phaze down

コントロールルームの扉を開けた瞬間、ありえないものを見て海馬瀬人は思わず硬直した。
目と目があった一瞬後に、反射的に180度体を回転させ扉を閉める。
がちゃりとロックまで降ろした後で、深呼吸し、1、2、3と意味もなく数を数えた。
落ち着け。アレは幻覚だ、錯覚だ、気の迷いだ。いやよしんばなにかの気の迷いだったとしてもそれは多分、あの太陽神のカードと対イシズ戦の相乗効果によるサブリミナル現象だ。そういえばなんかあの時抱え込んでた女に似ていなくもなかったし。試合前に同じような経験をしたせいで深層意識内で記憶回路が混乱をきたしたのだきっと。
ふっ、と鼻先で笑い、彼は自分を立て直した。
無理もない。多忙を極める社長業と激しいカードバトルの二足草鞋で精神的にも肉体的にも疲労はたまりまくっているのだから。
「・・・このバトルが終わったら休暇でも取るか・・・」
そういえばモクバとウォーターシーに行こうと約束していたしな。
のどかな兄弟愛にひたりつつもう一度扉を開けると、果たして幻覚はまだそこに居座っていた。

「・・・海馬さん」
幻覚だ、幻覚。
そう自分を納得させる前に、気の迷いが口を利いた。
やけに深刻な顔をして、上目遣いにこちらを見上げている。
「待て」
その視線に、瞬時にいやぁな予感が走って彼は制した。
「・・・海馬さん、あの、あたし、・・・」
「待て。オレは聞かんぞ。何も言うな」
右の手のひらをつきつけるようにして言う彼に、川井静香が目を丸くした。
「どうして言いたいことがあるって、わかるんですか?」
「その目だ。」
「目?」
「なにか言いたいことがあるときの目だ。それもご相談がなんて言っておきながら、もうこっちの意見なんか全然聞く耳持たなくなっているときの女の目だ」
伊達や酔狂で従業員数万人の巨大企業の経営者をやっていない。男女雇用機会均等法を適用するまでもなく能力第一主義の海馬グループでは相当数の女性役員を雇用しているのだ。
「オレはそういう目をした女の相談には乗らんことにしている。結婚するから辞めたいだの、結婚しても勤めたいだの雇用者としての責任範囲内なら、できる限り望みはきいてやるが、お前は他人だ、兄妹でも友人でも従業員でもない、オレとはなんの関係もない他人だ。従ってお前の望みをきいてやる理由はない。だから何も言わずに回れ右をして兄のところへ帰れ」
言って、一般客室に通じる扉を指さした。
しかしながら、そんなことでへこたれる相手なら彼がこれほど戦慄を憶えるはずもない。
一見腰が低いようにみえて、なぜか異様に押しが強いのだ。この女は。
「わかってます。ええ、よくわかってるんです。赤の他人の、しかも参加者でもないあたしがこんなこと言うのは間違ってるかもしれないけど……」
嘘だ、と彼は思った。
「よくわかっている」人間が「かもしれない」などと言うものか。間違ってるとはっきり認めないあたりからじりじりとこちらの譲歩ラインを割ってきているではないか。
「でもやっぱり」
ああ、やっぱり。
でた、と必死で視線を反らせながら彼は心中でうめいた。
その手で女はこちらの譲歩を引き出すのだ。
粘り腰でけっして諦めない、悪く言えばこちらの言う事を全く聞かない、その点で女は結構交渉事には向いているのだが、いざ相手にしたときにはたちが悪い事この上ない。
だいたい聞く気はないとあんなにはっきり断言したのに、わかってるなんて言って全然わかってないではないか。
「でも、みんながあんなに傷ついて、舞さんはもしかしたら一生起きあがれないかもしれなくて・・・負けたらあんなひどいことになるなんてなんか間違ってます!」
「・・・・・・」
清々しいほどにまっとうな正論をぶつけられて彼は一瞬言葉を失った。
と同時にどんな相手にそういう正論を吐いているのかわかってるのかこの小娘とも思う。
海馬の姓を名乗って以来、力が正義敗者必滅の世界に生きている彼である。今更そんな小市民的正義感を語られてもなという感じだ。
「絶対まともじゃないです! こんな試合、止めさせてください!」
そのとおり、と彼は相づちを打ちかけた。そんなまともな神経があったらこんな大会やってない。
とゆーかここにいるほとんど全員(あの凡骨も含めて)その点に関しては同じ穴のなんとやらなのだ。
「海馬さんはこの大会の主催者なんでしょう? だったら止めさせることだってできるじゃないですか。お願いします、どうか・・・」
決闘者としての道がどうとか、海馬コーポレーションの株式相場がどうとか、そーゆーことをこの娘に言っても多分なんの意味もないのだろうな、と彼は思った。
確かにこの大会についていえば、ある程度予期していたとはいえ、度重なるハプニングにさしもの部下たちも中止を検討してはどうかと言ってきてはいる。もとは軍需産業なんぞに携わっていたくせに何を今更と、総帥権限で強引にねじ伏せたのは彼自身だ。
なんのために会場を極秘にして、高度1000メートルの空の上で決勝トーナメントをやっているのか。そして最後の優勝者決定戦をあんな廃墟で行うのか。それはいざとなればの手段に訴えることも可能だと、そう判断した故のことなのだ。
しかし・・・・・・。

この娘に乗船許可を出したのは失敗だったと彼は改めて思った。
決闘者の、身内。
城之内が傷つけばおそらくこの娘は黙っていまい。彼自身は今更人殺しだの人でなしだの言われたところで痛くもかゆくもない身だ。問題なのは彼自身についてのことではない。
「お兄ちゃん」と呼ばれ、「兄サマ」と呼ばれる。
事情は違えど、崩壊した家族の中で、唯一の肉親らしい愛情を育みあってきたその想いは海馬自身にもよくわかる。
多分傷つくだろう。モクバも。この娘も。

黙り込んだ彼に、静香はまっすぐに視線を向けていた。
長く失明していたのだという。初めて世界を見たのだという。
世界は美しいが、残酷だ。
そのことをすぐに思い知ることになるかもしれない。
せめてもう少し、きれいなものだけを見ていられたらよかったのにな。
踏み荒らされる前の花畑を見るような思いで、海馬はその目から視線をそらせずにいた。

「トーナメントは中止しない」

はっきりとそう言ったとき、彼女は傷ついたように自分を見た。
しかたがない、と思う。今更変えられないのだ。自分も、おそらく城之内も。
「お前も、城之内の妹なら、ヤツを信じてやれ」
「・・・・・・」
「城之内は、遊戯を信じていただろう」
自分がなぜこんなことを言っているのか、彼自身がいちばん納得できなかった。
友情だとか、信頼だとか。
彼自身はそんなものを信じたことは一片だってありはしないというのに。
そらぞらしさに嫌気が差した瞬間に、目の前の瞳の端が光った。
「・・・・・・そうですね」
指先で落ちかけた雫をぬぐって、彼女が笑った。
無理のない、落ち着いた笑顔だった。
「・・・そうですね、きっと。お兄ちゃんは勝って、舞さんは助かるんですよね。あたし、そう信じます」
待て。
と彼は思った。
誰もあの凡骨が勝つなどと言った覚えはない。てゆーかそれは無謀だ。信じるな。孔雀舞が助かるかもしれないという点はおいても、そのあたりは信じるな。
だが、あどけない笑顔で笑う少女は彼の葛藤を無視してさらににっこりと笑った。
「やっぱり海馬さんに相談してよかったです」
いったい、どこをどうしてそういう結論になったんだ。
オレは聞かんぞ、で始まった会話を反芻し、彼はナマコを丸飲みしてしまったような表情で絶句した。
相談? どのあたりが相談? てゆーか相談にのったのかオレは。しかも結果オーライなのか。

「ありがとうございました。」
懊悩する彼のことは気にもせず、静香は深々と頭を下げる。
「みんなのことはまだ心配だけど、とりあえず不安なのはなんとかなったかなって気がします。海馬さんも明日の試合、がんばってくださいね。応援してます」
「・・・・・・兄のことはいいのか」
「もちろん、お兄ちゃんも応援してます。遊戯さんも。・・・・あのマリクさんて人は別だけど」
「・・・・・・」
「できるならお兄ちゃんに優勝してもらいたいけど、でももし海馬さんと試合するんなら負けてもしようがないかなぁ、なんて。」
信じてます、などと言ったその口でもう兄を裏切る少女の精神構造が今ひとつ理解できなかった。
それは言った事には責任を持たねばならない経営者と、無責任な一消費者の違いであろう。
エラい人はたいへんね、ということだ。
若いうちからエラい人になってしまったせいで有言実行が信条になってしまった海馬瀬人は、つまり早い話が後天性の苦労性でもあった。
その苦労性の業が告げている。早くこの娘を追い払えと。そうでないと多分自分は・・・・・・。
「それじゃ、あたし戻ります。また何かあったら相談にのってくださいね!」
明るく、手を振って彼女は去っていった。
追い払い損ねた彼の手が呆然と空を切る。
扉の向こうで警備員が、なぜか彼女に丁重な礼をしているのが見えた。
致命的な失敗を犯したことを彼の優秀な頭脳が分析するまでもなく、彼女の「また」という一言が彼の耳の奥でいつまでもいつまでも反響していた。

オカルトは信じなくても、なにかに取り憑かれてしまったことだけははっきりと自覚できたその瞬間。
不合理性のゴミ溜めで太陽神が笑っているような気がした。
命運がつきる日というのはこんな日のことをいうのかもしれない。

…good luck,my load.