その事件はトリスタン市より120キロほど北にある、ある谷で起こった事件だった。

 ケースSAが市外地で発生するのは珍しい。
 魔族が魔法士の成れの果てである以上、魔法士のいないところに魔族は発生しないし、ケースSAが起こることもあり得ない。
 ただ全く皆無というわけでもない。産業系・・・特に土木・建築分野の魔法士であれば派遣先次第で、遠方に出向くことはよくある。
 そのうちの一人が魔族化したと連絡があった時、もっとも近い魔法管理局がトリスタン市のそれであり、けれど当のトリスタン市には待機中の戦闘魔法士がいなかった。

 本来ならばありえないことだが、その時は市内でもケースSAが発生しており動ける魔法士はそちらにかり出されていた。
 けれどいったんことが起これば対処を遅らせることは、致命的なまでの壊滅につながる。
 結果、またしてもレイオットがかり出され・・・事件そのものは多少の死者を出しながらもなんとかカタがついた。

 ただし、ケースSA鎮圧後の調査-原因追及のための関係者の証言集め、その場に残った遺留品の鑑識依頼など--を行っていたため、ネリンとレイオットが帰途についたのは、既にとっくに日が落ちた時刻だった。
 車を走らせてトリスタン市までは約4時間の道のりだ。深夜--とまでは行かないまでもかなり遅くなることは間違いない。
 ちなみに今回、遠出ということもあってカペルは家に残してきている。
 シェリング夫人に言付けてあるから後のことは大丈夫なはずだった。
 どこかで夕食でも取るかと近隣の村に立ち寄ってみたとき薦められたのが--。

「温泉?」

 初老の人の良さそうな夫人が--どこかシェリング夫人に似ている--親切そうな笑顔で指さしたのは、村のはずれに立つひとつの標識。
「そう。雑誌の取材が来たりしてね。結構有名になってるんだよ。ほら、『穴場の露天風呂』って、最近流行りだろ」
 それはネリンも知っていた。
 最近職場の同僚たちの間でもどこそこの温泉が美容にいいだの、景色がすばらしかっただのという話題がよく茶飲み話の席に上がる。
「露天風呂ねぇ・・・」
 レイオットもまんざらではない様子だ。
 ただでさえ疲れた体で4時間も乗り心地のよくない車を運転して帰っても、待っているのは人気のない家と、自分で用意しない限り口に入ることのない食事だ。
 だいたいが金に糸目をつけなけらばならない生活はしていないし、田舎警察とのしち面倒くさいやりとりで神経をすり減らした後なのだから少しぐらい癒されたってばちはあたるまい。
「どうする? よければ宿代くらいだすが?」
 ネリンにとっての最大の懸念事項を先に解決してやると、彼女もあっさりうなずいた。
 彼女にしてもこんな夜遅くにこの男と二人でよれよれになって帰ったところで得るものなど何もないのだ。
 どうせ滞在許可は明日までもらってあるし。
「よければ立て替え払いをお願いできますか? なるべく経費処理できるように掛け合ってみますので」
 そして二人は書いてもらった簡単な地図を手に山道をたどり始めた。 

*** 

 流行りだとは言ってもシーズンオフの平日とあってなんとか宿を取ることはできた。
 ほっと一息ついて食事の時間だけ女中に確かめるとネリンは早速自慢の露天風呂とやらに足をのばす。
 雑誌の取材が来るだけあって、その風呂は予想にたがわぬ、否、それ以上の素晴らしさだった。
 常緑樹の森の中、岩棚をくり抜いて作った天然の温泉は眺めも湯質も申し分ない。
 しかも夜遅く、閉まるぎりぎりの時間とあって他には誰もいなかった。

 こんなところで、あんな災難の後に、こんなすばらしいご褒美が待っているなんて!
 やっぱり日頃の行いって大事だわ、神様どうもありがとう!!
 感無量に胸を躍らせつつタオルを握りしめる。
 超穴場の、野趣溢れる露天風呂を独り占め!
 これほどの休暇はそうざらにはない。予想もしていなかっただけに喜びもひとしおだ。
 小市民的な喜びに骨まで浸る彼女が、日頃追求不可能なロマンと安らぎに満ち足りて星を見上げていたところで誰が責められよう。
 けれど災難は忘れた頃にやってくるというのは人間世界における真理である。
 人生とはとかく過酷なものなのだ。特にネリンのような苦労性を絵に描いたような人間には。

「・・・すたいん、ばーぐ、さん?」

 ほとんど半裸に近い、、というより腰にタオル一枚巻いただけの---同行者の姿を目にした時ネリンは森の奥に野生の鹿の姿を見かけたような気がして上半身を乗り出したところだった。

「シモンズ監督官?」

 かたやのレイオット・スタインバーグも、なぜこんなところに彼女がいるのかわけのわからない、といった顔をしている。
「・・・・・」
 しばらくフリーズ。
 そして再起動後、演算開始。しばし沈黙。
 すなわち。
「いっやああああああああーーーーー!!!!」
「いや待て落ち着けシモンズ監督官!」
 叫びだしたネリンに対して、慌てて口をふさぎにかかるレイオット。
 ここで騒ぎ立てては事態をややこしくするばかりだ。
 危機対処能力という点ではいやというほど経験値を積んだ魔法士であるレイオットはいちいちこの程度のことでおたついたりはしない。
 ただこの場合は。
 相方がいい意味でも悪い意味でも官僚カタギのネリンだということが問題だった。
 口をふさぐにあたって接近しすぎたためか、彼女は余計に混乱したようだ。
「とりあえず俺はすぐここを出る。あんたも10分くらいしたら出て、俺と交代する。いいなそれで?」
「むー」
 口をふさがれながらもうなずくネリン。
 ともあれこれでなんとか・・・と思った途端。
「いい月夜だねぇ」
「まったくですな。これで若い娘でもいれば申し分ないですがねぇ」
「はっはっはっ奥方に聞かれたらたいへんだよ」
 かなり・・・ベタな会話だったが、状況はひじょーーーにわかりやすかった。
「おや? 先客がいらしたかな」
「いやあ邪魔してしまったかねはっはっはっ」
 だったら入ってくるんじゃねぇ!!
 心中らしくない叫び声をあげるネリンをなんとか背後に隠しつつ、レイオットは早く行けとうながした。
 脱兎のごとく駆け出すネリンに、
「おやおや照れ屋さんな奥さんだねぇ」
 のんきな声が聞こえ、明日もし出会ったら絶対にハンティングホークの餌食にしてやると、生まれて初めてネリンは他人を呪った。

 ああ・・・さようならあたしの休暇。
 なんと儚き人生の幸福。
 もしかして・・・あたしってわりと不幸?
 あらためて考え直すまで気がついてないあたりが、彼女の人生の最大の不幸かもしれなかった。 

***

 「いらっしゃいませぇ。お食事お持ちしましたぁ」

 間延びしたのんきな声で女中が盆にのせた山の幸を運んできた時、
 骨休めに来たはずの2人は着いた時より疲れ果てた様子で食卓につっぷしていた。

「あらあらお待たせしちゃいましたかねぇ」
 悪気のない脳天気な笑顔で、女中が皿を並べる。
 目の前に置かれた食事はそれなりにおいしそうであったが、今の二人には食事より安眠が欲しいというのが正直なところだった。
「お客さんたら、ずいぶん疲れてらっしゃいますねぇ。うふふふふ」
 謎の含み笑いだったが、それを追求する気力すら今の二人には起こらない。
 ようやっと体を起こしたネリンが、フォークを手にとる。
「ひとつ聞いときたいんだが」
 レイオットがまだ起きあがらない姿勢のまま--ついでにいえば視線も窓の外に向けたまま--、無気力な声で問うた。
「はいー?」
「ここの風呂はみんな混浴なのか?」
「はいー。露天はみんなそうですねぇ」
「露天以外はちゃんと男女別なんですね?」
 ネリンが確認する。
「はいー。でもみなさんあんまりそっちは入られないですよー。ってゆーかうちの名物はやっぱり露天だしー。
 なんといっても新婚さん御用達の宿ですからぁ。みなさんそっちが楽しみで来られてるようなもんですしー」
「・・・・・・・」
 悪気のない脳天気な笑顔で女中はさらりときわどいことを言ってのけた。
「しんこん、さん・・・」
「御用達?」
 村でここを薦めてくれた善良なおばちゃんは、そんなことはすこっしも言っていなかったと思うが。
「ええと、私たちはしんこんさんなんかではないんですけども・・・」
 笑顔でひきつるネリンの声はこころなしかイントネーションがおかしい。
「あらー。そうでしたねー。でも珍しくないですよー結婚しててもしてなくっても目的はおんなじなんですしぃー」
 おんなじなんかじゃない!!! 
 心中激しく否定するネリンだったが、持って生まれた良識でやつあたりに近い怒りをなんとか押さえ込んだ。
 この人に罪はないんだ罪は。ただほんのちょっと・・誤解があるだけで・・・。 

( ・・・こんなことじゃないかと思ったんだ・・・。)
 自分が行きたがったことはちゃっかり棚の上にあげたレイオットは、ただでさえものぐさな頭を起こすことなく、深く深くため息をついた。

***

 翌朝。
「ありがとうございましたぁーーー」
 従業員の威勢のよい合唱に見送られて脱力したまま二人は宿屋を後にした。
 教訓。
 『地獄への道は善意善意で塗り固められている』。
 ホルスト教典もたまにはまともなことを言うのだ。

 ちなみに今回の宿代について、レイオットはネリンに請求せず、ネリンもそれを踏み倒すことについてはいささかも躊躇しなかった。
 真面目な彼女だってたまにはそんなこともある。