットは手先を見ようともせず、ぼんやりと前方を見つめている。居間のテーブルでは、カペルテータがタイプライタに向き合って、指先から軽やかな音を次々に生み出していた。
もう一度ペンを弾いた瞬間に電子音が止む。
そうして再び指が銀の棒を捕らえたその時、コードを伝って声が響いた。
『はい、もしもし。シモンズです』
「今晩は、シモンズ監督官』
『……スタインバーグさん?』
壁に凭れ、半分目を閉じながら聞くその声は、若干の驚きに揺れているようだ。
それはそうだろう。魔族事件の出動要請で向こうから掛けてくることはあっても、こちらから連絡を取ることは滅多にない。
『何かありましたか?』
「……いや」
切迫した響きに苦笑する。
声が聞きたかったと言ってみたらどうなるかと思ったが、どう転んでも藪蛇になりそうだったので、危険な冗談への挑戦状は取り下げておくことにした。
「あると言えばあるんだが……あんたの反応を見る限り、大したことじゃないんだろう」
『はい?』
「気づいてなかったのか」
『気づく、と申しますと』
「ペンケース。忘れてったろ?」
あ、と声が固まる。
「色々入ってるようだが、仕事に支障はないのか?」
言いながら弄んでいるのは、半開きのペンケースからこぼれた彼女の万年筆だった。
片手の親指と人指し指で作った輪にすっぽり嵌りそうな革製のペンケースは、中をひっくり返して見た訳ではないが、ペン同士が触れ合って奏でるだけではない金属音がする。鍵でも入っているのだろう。
ネリン・シモンズ監督官が三日に一度のお約束と化した『レイオット・スタインバーグ真人間化計画』実行もとい魔法士資格取得の説得にやってきたのは本日午後のことであった。
常なら適宜列車の時刻を見計らってスタインバーグ邸を、徒労という重荷を引きずって辞去するネリンだが、珍しくも週末であることを失念し、平日ダイヤで時間を計算していたらしい。
四時過ぎに顔色を変えて立ち上がった。
昼でも一時間一本という田舎的発車本数を遵守する駅で予定の列車を逃すのはかなりの痛手だ。そして彼女は急ぐから自家用車で送ってくれなどとは口が裂けても言わない天晴れな性格の持ち主である。
走れば間に合いますからと叫んで飛び出していった背中を、元気のいいことでと見送ったレイオットがふと居間のテーブルを見てみれば、件のペンケースと資格申請書が置き去りにされていた。
後者だけならば次の訪問まで捨て置いただろうが、仕事道具と思しい物体を見て見ぬ振りするわけにもいかず、連絡を入れた次第である。
『え……ええ、いえその、忘れてたんじゃないんですよ。帰る途中で気づいたんですけど……今日は直帰の許可をもらってませんでしたし、明日は休日ですから取りに行かせてもらおうと思って』
「だったら何かありましたか、なんて訊くか?」
『そうなんですけど』
ネリンの口調に仄かな笑みが混ざる。
『スタインバーグさんが気づくとは思ってなかったんです』
「俺もカペルも、そこまで鈍くないぞ」
『もし気づいても放っておかれるかと。もしかしてカペちゃんに言われたんですか? 電話してやれって』
「あんたが人を何だと思ってるのか、この際是非とも伺ってみたいもんだな」
『余程のことであっても、自発的に他人と関わるなんて面倒は絶対にしないスローライフ人間では?』
レイオットは憮然と黙り込んだ。
確かに本来、十中八九どころか十中十の確率で放置しておくことだろう。ネリンはイージーミスをイージーにやらかすことは少ないし、その始末に手間取ることは更に少ない。こと日常レベルの些事に関しては、あっと言う間に対処法を編み出してみせる。
何事につけ、社会生活不適応者の代表格のようなレイオットがフォローしてやる必要など皆無なのだ。そのことは誰に言われるでもなく知っていたが。
「……暇だったんだよ」
『あはは。説得力のある言葉ですね。でもスタインバーグさんて、暇なら暇なままに過ごされそうですけど』
「……気が向いたんでね」
『気が向く方に?』
「ああ、何とでも言ってくれ」
『ごめんなさい。お手数かけて下さって、有り難うございます』
くすくすとネリンが笑う。小鳥が囀るような声だ。
耳許で転がるその笑声に違和感を覚え、レイオットは眉をひそめた。
ネリンは必要以上に愛想の良い女性ではない。世間話などもしないではないが、基本的には「資格を取って下さい」「嫌だ」「では本日はこれで」というお決まりの範囲内でのことであり、それ以上の話というのは──所謂ジャックが面白がって勘繰るような話などは微塵も向けられたことがない。
その彼女にしては、妙に柔らかで回りくどい物言いをする。
僅かではあるにせよ、こちらにおもねる風情というか。
「……酒入ってないか、あんた」
『え!?』
電話の向こうでネリンが絶句した。
数秒ののち、何やら上目遣いでもしているかのような用心深い声が聞こえてきた。
『呂律……回ってますよね』
「文法はおかしかないがな。トーンが妙に明るいから」
『いつもこんなものだと思いますが……』
「どこがだよ。しかし若い娘が週末の晩に手酌酒ってのも虚しいぞ、なんか」
『あ、自分はカペちゃんがいると思ってー』
「……それは全然違うだろ」
自宅で飲むと、外で飲む場合に比べて早く酔うと聞いたことがある。気を遣う相手もなく、帰るまで意識を保っていなければならないという心配もない。その分気が弛んで、あっと言う間に酒が回るのだそうだ。
誰に聞いたかと記憶を浚うと、答えはすぐに浮かんできた。そもそもそんなことを言いそうな知り合いは多くない。でもってその知り合い自身は、自宅で飲もうが外で飲もうがまるで酔わない人間であるから、尤もらしい言でありながら聞き流していたことも芋蔓式に思い出した。
それをネリンに言ってやろうかと口を開きかけ──レイオットはまた閉じた。
不適切な話題ではないだろうに、受話器の向こうの朗らかな声が、そんな他愛ない昔話を何故か喉奥に封じ込めてしまった。
腕時計を見ると、針は十時を回っている。
用件は伝え終わったのだからそろそろ切るかと咳払いをすると、ネリンが唐突に言った。
『そうだ。カペちゃんに伝えて頂きたいことがあるんです。お願いしても構いません?』
「……替わろうか?」
『いいえ、そんな大層な話じゃないんです。この間カペちゃんに訊かれたことがあって』
レイオットは二三度まばたきした。
あの少女が他人に質問を投げかけることは、少ないようで割合に多い。しかし相手がレイオットであるにせよ、訊くとなると酷く哲学的な内容であったりする。その場での明快な返答が難しい場合も多く、レイオットは適当にお茶を濁したりしているのだが、この生真面目な監督官は律儀にその質問を覚えておいて、きちんと回答を用意したのかも知れない。
「別に穿鑿する気もないが……何を訊かれたんだ?」
『何って、もとはあなたの寄越した質問だそうですけど』
「俺?」
『ええ。月を手に入れるには、どうしたらいいか知っているかって』
案外ロマンティストだったんですね、とネリンが思い出したように笑う。
柔らかな笑声を聞きながら、レイオットは何とも言えない顔になった。
……カペル。月を手に入れる方法を知ってるか。
頭に響く声は他の誰でもない自分のもの。
ハロウィンの夜。ネリンのバースディパーティ。彼女を家まで送ったとき、自分の家へと帰るとき、見守るようにずっとついてきていた円い月が目に浮かぶ。
彼女に贈った月の欠片も。
「それ、私もどこかで聞いたことのある話なんですよ。どこでだったか忘れちゃって、でも何だか懐かしくて。月を欲しがる話って意外と多いでしょう? だからどれだか自信がなかったんですけど、やっと思い出せたので。私が知ってるのは、満月の冴えた晩に、グラスにワインを注ぐんです。注いだ面が凪いだら、月を映して呑み込む。そしたら『ツキ』はその人のものになるんだって……」
茫としながらネリンの説明を聞いていたレイオットは、無反応を訝しく思ったらしい彼女に名前を呼ばれ、ようやく応えを返した。
「いや……何でもない。伝えとくよ」
『よろしくお願いします』
「しかしあんた、晩酌ついでにいつもやってるのか、そんなこと」
『まさか。二十になったとき一度しかやったことありません。でも、何だか素敵でしょう?』
照れたようにネリンが言う。
受話器の向こうでグラスを片手に、彼女が月の下に立っているような錯覚を覚えた。
……スタインバーグさんが気づくとは思ってなかったんです。
気づいても、放っておかれるかと。
彼女は信じられないほど前向きな人間で。
後ろ向きすぎるレイオットの手など必要なくて。
彼が手を貸すよりもっとスマートに、全ての物事を運んでしまう。
取り立てて器用でもなく、むしろ不器用に生きている筈なのに、その一方で自分で月を手に入れてしまう娘。
ずっと前から、月は彼女のものだった。
小さな代替物がその白い喉に寄り添うより先に。
二人出逢うより遙かな昔に。
何となく気落ちしている自分を悟って、レイオットは苦笑した。
「あんたもまあ、急性アルコール中毒で死なない程度にしとけよ」
『私、そんなにがばがば飲んだりしません』
「毎日飲んでたら飲めない奴でも量が増えていくって言うだろ」
『毎日なんて飲んでませんったら! 人をうわばみのように言わないで下さい。今日は特別なんです』
「週末だし、明日は休みだし?」
『それもありますけど。お月見ですから』
自慢げに言われて、レイオットは目をしばたたいた。
カーテンを引かない窓の外に視線を放る。部屋を映して夜の景色を隠しているとは言え、黒インキをひっくり返したように暗い空模様は見てとれた。明日の天気予報は雨だったように思う。それにハロウィンから二週間、出ていたとしても新月に近い。
「……あんた、かなり酔ってんじゃないか?」
月はいつも宙にあるなどと言い出したら何と言ってやろうかと考えていると、『何言ってるんですか』と笑われた。
『あなたが下さったんでしょう?』
「……へ?」
『ムーンストーンのペンダント。せっかく綺麗なのに職場の行き帰りしかつけられないなんて、寂しいじゃないですか。だから今日は特別なんです』
仕事から帰って、ほつれた髪を梳かして。
お洒落な服なんて持ってないけど、少しはましな格好で。
『仰る通り、ひとりでっていうのは少し寂しかったんですけど……こうしてスタインバーグさんからお電話も頂きましたし、外出するより良かったかなあって』
「……どういたしまして、と言うべきなのかな」
ようやく、それだけを言う。
レイオットは背中をあずけていた壁に頭も凭れさせた。
受話器から伝わってくるのは、目では見えない彼女の、手に取るように感じられる喜び。
いつだって形ある月も、そう悪いものではないらしい。
『スタインバーグさんはアルコール駄目なんですよね』
「可能不可能で論じるなら可能だが、進んで摂取したかないね」
『飲めたら楽しいだろうなって思いません?』
「大して思わんが……」
言葉を切って、心に浮かんだことを呟いた。
「あんたが楽しいんなら、それでいいんじゃないか」
『……そうですね』
応えが苦笑の響きを帯びる。
自分は自分、他人は他人。もしかしたらそんな風に受け取ったのかも知れない。
必ずしもそうではないのだが、改めて否定する気にはならなかった。じゃあそんな訳で、とどんな訳だと思いながら口にする。
ネリンが区切りをつけるように言った。
『では、面倒臭さを押してまで電話して下さった、あなたに乾杯』
そう言うところを見ると、手許にグラスを掲げているのだろう。
「では……君の瞳に乾杯」
途端、椅子から人が転げ落ちたような盛大な音が響いてくる。
微酔いとはこんな気分だろうかと思いながら、レイオットはこちらを見つめていた少女に少し肩を竦め、素知らぬ顔で受話器を下ろした。
……どこかで音楽が響いている
それはあなたのいるところ
どこかにきっと天国は在る
それは近くて遠い場所
あなたがここに来てくれたなら
世界でいちばん暗い夜も、光り輝くことでしょう
あなたがここに来てくれるまで
私の心は彼方に遠い、空にかかった月のまま──
『How High the Moon』
Nancy Hamilton 作詞、Morgan Lewis 作曲
2004/06 Caucus Race 玄さまより 相互記念
・・・というわけで相互記念に頂いたのはなんと 「SHEPHERD MOON」の続編!
月を手に入れる方法はいろいろあるんですね。
レイオットが素面のくせにすごいこと言ってるーーー!!
玄さんの小説はセトシズもレイネリも原作のイメージを損なわず、
しかもモチーフの使い方とかうまくて尊敬です。
どうもありがとうございました。
素材:La Moon