彼女が、泣いたり叫んだり、大笑いしたり怒ったりする姿を見たことがなかった。
多分、それは自分だけだと思う。
自分の知らない所で、彼女は認めた人間に、泣いたり叫んだり、大笑いしたり怒ったりする姿を晒しているのだろう。
それならそれでもよかった。
見せたくないのなら、生涯目にすることなどなくていい。
ただ。
ただ、伸ばした手を見た時の、あの強張った表情と、びくりと後ろに引いた体だけが忘れられない。
あれだけがひどく衝撃的だった。
嫌われているだとか、怖がられている自覚があった。
『ネジ兄さん』
あの、笑顔でついてきた幼い姿は。
無邪気に己の手を掴んだ、今より多弁だったあの少女は。
消えてしまったわけではなく、ただ変わってしまっただけだ。
その存在に縋っているとすれば、それはおそらく自分だけで、彼女は何とも思っていないだろう。
会いたいとも、触れたいとも。
けれど、どうか怯えないで。
指先の触れるまで
「――――っ」
「もうすぐ終るから我慢しろ」
白い、紫外線を知らないような肌に、真っ赤な血。
ぱっくりと開いてしまった切り傷はひどく痛々しいが、綺麗だと思ってしまった。
目をきつく閉じ、唇を噛み締める姿。
消毒液が傷口に触れる度に、眉が寄り、苦しげにびくりと反応する。
「辛かったら声を出しても構わない」
「大丈夫です…っ」
頑ななまでに、拒む。
もう任務は終ったのだし、声を出して敵に見つかるということもない。
味方ですら近くに居ないのだから、恥になることも無い。
ただ、自分は居るけれど。
それでも多分、彼女はたった一人でも声を押し殺すのだろうと、ふと思ってしまった。
意味なんて無い。
おそらく意地みたいなものだけ。
真っ白い包帯は、みるみる染まる。
例え子供でも、自分達は忍という存在なのだから、怪我をすることも、命を落とすことすらも有り得る。
それでも、直面してしまうと人とは弱いもので。
思わず深々と嘆息を吐き出してしまいそうになるのも、自然なことだと思えてしまう。
「応急処置はここまでだ。あとは里に帰ってから医療班に頼もう」
「…はい」
消え入りそうな声でされた返事に、思わず顔を歪めてしまいそうになる。
はきはきとした返事なんて、想像出来ない。
それでもやはり、こう、苛々が押さえきれない。
そんな顔を見られたくなくて、短く一言放ち、先を急ぎ足で歩き始めた。
躊躇ったような間を空けて、彼女の足音が聞こえたのにほんの少しだけ安堵した。
後をついて来ないわけがない。
そう分かっていても、言い知れぬ不安のようなものは、常に足音と影を潜めてつきまとっている気がする。
「何で」
「え」
「必要のない我慢まで背負うんだ」
後ろから響くのは足音のみ。
忍らしく足音を押し殺そうとしても、枯葉の上を一切の音を生じさせずに歩くのは不可能だ。
控えめな音と、野鳥の鳴く声が響いた。
「それは平和主義なんかじゃなくて、ただ封殺しているだけと、知っているんだろ、あなたは」
「…ごめんなさい」
「何で謝るんだ」
「…ごめんなさい」
埒があかなくなる。
彼女と会話する時、こういったことはよくあった。
そんなに度々というわけでもないのだが、ズレが生じると言うべきか、合わなくなってしまう。
強制的に終了、中断させられてしまう会話。
「…ネジ兄さんの怪我は」
「気にしなくてもいい」
「でも」
その二文字だけ、やけに力が込められていた。
彼女のその切り傷に比べれば、なんてことのないかすり傷の一種。
相手の刃でついたものといえど、毒刃だったわけでもないのだから、本当に大したことなどない。
庇おうとして、護りきれなくて、その挙句にあの傷を負わせてしまったのだから。
なんとも小さな代償だ。
精神的なショックの方が大きかったといえよう。
「強い者が弱い者を庇うのが、悪だとでも言いたいのか」
無意識の内に刺が含まれてしまったその言葉に、彼女は小さく反応した。
こんな時にまで白眼の能力は使っていないから、後方の彼女の様子など知る由もないけれど。
それでも肌で分かった。
瞬間、言い過ぎたと思わず顔をしかめた。
彼女には見えない。
「ネジ兄さんは正しいことをしたけど、でも、傷は負ってほしくない」
「こっちだって同じだ」
自分が庇ったのは何なのか。
護ったつもりでいた結果が、赤く染まった包帯なのか。
「私はいいから…」
踏みしめる度に枯葉が音を立てて。
ほんの僅かなそれに掻き消されそうなほど、まるで死の間際の声のように。
いいわけがないと思っても、何故だかそれは口から出ない。
庇おうとしたのだって、反射的かと問われれば否定しきれないけれど、違うものも混ざっていた。
歯痒さや苛立ちの類。
護りたかったなんて、言わなければ一生気付いてくれやしないくせに。
「じゃあ、俺も構わないんだろ」
「ネジ兄さんは、期待されてるから」
顔を見たくない。
ちょっとしたニュアンスの違いを含む、ひどく誤解されやすい感情だと思った。
情けないことなんて、とうの昔から知っている。
自己犠牲を主とする感情の流れも。
そんな顔はもう嫌と言うほど見てきたのだから、もう今更、これ以上脳裏に焼き付けるような真似をしたくない。
この感情を愛と呼べたら、どんなに楽なことだろう。
彼女に愛してもらえたら、どんなに楽なことだろう。
「俺もあなたに期待してる」
足音は途切れない、途切れない。
憎たらしいほど、縊り殺してしまいたいぐらいに苛ついてしまう、か細くも踏みしめてゆく音よ。
言葉にしてしまえばたった一言なのに。
ほんの少しぐらい、動揺してくれたっていいのに。
振り向かないのは、何の反応も無いのが怖いわけではないと、信じたい。
「別に、私なんて」
掴みかかって問いただしたい。
何であなたは、自分を卑下することしか知らないのか。
何で頼るという術を知らないのか。
瞼の裏に、先程の鮮やかと言えるような血の色が思い出されて、胃に重たいものが落ちた気がした。
人に傷ついてほしいなんて思うほど、自分も彼女も酷くはないから。
「また殺すのか。また自分だけ犠牲にするつもりか」
「そんなこと」
「とぼけるな」
まだ何かを言いかけていた。
それを遮ってまで、強い口調で押さえつけた。
失われた言葉がまた沈黙を呼んで、同じことを繰り返そうとしている。
くるりと振り返ると、彼女は怯えた様に身を揺らした。
それがどうしようもなく気に食わなくて、怪我をしていない方の腕を掴むと、更に逃げ腰になる。
恐怖か躊躇いか分からないように、小刻みに震える指先が、まるで腫れ物でも触るように伸びて、手を掴んだ。
縋るわけではなく、掴むその手を引き剥がそうと、拒絶しようと力が込められた。
泣きそうな顔をさせたいわけではない。
それが本意なのだと説明して、どうして彼女がそれを信頼してくれようか。
「私、ネジ兄さんに嫌われることしか出来なくて…」
「言うな」
「どうやればいいのか分かっているのに、ちゃんと出来なくて、ごめんなさい」
「…言うなと言っただろ」
尚もその手は拒み続ける。
血の滲んだ白い包帯。
あと何十日経てば、この護りきれなかった証は消えてくれるだろうか。
それとも、生涯消えないままだろうか。
「私、ちゃんとネジ兄さんに好かれたい」
視線を逸らしながら言われて、それのどこに説得力を見出せるのだろうか。
好かれたいのではなくて、嫌われたくないだけではないのか。
自分だけではなく、他人にも、関わりあう人全てに嫌われたくないだけで、自分もその一部なんだろうと思った。
それを面と向かって言いはしなくとも。
「…ああ」
ちゃんと見たい、触れたい、護りたい。
傷つけぬように、すれ違わぬように、どうしたらちゃんと交わらせることが出来る?
同じ気持ちならば、どうしてこんなにも歩調が合わないのだろうか。
「俺もそうしたい」
多分、言葉では足りない。
己の掌すら見えない暗闇の中で、互いをを探し合う。
2004/03/27 10000HIT企画フリー配布
[11:59] 安居 トキ 様