昔。まだティキ・ミックが千年公のいうところの「覚醒」と呼ばれる瞬間を迎えて間もない頃。
 目覚めたての本能と人格を持て余しながら、人間としての自分とノアとしての自分、どちらを選ぶべきか、そもそもどちらも失いたくないのになぜ選ばなくてはならないのか、もしかしたらどちらとも折り合いながら生きていくこともできるんじゃないかとぼんやり考えながら、それでも時折強く自分を支配するノアとしての本能を悟るにつけ、そんなことは希望的観測でしかないのかもしれないと、人間としての自分が絶望し、やけっぱちになりかかっていた頃。
 いわゆるこの「新米ノア」に千年公が回してくる仕事といったら、「アレをアソコに持って行って、代わりにソレをソッチに」的な子供のお使い以下の作業か、そうでなければまるっきり意図の読めない、はっきりいってノアとしての存在目的にはまるっきり関係ないんじゃねぇの的な仕事が多かった。
 だから、今回の指示を聞いたときもやはりどこをどうひっくり返してもこれは世界の改造とか人類滅亡とかそんな物騒な目的とは関係ありそうにないな、と思わざるをえなかった。
 なんとなれば、それはとある「ニンゲンの」「女の」「就職相談」だったからだ。

 千年公が三週間ほどの欧州旅行を終えて帰ってきて開口一番にティキに告げたのは、
『ティキぽん。アナタちょっとドイツ行って来てくだサイ』
 という例によってこっちの都合おかまいなしの一言だった。
 オレは確か一昨日までメキシコの密林くんだりまで行かされてあるのかないのかもわからないような古代の遺跡を探させられたはずなんですがねと内心思いながら、
「今度はなんです」とややうんざりぎみに問い返した。
 理由などそれがどんなくだらないことであるにせよ、断れるわけがないのだということは知りながら。
 果たしてそれはやっぱり端的にいってくだらなかった。

 身も知らない女の就職相談。

『イヤそれがモウ見ていて気の毒なくらいダメダメな娘なんですヨ』
 と千年公は実に実に楽しそうに言うのだ。
 ドイツのとあるホテルに滞在した際に、彼の部屋付きメイドになったらしいのだがこれがまあものの見事に役に立たない。
 お気に入りのシャツはダメにされるわ、給仕をすれば皿はひっくり返すは、三歩歩けば確実に四歩目はつっ転ぶと言う有様。
 さしもの千年公でなければとっくに怒りだしていただろう。けれど彼女にとって幸いなことに千年公という男は表向きの顔は最上級の紳士であり、篤志家であり、さらにまた実に実に気の長い男だったので(実際数千年近く生きていれば大抵のことはほんの一瞬のことだ)たいして問題にもせず飽きることなく彼女のヘマにつきあった。
 のみならずとうとうクビを言い渡された彼女に再就職先の世話までしてやろうというのである。

『でもワガハイはすぐにフランスに行かなくてはならない身デシタ』
 それでかわりの者をよこすから、という伝言を残して旅行から帰って来た、というわけなのである。
「なんでオレが」と思わず返してしまったが、理由は単純で、ティキが彼女と同じ欧州の下層階級の出身であり、若い娘の相談相手なら色男の方がいいだろうという気が利いているのだがいないのだかよく分からない理由。
『それに、他の子たちはちょっと気の短いトコロがありますからネェ…ティキぽんならきっとおもしろがって相手するデショウし』
 確かにロードあたりに任せたら再就職どころか息の根を止めて帰ってきそうな人間ではある。
『頼みまシタヨ』
 と背を向ける千年公に、ティキは最後の問いを投げた。
「なんだって、そんな面倒みる気になったんです?」
 暗にその娘に何か後ろ暗いことでもしたんじゃないか、という意味である。
 貴族の中にはたまにそんな悪さをする人間がいる。千年公に限ってまさかとは思うがシェリルにつきあって貴族社会に出入りするようになってからそういったケースを何度か目にすることがあった。
『ティキぽん。アナタなにか失礼なこと考えてますネ?』
 振り返った千年公は特に怒った様子もなく、ただ人の悪い笑みを浮かべただけだった。
『アナタも会えば分かりますヨ。あの娘のダメさ加減ときたらそれはもう絶望的で、まさしく悪魔に魅入られたような人生なんですカラねェ…』
 絶望は悲劇を産み、悲劇はAKUMAを産むんですヨ、と彼は変わらぬ格言を残して気配を消した。
 

「で、これで何回目なわけアンタ」
 明らかに貴族らしい男がこともあろうに場末の酒場で、大きく足を組んで肘をつき、イライラと指をタップさせる姿は意外と場に馴染んでいた。
 対面に座る痩せぎすの女はさっきからハンカチに顔を埋めたまま一定の間隔でしゃくりあげている。女の嘆き悲しむ姿というのは普通憐れを誘うものだが、この女のそれはなんでか滑稽な喜劇めいている。
「すっ、すいません……78回目です…」
「78回……」
 この調子なら3桁大台に乗る日は近いだろうと、呻くように繰り返し、ティキはやや凄みのある声で相手を睨みつける。
「前に会ってから2週間しか経ってないよな…。それで何で5つもカウント増えてんだよコラ」
 もはや口調も貴族のそれではなかった。
 ミランダ・ロットーに会って3回目で彼は上っ面だけの紳士芝居を放り投げた。
 最初はそのドジっぷりというか無能っぷりが見ていて面白く、いいヒマつぶしになるかなと考えていたものだが、紹介してやった就職先全てを3日以内でクビになってくるとあってはもはや面白いの限度を越えている。
 以前はちゃんとした場所で食事をしながら、紳士らしい慰めの言葉を口にしてやったりもしたが、ここ最近ではこうしていかにも場末の酒場といった安っぽい場所に連れていってヤケ酒がてら相手をすることが多くなった。
 どっちかといえばティキ本人もこういった場所の方が馴染みが深く落ち着ける。お上品に振る舞うべきノアとしての自分に対するささやかな反発意識もあった。(実のところそちらについては本人無自覚である)
 それにしてもまあよく泣くこと。
 手にしたハンカチはもう湿りに湿ってとうに吸水力を失っている。
 それでもティキがまあ食えよ、とすすめるに従ってフォークを取り、泣き腫らした真っ赤な頬にもぐもぐジャガイモを頬張る様はこの間メキシコの密林で見たメガネザル類の子供そっくりでこれのどこに悲劇の要素があるんだと千年公の眼鏡違いを疑いたくなった。
 
 実際深入りし過ぎかなと思う。
 彼女の先の見えない就職先探しもいい加減限界が来ていた。
 つまり、これはダメだ、と。
 彼女自身ががんばっていることには理解を示すものの、もはや努力だけではどうしようもない範疇だと彼の方は見切りを付けにかかっている。
 何かよほどの技能を身につけない限り、マトモな就職は無理だろう。
 だがそんな技能を習得できる頭も器用さも気の毒なことにこの娘にはない。
 マトモな就職が無理なら、マトモでない道を探すしかなかった。
 しかしマトモでない商売にもやっぱり向き不向きは存在し、わけても女が稼げるいちばんてっとり早い道については、彼はもっと早い段階で見切りをつけていた。容姿自体はよく見れば悪くはないのだが、なにせ全体から醸し出す雰囲気が地味で暗い。くわえてこの痩せすぎて鶏ガラのような体つきに金を出す男がいるかどうか。だいたい娼婦なんてのは陽気で柔らかくて抱いてて心地いいことが条件なのだからむしろ太っているくらいの方が好まれるのだ。さらに加うるに、この女には交渉能力というものが決定的に欠けている。下手な相手につかまればタダ乗りさせられて終わりだろう。そうまで言い切るのはなんのことはない、不埒にもティキ自身がそれを実証済みだからだった。
 ミランダ本人はバカだからそんなテストをさせられたとは思っておらず、単なる恩返しくらいに捕えているのだから底が抜けているにも程があった。自身の価値を自分で貶めて、これでは到底客など取れまい。
 そうすると後はもう一つしか道はないのだ。
 「永久就職」。これである。

 
 ミランダ自身の能力や才覚はともかく、幸いなことに性質は悪くない。
「気立ての良さ」だけを売りにしてどっかの誰かを騙し脅してでも婚姻誓書にサインさせてしまえばしめたものだ。16世紀に猛威を振るった宗教改革の波を乗り切ったこの街は未だ人口の八割がカトリックというドイツ帝国内でも珍しい街だった。政策として民事婚が規定された今でも、意識的に離婚は忌避する傾向が強い。こんなときばかりは神様バンザイだと遺伝子レベルの罰当りが心中叫んだ。

 だがしかし先ほどから説得しているというのに、当のミランダが首を縦に振らない。
「私、一生結婚はしません」などと正気とは思えない言葉を頑固に繰り返し、理由を問いただしても泣きじゃくるばかり。
 よもや誰か他に好きな男でもいるのかと思いきやそれには激しく首を横に振る。
 じゃあなんなんだ、お前、女の幸せってヤツは最終的にはそこだろ? 売りどき逃がしてる身で贅沢いえるわけでなし、日々の糧に苦労しなくてすむようになるだけでもマシってもんだろうが。
 そう言ってやってもやっぱり頑強にうんと言わない。
 いい加減ティキも我慢の限度を超えて、そこまで言うんならもういい、オレは金輪際面倒みないからなと匙を投げてみせたらようやく白状した。
 つまり自分は清い体ではもうないから、というのだ。
 それは要するにティキと、一度だけとはいえそういう関係を結んだことを指すらしく、今さらそんな話を蒸し返されて盾にされるとは思ってもみなかったティキを十分にとまどわせた。
「お前、それってつまりまさかこっちに責任とれってこと?え?そんな話になんの?」
「違います、違います。そんなこと考えてません。まさか、ティキ様とそんなこと」
 激しく、それはもう激しく首を振ったミランダは、次の瞬間にはうなだれたように肩を落とす。
「でも一度罪に触れた身ですから。やっぱりそれを隠して結婚というのはちょっと。いえ別にティキ様のことはいいんです。あれは、私がそうしたいと思ったからで、そうしてもらってよかったんです。一生の思い出になるって思って、うれしかったんです。もともと私みたいな女と結婚してくれる人なんていないだろうと思ってたし、だったら一生に一回のことくらいティキ様みたいな方にしてもらってよかったと思ってます。だから最初から結婚は諦めてたから、だからいいんです」
 呆れた貞操観念、と言えなくもない。
 確かにこのあたりの人生観を鑑みるにこの歳になるまで独身の女というのはもう嫁き遅れどころの話ではなかったから、ミランダの諦めも察するにあまりある。だがあのたった一夜のことにそんな覚悟を決めていたなどこちらは寝耳に水だ。
 ティキの側からすればお前それは反則だろう、と憮然とするしかなかった。
 しかしてミランダはこちらに何も求めてはおらず、でも他人との結婚は受け入れられないというのだから、どうにも決まりが悪かった。
 結局しばらくして泣きやんだミランダが、ご迷惑かけてすみません、といつものきまり文句を残して去っていくまでティキは黙ったまま酒にも料理にも手を付けず、ただ煙草の煙を空に踊らせ、ともに空転する思考をなだめ続けていた。


 久しぶりに仲間のところに戻り、4人で食事をしている間もティキはまだ考え込んでいた。
 帰って来てからこっち心ここに非ずといった体たらく、今もエールのジョッキを手にかたまったまま5分経過の彼に不審を抱いた仲間の一人が声をかける。
「どうしたティキ。なんか悪いモンにでもあたったのか?」
「いいやそんなんじゃねぇよ。……なぁ。オレがもし万が一、結婚とかしたらお前らどうする?」
「結婚? 嫁をもらうのか? お前が?」
 ご丁寧にすべての単語に疑問符をつけて悪友二人が素っ頓狂な声を上げ、ついで顔を見合わせる。
 ティキの表情が至極まとも(真面目とは違う。断じて)であることを悟り、しばし考え込んだ。
「まあなぁ…嫁もらって落ち着くってんなら今までみたいな流れの暮らしは無理だわな普通」
「でもないだろ。今の現場にだって女房どころか子供やジジババまで連れてきてんのもいるじゃねぇか」
「そういやそうか。考えてみりゃ働き口が増える分だけラクかもな」
「イーズにとっちゃいいかもな。オレらが仕事してる間一人で待ってなくてもいいんだしよ」
「ああ。仕事の幅は減るかもだけど、そもそもオレらの仕事なんざ頭数揃ってて期日通りこなしゃ文句は出ないんだしよ。なんとかなるんじゃねぇの?」
「ああそうか。そんなかわるもんでも…ないのか」
 意外と反対意見は出なかったのでティキはちょっと拍子抜けして、ついで得心してしまった。
 基本貧乏人は共働きだ。女でも生まれたての赤ん坊を背に結わえて洗濯婦、炊事婦、針子といったその日仕事をこなす。だいたいが日雇い契約だから、定住者、流民問わず仕事の需要は十分にある。問題はミランダ自身がそれさえおぼつかないほど無能だということだが。
 ティキたち自身にしろ小さな子供1人連れ、というハンデがあっても仕事に困ったことはあんまりなくその日暮らしでもなんとか生計は立っていた。
 ふとイーズに視線をやれば、いつも通りの無表情の中に、ほんの少し好奇心を滲ませて彼を凝視している。さしずめ期待半分、不安半分、といったところ。
 そんな彼に曖昧な笑みを返し、ティキは小さな頭にぽんと手を置く。それが何かをごまかすときの彼の合図だとイーズはよく知っている。  

 現実的な問題にカタがつきそうだと踏んだ途端、彼の思考は一気に飛躍し、常の状態ならばまず振り切ることのない方向に傾きつつあった。 
 覚醒以来、彼の保護者を自認し名目上の兄となったシェリル・キャメロットなどが常々「できれば家の繁栄に繋がるようなより良い結びつきを」と押し付けてくる見合い話のすべてを適当に、そしてあからさまに迷惑気に拒否してきた彼が、こともあろうにたった一度好奇心と呼ぶにも足りない思惑だけで関係を結んだミランダ・ロットーなる異国人の、しかも下層民相手にその気になるなどいったいどんな気の迷いを起こしたのか。本人にも不明だったが何故かしらそうしよう、と彼自身の与り知らぬところで彼の中の何かが決めてしまった、そんな感じだった。
 思うに、これはノアとして覚醒したときに似ている。
 ティキ・ミックなるポルトガル出身の浮浪児上がりの移民に、突然ふって沸いたあの優越的な感情。
 そしてそれに対する猛烈な反抗心。
 そう。
 覚醒したばかりのティキは、ノアである自分が嫌いだったのだ。
 そんな能力も、感情も持ちたくはなかった。
 その日暮らしでも楽しい仲間がいて、いろんな場所であくせく働きながら流れの暮らしを楽しんで飄々とけれど自由に生きていられたあの頃の自分でよかったのだ。
 遺伝子のせいだと言われても納得はできなかった。
 学のないティキは聖書など読んだこともなく、ノアの洪水伝説などという何千年も昔のあったかなかったかも分からないような話など聞いたこともなく、ましてまだ生物学会でもほんの数年前に発見されたばかりの遺伝子だ染色体だなどというものが人間を人間たらしめている根本なのだと言われても、まったくもって理解不能だった。
 ただ、生まれ落ちた瞬間に、決められていることがある。そのことだけは理解した。
 運命とか宿命とかそういった人と人との交わりが生む偶然の重なりではなく。自分の意思で選んできた道が他の誰かの思惑に乗っ取られていた、その誰かもやっぱり他の誰かの思惑で動いていたような果てしのない連鎖の中での状況変化でもなく。
 ただ生まれる前に、母なる者の体内に宿る以前に、さらにはその母が、父が生まれてくる以前の遠い昔、ティキ個人にはどう手出しのしようもない場所で勝手に植え付けられた。
 そのことがどうしようもなく、なんの根拠もなく、嫌だった。
 家族は愛しい。その感情は確かにある。
 だからこそ悲しませたくないと思い、口にはできないこの自身への嫌悪感。
 なんとなればティキ・ミックという男には、生まれ、育ちのどこをとっても他人に対する無用な優越感を抱く余地はなかった。ポルトガルの港町で誰とも知らぬ女の腹から産み落とされて以来、親もおらず、兄弟もおらず、最初の記憶からして既に親ではない誰かに手を引かれての移民暮らし。鼻から上も下も関係ないのだ。自分が流民であり社会的には下層民として位置づけられると知ってからもだからどうだと思う気持ちの方が強かった。ひとところに縛り付けられいつなんどき権力者の気まぐれですべてを奪われるような暮らしよりも、自由に仕事を選べてヤバくなればさっさと逃げ出して、それでもちゃんと仲間がいて、自分は結構幸せだと、そう思っていた。
 そして同様に、ミランダのように生まれ暮らした街で一所懸命に働いて(たとえクビばかりでも)ささやかな日常の喜びを甘受しながら生きる。そういったのもまた一つの幸せだろうと。
 それは理解できる。
 理解できることについては寛大でいられる。
 だがしかし。遺伝子だの何千年前の神との契約だの。聞かされたときにはなんじゃそりゃとしか思わなかったノアの記憶。
 覚醒よりこの方だんだん現実味を帯びてくる過去の人物の記憶は彼を混乱させるばかりだった。
 そんなティキに対し、千年公はあからさまに過去の指命とやらを押し付けてくることはしないが、多分まだ待っているのだろうなと彼はなんとなく察していた。
 やがてノアとしての彼が現実これまで生きていた人間「ティキ・ミック」を凌駕する日を。
 そんな千年公の思惑とは裏腹に、未だノアの記憶に抗いながら生きている、それが今のティキだった。

 従って、ミランダと結婚、などという普段の彼らしからぬ暴挙を決行しようと決めたのは、その反抗心からきた派生といってもよい。
 取るにたりない塵芥のような人間「ティキ・ミック」にとって、やっぱり有象無象(ことによってはそれ以下)のミランダ・ロットーはまことにもってふさわしい花嫁のように思われた。
 ティキ・ミック卿としての姿でしか会ったことがないが、彼女ならば浮浪民のティキ・ミックを受け入れてくれそうな気がしたし、適当な言い訳で騙し通す自信もあった。イーズを邪見にしたりもしないだろうし、貧乏暮らしを厭うこともないだろう。きっと子供を何人も産んでその面倒をよく見て、たまに姿を消すティキのことを愚直なまでに信じて待っていてくれるだろう。
 そうやって自らに柵を用意してまで逆らう人間「ティキ・ミック」は既にしてノアに負けているのかもしれないけれども。塵芥のような人間にだって失いたくないものは存在するのだ。


 運命は流転する。
 人間には到底抗い難い力を持って。
 それをティキが思い知ったのは、やはり千年公からわけのわからない依頼ごとを受けてトルコあたりまで行かされた後、ロードが告げた一言からだった。
「あの女、エクソシストになっちゃったよぉ」
 ロードのいうあの女、が他ならぬミランダ・ロットーのことだと聞かされても、当初彼は何かの悪い冗談か、同姓同名の別人だろうと本気で考えていた。
 ミランダのことをロードが知っていたとは思っていなかったし、よもや彼が結婚を考えているなどとは千年公にも知られていないはずのことだったからだ。
「イノセンス、持ってたんだってぇ」
 ロードは底意地悪げに笑い、その瞬間ティキは彼女を絞め殺したくなる衝動を咄嗟に抑えた。
 激しい怒りを抱えたまま、千年公に謁見した彼は表向きは冷静に、普段の彼どおりだったが多分千年公にはバレバレだっただろう。
「知ってたんすか、千年公」
 ならなんで最初から言ってくれなかったのか、という問いは「イイエ」という千年公自身の返答によって躱された。
「本当に?」
「ワガハイもすべての適合者に会った途端わかるわけではありまセン。あの街に確かにイノセンスの気配を感じてはいましたが、そもそもイノセンスとは発現して初めて分かるモノ。イノセンスと出会う前の適合者は基本的にはタダの人間と同じなのデス」
「ならなんで……」
 自分にあの娘の面倒を見させたのか、という言葉は飲み込んだ。この後に及んで深入りしかけていたとは知られたくなかったからだ。
「アナタがあの街にいる間にイノセンスが発現すればすぐ対処できますし。あの娘に関して言えばむしろマイナスの引き金になることを願っていたのですガネ」
「マイナス?」
「よいAKUMAになりそうだと思ったのですヨ。あそこまで絶望に嘆き暮らしている人間はその素質がありマス」
 それは最初聞かされた通りの理由で、ティキは迂闊にもそれを忘れていた自分に愕然とした。
 ミランダの不幸はティキのような下層民にとってはありふれた馴染み深いものだったので、さほど本気で受け取っていなかったのだ。壮大な悲劇ではなく、むしろ日常的な三文芝居。物悲しさは感じてもAKUMAの温床になりうる要素は欠けていた。
 ミランダの絶望はそこまで深いものだったろうか。
 否。あの時点ではそんなことはなかったと彼は思う。どんなつらい目に会っていても、毎日泣き暮らしても、それでもちゃんと生きる意思は失っていなかった。いつかはと希望を抱いて生きていたはずだ。
 一体何故と思うにつけ、ロードから詳しい事情を聞かされて、ティキにはその原因の察しがついた。
 イノセンス。
 
 ティキに取り憑いた悪夢がノアの遺伝子だとするならば、ミランダに取り憑いたのは忌まわしくも神なるものの意思だった。
 圧倒的な力でねじ伏せられた塵芥の現実は、それまで凡庸なりになんとかしがみついていた彼女の希望を徹底的に打ちのめしたのだ。
 いつかはという願いを打ち砕き、抗う意思を抑えつけ、従えさせる。
 幾度も繰り返された同じ日々に彼女の心は壊れた。
 救いのない現実に足掻く力を奪い、絶望に追いやりながら、最後の最後で救済という甘い餌を用意するのは神なるものの常套手段だ。他ならぬ自身が原因であることを棚に上げて。
 冗談じゃない。悪いのはお前じゃないか。お前が、お前さえ、彼女を選ばなければ。
 激しい憎悪でもって、生まれて初めて、彼は偽りの神を呪った。
 それは彼に与えられたはずのメモリーではなかったけれど。
 ノアの一族は誰彼にせよ、神なる存在を憎む。
 選ばれたが故に、選ばれなかったが故に、その力が、意思が、運命を思うがままにするが故に。

 その憎悪を抱いた翌日、彼は千年公の依頼を受けた。
 初めての、神の使徒殺しを。

 依頼を終えて普段の彼に戻る前、ティキはちょうど中間地点となる彼女のかつて住んでいた街に立ち寄った。
 もはやそのどこにも彼女の気配はなく、少し前までいたはずのイノセンスとやらの気配も感じ取れず。(もし気付いていたら早々に壊していただろうに、返す返すも口惜しい)
 それでも名残を惜しむように彼は歩く。
 歩きながら考える。
 あの頃。まだ人間「ティキ・ミック」としてノアである自分を受け入れ難かったあの頃。
 卑小な存在で、それでもささやかな幸福に満足していて、次々職をクビになる彼女に付き合ってヤケ酒を煽りながら格好だけは紳士で、でも中身は普段の彼で、笑ったり怒ったり呆れたり、泣いたりつまらないなりに真剣に悩んでいたりする彼女の傍にいた頃。
 彼女は自身が嫌いだとよく泣いたけど、でもティキはティキなりに、あの頃の彼女が好きだったのだ。
 だからそう、こうして歩きながら彼女の姿を知らず探し、もし会えたならまた親切ぶってお説教にでも及んでやりたいと思うのだ。

 神様なんかに愛されちゃって、どうすんだよ。
 きっと幸せになんかなれないぞ。
 オマエ、ちゃんと考えろよ。何が幸福かってそりゃあやっぱり…… 

 愛する者といっしょになることだろうがよ、となり損ないの花婿が呟き、彼女のいない街でその声は届くあてなく消えた。