クラス替えも一段落した6月のある日。
そんな中で迎えた隣のクラスの転校生とともに、桜上水中サッカー部には新しい風が吹こうとしていた。

HRを終えた放課後、水野竜也は机の上に置いた腕時計を横目に見ながら、日誌にペンを走らせていた。
月に1回くらいの割合で回ってくる日直当番の、この最後の仕事は、本来なら相方の女子がやることが多い。
しかしあいにく社会係も兼ねていた彼女は友人数人と連れ立って6時限目に使った大判地図の片付けに行ってしまっていた。
上水の土手沿いの練習場所まで時間が惜しい。
けれど彼女が戻ってくるのを待って「書いといてくれ。お先」というのは彼の性格上できない話であった。
それで結局自分で書いている。もう大方は書き終わって、後は名前を記すだけだ。
日誌の最後の「担当欄」に几帳面な字で自分の名前を書く。
次の欄に相方の名前だ。

えーと、なんていったっけ。苗字は思い出せるんだが、下の名前は・・・・・・。

「へー、じゃあ多分ユキが学年でいちばん年下なんだー」

(  そうそう。そんな名前だった。  )

ふいに耳に飛び込んできた会話は実にタイミングがよかった。
ヒントさえ与えられれば、隣の席で何かと目にする機会の多いその名はたやすく思い出せる。

「一日ずれてたら1年生だったね」

「そうなのよ。しかも兄からはいつもエイプリル・フールだってからかわれちゃって・・・・・・」

 友人数人と連れ立ってようやく戻ってきた彼女は、水野の手元に気づいて淡く微笑む。
「あ、ごめんなさい。日誌・・・・・」
「いいよ。ついでだったから」
 何のついでなのかは言った当人にも意味不明だが、こう答えておけば社交辞令としては無難で適当だ。
 案の定相手はただ「ありがとう」と返してきた。
 そして再度日誌に目を落とすと、苗字まで書きかけて止まっていたその名を最後まで記し、確認のためにとやや目線を離して全体をざっと読み通した。
 内容は問題ないだろう。誤字も脱字も無し。
 生まれたときから何度も見てきた自分の名前は間違えようもない。
 最後に彼女の名前。

 それを目にした瞬間。
 ふとした既視感にとらわれて、彼はその名を見つめ返した。

 なんだろう。字は間違っていないはずだ。
 読みとしてはありふれた名、漢字としては両親の託した思いがすぐに理解できる、よい名と言えるだろう。
 それだけに間違えようがない。

 小島 有希。    ―『希』望が『有』る。

 やっぱり間違いない。
 なのに見慣れた記憶が何かが違うとささやいている。

「水野くーん、先行ってるよー」
 教室の扉の向こうで風祭が声をかける。
「ああ、後で」
 じゃあ、と元気な笑顔で駆けていく小柄な姿を見送って、頭を一振りすると、懸念の種を振り払った。
「たいへんね。」
 そばで見ていた彼女が声を掛ける。
「遅くまでやってるんでしょ。サッカー部」
「まあな」
 彼の机の隣のすぐそばに置かれた大きめのスポーツバッグに視線を落として、ふと彼女も同じものを見つめていることに気が付いた。
 半開きになったバッグの中の――サッカーシューズ。
「水野くん、上手いんだってね。今のキャプテンよりずっと上手いってみんな言ってた」
「そんなことないよ」
 あきらかな謙遜ではあった。正直、1年の時から、その差を意識しながらそれをばねにしようともしない今の3年生たちを、彼ははっきりと軽蔑さえしていた。
「嘘。わかってたくせに。ずっと」
 その響きにわずかながら苛立ちを感じたような気がして彼は視線をあげた。

 口調に感じた僅かな棘をまるで感じさせない笑顔がそこにあった。
 当たり障りのない社交辞令用の笑顔。
 気のせいだったか?

「練習行くんでしょ? 日誌返しとくね」
 訝しげな凝視にひるむことなく、彼女は彼の手元に手を伸ばす。
「あ、いや・・・いいよ。帰るついでに持ってくから」
 心中、気まずさを感じて彼は彼女から視線を逸らした。
 流れる目線の端に入った日誌とカバン。

「小島--有希?」

「え?」

 疑問型に終わった自分の名前に反応して彼女が首をかしげる。

「なに? 水野くん」
 さらり、とのばした髪が肩を流れて、普段は伏し目がちの瞳がやや見開かれる。
 お人形さんのようだと校内でも評判の美少女だ。しとやかなしぐさで髪を払うと手足の長さが際だった。
 「細い」のではなく「長い」のだと彼は横目で瞬時に見極めた。
「なに?」
 返事のない彼に再度問いかけてきた。

「----いや、なんでもない」

 目の前の彼女の名前を、今度は違和感なく受け入れると彼は日誌をぱたん、と閉じた。

「名前が合ってるかどうか確認しただけ」
「そう」
 机の上にちらばったペンや消しゴム、さっきまで内職していたフォーメーション・ノートやら最新のサッカー雑誌やらをまとめてカバンに放り込むと、「じゃあ」といって立ち上がる。

「じゃあ。がんばってね」
「ありがとう」

「小島さんはさ」
「え?」
「なんか、スポーツやってるの」
「ううん。帰宅部だけど?」
「そう」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「そう」
「背も高いし、手足も長いし、もったいないなって」
「そんなことないわ」
「そう?」

 傍目には当たり障りのない会話で、彼と彼女はお互いの心中を読み合っていた。

 彼の確信犯の笑顔が、彼女を追いつめようとしている。
 彼女が口を開きかける、ぎりぎりのタイミングで彼は身を引いた。

 聞いてなんかやらないよ

「じゃあ」
 そういって背を向け、歩き出す。
 口に出されなくてもわかった。決定打は、背中に感じるその視線。
 ちりちりと棘のようなそれの正体は、子供の頃から何度も同じものを味わってきた彼にはすぐにわかった。
 その名を嫉妬という。

『ユキが学年で一番年下なんだ』

『妹が誕生日なんですよ。プレゼント何がいいかっていったらこの試合で絶対ハットトリック決めろって--』

『一日ずれてたら1年生だったね』

『エイプリル・フールだけに、嘘にならなくてよかったですね』

『兄からはいつもエイプリル・フールだってからかわれちゃって・・・』

『本日のMVP、小島明希人選手のインタビューでした』

「小島--有希」

「小島--明希人」

 なるほどね。

 -----『嘘。わかってたくせに』

「嘘つきはどっちなんだか」

 -----『わかってたくせに。ずっと』

 もっと早く気づけと、そういう意味だったのだろうか。

「無理言う・・・」

 どうにも振り回されそうな予感を抱きながら。

 サッカー部に新しい風が吹いたその次の日。

 水野竜也は生まれて初めて女の子をナンパした。

「小島さん。サッカー好きだろ。マネージャーやらない?」

 相手の目がまん丸に見開かれ、ついで花開くように顔をほころばせるのを見て。
 彼は心中、大喝采を叫んだ。

 新しい、風が吹く。

…farewell,Hard luck….

■あとがき■■■■■■
9巻の彼のセリフを見る限り、彼はアンブロ仮面が誰なのかを明らかに知っていた口振りです。
しかし、土手沿いのあのシーンでしか彼女は正体を証していないはず。
有希の表情から察するに、水野に正体を知られていたとは思っていなかったようで、じゃあいったいどこでどうして?
 私的解決策は一つしかありません。風祭に負けないサッカー小僧で、しかも彼より長く桜上水にいる彼が、地元のプロサッカー選手を知らないはずがない。きっと柏の小島選手が近所に住んでる、くらいの情報は知っていたに違いないのです。
 あの人気ぶりから察するに、彼目当てのマネージャー志望は大勢いたはずで、それらを全部断っておきながら小島をマネージャーに据えたのは全部知っていたからに他なりません。 このスカシ野郎め!!
 えー・・・そんなわけでこの話の水野は1巻2巻の頃の細目のクールビューティくんを想像しながらお読み下さい。

■■修正項目■■■■■■2002/12/8
当初、有希は1年ずれてたら3年生、などと書いていましたが、BBSで、彩 みすゞ様から教えて頂いた情報によると、小島は85年生まれ、水野は84年生まれで、今は4/2~翌4/1が同じ学年になるのだそうです。
・・・がーん! 今はそうなの?
というわけで慌てて書き直しました。
データブックをちゃんと読んでおけばこんなことにはならんというのに・・・・。でもひそかに水野が年上でよかったと安堵しました。姉さん女房も悪くはないが、なんとなく。