決して手に入らないことは知っていた。
あれはそういう類の男だと、女としての本能で、理解していた。
追いかけても捕まえることなど出来ない、真夏の陽炎みたいなもの。
手を伸ばしても触れられない、雨上がりの虹のようなもの。
キレイでウソツキ。

歓声の中、フィールドに現れる選手たち。
あらかじめ決められた配置につくのを待って選手紹介のアナウンスが始まる。
もっともそんなものなどなくても、この会場に集まった観客の中で彼の名も顔も知らぬ者などいはすまい。

「背番号11」───「FW」───「藤村 成樹」。

 青いユニフォームにくっきりと白に染め抜かれた「FUJIMURA」の文字。 

 ───誰。
 ───アレは誰。

 歓声の中で黒と白のボールを蹴るその背中。
 
 ───知らない。

 ずっとサトーとしか呼んでいなかった。
 それが彼女にとっての彼の名前だったのに。

 彼が見事なポストプレーやシュートを決めるたびアナウンサーが叫ぶ「藤村」という名は、1年前まで彼女の目の前でふざけていたあの男とはまったく違う、他人のことを言っているように聞こえた。
「シゲのヤツ、絶好調だなぁ」
「風祭の分まで、頑張ってるって感じだね」
 隣の席で、高井と森長が話している。
 ああ、そう呼んでおけばよかったのかと。小島有希もそういえばそう呼んでいたなと。
 ほんのわずかちくりと胸が痛んで、似合わない舌打ちをした。
 とんでもないことだ。後悔だなどと。

『お嬢──。悪い、シャーペン貸してやー』
『筆記用具も持ってきてないんですの、あなたは!』
 呆れながらも貸したシャープペンシルはやがて当たり前のように彼の所持品になってしまった。

『お嬢──。タオル貸してー』

『ええもん食いよんなーオレにもくれへん?』

 図々しさに呆れても本気で怒ることができない。あたりまえのように手をさしのべてくる位置にあの男はいた。
「ちょーだい」といって伸ばす腕の距離の分だけ。それ以上は決して踏み込まず。
 図々しくても馴れ馴れしくはなかった。
 あっさりしていてもよく気のつく男だった。
 両親の紹介で引き合わされるお行儀のよい男たちの気の利かなさに苛立つ都度、無礼でも後のフォローのうまかった彼のことを思いだしていた。

『お嬢。へったくそやなー。ちょい貸してみー』

 かがり縫いのやりかたもリフティングのこつも、みんなあの男が教えてくれた。
 サトーとしか呼べなかった。呼ばなかったあの男。
 
 今更シゲなんて呼べない。
 でも藤村なんて呼びたくもない。
 それは知らない男の名前だ。

  ──どこにいるの。

 だだをこねる子供の自分に、昔から物わかりのよいいい子の自分がしたり顔で説教する。
 佐藤なんて男は。
 最初からどこにもいなかったの。
 いなかったのよ。
 
 だからこんなに醜い、切ない、情けない気持ちは
 さっさと洗い流して汚水と一緒に下水道にでも流しておしまいなさい。
 
 試合終了のホイッスルがなる。
 終わった後で気づく恋などなんの役にもたちはしない。
 涙のタイミングさえ、見つからない。


 席を立って皆で控え室に向かう。本来なら一般人は立ち入り禁止のはずだが、事前に松下コーチに連絡を入れてバックステージパスを入手していた。久しぶりに帰ってきた小島を水野に会わせてやろうといらぬ気を回したおせっかいやきがいたのだ。
 なんとなくついていきながら、自分は誰に会う気なのかと途方に暮れそうになる。
 武蔵野森やユーストリオにもなぜか顔の利く小島有希と違い、選抜のどのメンバーをとっても、あの男をのぞけば特に親しく口を利いていた覚えもなかった。
 小島の横顔にちらりと視線を転じれば、いきいきと輝く花のような表情に行き会う。
 アメリカで好きなサッカーを思う存分楽しんでいるのだろう。
 中学を卒業した麻衣子は自身のおそまつな頭のおかげで公立の学校すら進めず、結局両親の推薦で良家子女のための学校に入った。いまだ「よき妻よき母」を校訓に掲げる女学校にサッカー部などあろうはずもない。
 ライバルだった小島の存在がなければ自身の情熱だけで続けられるほど入れ込んでいたわけでもなかった。

 ──なのに、なんでこんなところに来ているのかしらね、私は。

 周囲に悟られないようにかすかなため息をついた時。

「なんや、暗いなぁ。お嬢」

 すぐ耳元で声がしたので、びくりと顔を上げた。
 もっとも会いたくなかった男がタオルを肩にかけて笑っている。
 
「────!」

 佐藤、と呼ぼうとしてとっさに唇を噛んだ。
 それは既に彼の名前ではない。

「なんや、忘れてしもうたん? オレのこと」
 淋しいわーなどとふざけた口調で笑う男は、彼女の躊躇など何処吹く風だ。
「忘れてはいませんわ。ただなんとお呼びしたらいいのか迷ってしまったものだから」
「そんなん、昔通りシゲでええがな」
 気安く言った後で思い出したように付け加えた。
「そういや、お嬢はいっつもオレのことサトーて呼んどったな」
「フジムラさんとお呼びすべきなのかしら」
「うわ、むっちゃ他人行儀。ええよ。昔通りサトーで」
「それは貴方の名前じゃないのでしょう」
「かまんがな。呼び方なんかどうでも」
「よくはありませんわ。名前は大事なものです」

 拘る自分が我ながらおかしい。けれど目の前のユニフォームに綴られたFUJIMURAの文字が腹立たしくて。

「ええて。お嬢の好きに呼んだら」
 お嬢。
 ふいにそれがこの男にとっての自分なのだと認識する。
 いつもこの男は彼女をそう呼んだ。上條とも、麻衣子とも、決して呼ばなかった。
 馬鹿馬鹿しい。結局この男と自分の間には拘るべき何物も存在してはいないのだ。
 あるのは本音の見えない仮面越しの会話ばかり。踵を返せば2秒で忘れられる程度の関係だけ。

 そう。今なら間に合う。

「お嬢はオレに会いに来てくれたん?」
「な!」
 タイミングよく放られた牽制球が、彼女の背中を打った。
 怒鳴りつけてやろうかと振り向けば、謎掛けをしているような男の笑みに行き当たる。
 探るような挑むような冷めているような真剣なような全てが混在した仮面のような笑顔。
「う、うぬぼれないでくださいな」
 怒鳴りつけるどころか、視線を逸らすので精一杯だった。
 くやしい。なんてこと。
「さよか」

 見え見えの反応を気にした風もなく、よっこらせっとサトー(としかやはり彼女には呼べない)はすぐ側の椅子に腰掛ける。
 脇にあったスプレー缶のようなものを取ると、シューズと靴下を脱いで、膝から下に吹きかけた。
 答えを待つ気もないのなら妙な謎掛けはやめてほしい。
 そう思いながらも安堵して視線を戻すと、目の前には擦り傷だらけの脚があった。

 「削られる」と言うのだそうだ。
 サッカーは当たり前だが脚でやるスポーツだから、ケガをするのももっぱら脚ばかりだ。
 特にポストプレーを得意とする彼のようなタイプのFWはゴール前の激しい動きの中でケガをしやすい。
 相手のスライディングやら、タックルやら、当たり所を間違えば骨折したり腱を切ったり見ていて痛々しい。
 視線に気づいたか、男がふと顔を上げる。
「なんや、心配してくれとん?」
 からかうように笑うその顔に痛みを感じさせる要素は少しもないけれど。
「別に」
 反射的に首をねじってそっぽを剥いた。
 そして気づく。見られたくないのだと。
 心の傷も同じ。はぐらかしてばかりで。
 一度逸らしてしまった視線はもう元に戻せない。
 ずるい男だ。
 笑顔で牽制して、勝手に遠ざけて、逃げたお前が悪いと言わんばかりに背を向ける。
 ないものねだりばかりして。
 いったいどうしてほしいのよ。
 いったいどうしたらいいのよ。
 何て。呼んだらいいのよ。
 
 もうこちらを向こうともしない横顔がくやしくて、唇を噛む。

 何て、呼んだら。

 それが分からないから、彼女はずっと途方に暮れたまま。