額に手をかざして真夏の天穹を仰いでいたら、中学時代に習った詩のことを思い出した。
 あれも確かちょうど今の自分に似た話だったと思う。
 自分に帰るところがあるような気がする、と。
 まさしく錯覚だ。戻れる場所などあるはずもない。
 今、現実こうして自分は「戻って」きているはずなのだから。
 あの空の向こうにあるのは、結着点ではなく、通過点だった場所なのだ。
 そうは言い聞かせてみても、思いを馳せてしまうのはたぶん、置き去りにしてきたものたちが心の奥でざわめいているせいだろう。

( ーーーー未練がましいこっちゃ。 )

 うつむいて、足下の影を見る。
 真昼の太陽がつくる影はひたすら短く自分の足下にうずくまっている。
 縫い付けられたように動けなくなる。
 お前はここにいるんだと、もはや自由ではない彼の意思を思い出させる。
 いや、ここにいると決めたのは自分なのだから自由ではないなどと言ったら罰が当たるのだろうが。
 夢を追う覚悟とともに背負い込んだものは、思いもよらず彼を制約していた。
 それをつい悔やみそうになる、中途半端な自分がいやだった。

『知らないわよ! 自分のことじゃないの。好きにしなさいよ!』

 こんなときいつも思い出すのは、最後に会った彼女の言葉だった。
 確か、中学の卒業式の日。
 関西の高校に行くことになった彼が、迷いながら告げた言葉に返ってきた科白。
 おうかがいをたてるような彼の態度が気に障ったらしく、例のごとく口調も態度も突き放すような調子だったが、その視線だけはなんだか妙にくやしそうだった。
 結果、彼は好きにして、そして今ここにいる。
 好きにしなさいよ、と彼女がきびすを返して出て行った教室に一人残されて。
 突き放されたくせに妙にうれしかった自分のことを、彼はよく覚えている。
 
 実際、彼と彼女は中学時代から今においてまで、ただの一度も何がしかの「カンケイ」があったわけではない。同じ部活仲間で、個人コーチを引き受けたことがあって、追試でよく顔を合わせるくらいで、それ以上のことは何もなかった。
 なのに、卒業式の日に、いきなり「俺、関西に戻るねん」と切り出した彼に、最初、彼女はきょとん、とした顔だけ向けていた。
 怒らせたのは次の一言だ。
「けど・・・ほんまは戻りたないんかも」
 
 戻ると決めたくせに、戻る手配も済んでいるくせに、今更になって露呈した己の弱さ。
 糾弾する瞳はまさしくそれを責めていた。
 行かないでと言われたかったのか。そうしてやっぱり止めたと、そう言いたかったのか。
 それこそまさかだった。
 彼女にそう言われたところで、彼はきっとそうはしなかった。
 一度は逃げた場所に、また戻るために必要だっただけだ。
 ここにもまだ、必要としてくれている人がいる、と。
 そんな自己満足で、かっこつけの己のプライドを守りたかっただけ。
 何処までいってもなんて駄目な、なんてちっぽけな、なんて弱い自分だろう。
 きれいさっぱり、完膚なきまでに叩き潰してくれた彼女はもういない。
 泣き出しそうな瞳は、それでも彼の弱さを許さなかった。

( やから、好きやってん )

 甘ったれの自分を置き去りにして、とっとと教室を出て行って、そのまま何ひとつ言わせずにさようなら。
 後味の悪いのは彼女も同じだったろうに、走り出した船のように後ろには引き下がらない人だったから。
 あの日のまま、変わらない君でいて。
 自分が変わっても、誰が変わっても。
 そんなことはあり得ないとわかっていても。
 願わずにはいられない。
 

 遠い異国の地で、もはや戻ることのできない空を仰ぎみる。
 右手には白いカード。
 馬鹿な願いをたった一つ。

『変わり、ないですか?』

 空を通ってきた明るさが、二度と同じ場所に帰ってはいけなくても。
 焦がれるように、望み続けることは止まない。
  
 

奥菜様主催:2006年シゲマイフェスト初出